クールジャパンは、日本嫌いを大量生産する / 漱石は「三四郎」で根拠のない日本礼賛に警鐘を鳴らしている

八雲は日本人を天使であるかのように書いて気が狂いそうになった
 上京する三四郎が、広田先生と汽車で向かい合っている有名な場面がある。
  「・・・まだ富士山を見たことがないでしょう。今に見えるから御覧なさい。あれが日本一の名物だ。あれよりほかに自慢するものは何もない。ところがその富士山は天然自然に昔からあったものなんだからしかたがない。我々がこしらえたものじゃない」・・・
  三四郎は日露戦争以後こんな人間に出会うとは思いもよらなかった。どうも日本人じゃないような気がする。
 「しかしこれからは日本もだんだん発展するでしょう」と弁護した。すると、かの男は、すましたもので、
 「滅びるね」と言った。・・・  ――熊本でこんなことを口に出せば、すぐなぐられる。・・・
 「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より……」でちょっと切ったが、三四郎の顔を見ると耳を傾けている。
 「日本より頭の中のほうが広いでしょう」と言った。
 「とらわれちゃだめだ。いくら日本のためを思ったって贔屓の引き倒しになるばかりだ」
 この言葉を聞いた時、三四郎は真実に熊本を出たような心持ちがした。同時に熊本にいた時の自分は非常に卑怯であったと悟った
 
 漱石は五高でも東大英文科でも、小泉八雲の後任であった。ことある毎に学生から、小泉八雲と比べられ些か辟易していた。八雲が五高で教えていた時には日清戦争があり、三四郎が五高生の時日露戦争という塩梅である。日本の「偉業」に沸き立つ学生に、八雲の日本礼賛は心地よかったに違いない。
 広田先生の言葉は、流行の日本人礼賛には実体がない事を揶揄して、視野の狭い世間や学生を批判している。
   「とらわれちゃだめだ。いくら日本のためを思ったって贔屓の引き倒しになるばかりだ」は、八雲にあてた言葉でもある。
   「この言葉を聞いた時、三四郎は真実に熊本を出たような心持ちがした。同時に熊本にいた時の自分は非常に卑怯であったと悟った。」は、学生と日本人に期待した態度である。
 

 東大で八雲の同僚であったバジル・ホール・チェンバレンも『日本事物誌』で
 「来日後、数年の間、彼(小泉八雲)の日本熱は異常なほど昂進した。ハーンは神々の国を発見し、彼の『知られぬ日本の面影』は日本を手放しで絶賛したが、その日本なるものは、実は彼が自分は見たと勝手に思いこんだところの日本にしか過ぎない」と釘を刺している。

 授業が始まって、三四郎は広田先生の家に下宿している学生と知り合う。そこに小泉八雲の事が少しばかり出てくる。

  「赤門をはいって、二人で池の周囲を散歩した。その時ポンチ絵の男は、死んだ小泉八雲先生は教員控室へはいるのがきらいで講義がすむといつでもこの周囲をぐるぐる回って歩いたんだと、あたかも小泉先生に教わったようなことを言った。なぜ控室へはいらなかったのだろうかと三四郎が尋ねたら、
 「そりゃあたりまえださ。第一彼らの講義を聞いてもわかるじゃないか。話せるものは一人もいやしない」と手ひどいことを平気で言ったには三四郎も驚いた
 小泉八雲が逝去したのは1904年、『三四郎』脱稿は1908年である。汽車の場面が、八雲の日本観への批判であれば、ポンチ絵の男の言葉は、同僚教師八雲の振る舞いへの不満である。 

 
『古代の豊かさを現代に』のなかで鶴見俊輔は
 「非常に感心して日本だけを研究した人は、ある時期を過ぎると反動が起こって日本をものすごく嫌いになる」と語っている。その筆頭が小泉八雲で、彼は後に
 「日本人を天使であるかのように書いた事を考えると気が狂いそうになっ」て日本から脱出しようとしたことをあげている。

 前出のチェンバレン自身、初めは日本に感銘した日本研究者であったが、後にこう書くようになる。

 「東洋人が楽器をギーギー鳴らしたり、声をキーキー張りあげるのは、音楽といえたものではない。だがあの低級な代物をもし音楽と呼ぶことが許されるならば―それはこの美しい語を汚すものであるけれども―もしそれならば、音楽は神代の昔から日本にあったと言ってよいだろう。・・・なにとぞ二十一世紀が来るまでに、三味線、琴、その他あらゆる種類の和楽器が薪に化してしまうことを切に望む。そのお蔭でもし貧乏人が暖を取ることが出来たなら、その方が本来の目的よりも、余程有用な目的に役立つ」『日本事物誌』

 日本に長く友情を持ち続けた文化人、例えばバーナード・リーチは、朝鮮や中国や中東にも関心を持ち、日本に対する相対的で安定した評価を形成していた。

 いま日本政府自体までが、アジアを見下し中国・朝鮮を敵視して鼻持ちならない。偏狭でデマに満ちた組織は、善意の友人を落胆させ離反させるのが常だ。オリンピックの終了と共に反動は一気に押し寄せるだろう。
   漱石が広田先生に言わせた言葉は、時を超えて現代の日本をも照射している。やはり希代の文豪である。

記 政府のクールジャパン戦略は経済産業省にクールジャパン政策課を置き、官民ファンド「クールジャパン機構」を派手に打ち上げて始まったが、早々と2017年3月末時点で約44億円もの損失。出資金693億円のうち、586億円が政府による出資となっている。設立から4年が経過した時点で投資案件の4割が赤字累積状態。

敗戦後、混乱もなく占領軍の進駐が行われたのは何故か

 敗戦後、混乱もなく占領軍の進駐が行われたのは何故か、直前まで徹底抗戦を叫んでいたのではないか。合点がいかない。渡辺清『砕かれた神』(この手記は天皇のために死を覚悟した戦艦「武蔵」乗り組みの少年兵渡辺清によって書かれ、敗戦直後の9月2日から始まる)にこんな逸話がある。
 「マニラの女性はしっかりしていた。スカートの内にピストルをひそませて日本兵を狙っていたものだ。レイテ沖海戦後、おれたちは内地行きの便船を待って、半月ほどマニラ市内にとどまっていたが、その時も、日中でも物騒で一人歩きはできないほどだった。通りがかりにさりげなく寄ってきてズドンとやるからだ。売春婦に化けた女学生が兵隊を部屋に誘いいれておいて殺すという話も聞いた。しかもそれは欲得からではなく「抗日」とフィリピンの独立のためだったという。・・・今になってみるとその志の高さにうたれる。立派だったと思う。むろんそれはフィリピン女性のうちでもごく僅かだったにちがいないが、おれはマニラにいる間、フィリピン女性が日本兵といっしょにくっついて歩いている姿を一度も見かけたことはなかった。1946年3月19日


 米兵に大和撫子が誘拐され数十人に輪姦される事件が相次いでも、日本政府による米軍専用の特殊慰安施設が賑わっても、大和撫子を守れと覚悟の突撃する者は誰一人いなかった(敗戦僅か3日目に戦後第1号の内務省通達が出る。さすが日本の官憲は「優秀」である。米軍専用売春宿設置命令であった)竹槍攻撃による一億総玉砕を
裏声で叫んでいた若い将校は、忽ち闇米の担ぎ屋に変身。進駐軍に特攻をかける軍人もなかった。

 他人をけしかける怒声だけの軽薄な人間が議員や役職に祭り上げられる、しかしいざ自分が実行する段になると途端に意気地がない。そんな恥ずかしい文化が、何十年も我々に蔓延しているのだろうか。会社でも大学のサークルでも職員会議でも、冷静な分析と健全な懐疑精神による議論を鬱陶しがる。そそっかしく短兵急な振る舞いを有り難がるのは、共同体が急激に壊れたからだと僕は考えている。長い時間の経過と環境の変化の中で、人を評価する「遅い」時間の流れに耐えられないからだ。辛うじて残り弱々しく再生しかけた共同体も壊れ続けている。

 日本軍のインドネシア占領統治が比較的うまくいったのは、オランダ軍による苛烈な支配が先行していたためであるという言い方がある。
 被占領後の無抵抗振りは、米進駐以前の日本が日本軍に占領されていたのだとでも考えなければ説明しにくい。内務官僚、司法官憲、初中等教員らの意識は、軍人化して見苦しく傲慢であった。民間組織までが「報国会」じみて険悪な顔、暴力的振る舞い言葉遣いになっていた事が、様々な「戦中日記」からもよく分かる。むしろ町内会役員のほうが、権威をかさに横柄であったらしい。
 権限を持たない故に軍人以上にfanatic=狂信的にならざるをえない疑似軍人に、日本は日常を占領されていた。それ故、私生活に踏み込まない占領軍、敬礼を強制しない、物資横領をしない、竹槍訓練で玉砕を絶叫しない、天皇を神扱いしない米軍は、民衆にとって「歓迎」であった。チョコレートや缶詰はくれるし、鬼畜の顔をしていない彼らはやさしく笑う。政治犯は解放する。共産党が「解放軍」と見誤ったのも無理はない。そのうち、京都や奈良を空襲しなかったのは米軍関係者の配慮らしいとのデマ=「ウォーナー伝説」(ウォーナー自身が明確に否定している)までがまことしやかに伝わり、感謝の石碑が各地に造られ現存する。

 戦中も敗戦後もそして未だに、小学校も大学も、デマに依存し翻弄される精神構造がある。実に率爾である、そそっかしくて危うい。京都空襲は実際にはあったが大空襲がなかったのは、大空襲の優先度が低かったために他ならない。人口が多く、軍需工業の拠点が優先されたからである。京都の大空襲は間近に迫っていたのが事実である。

記 初め二万人だった特殊慰安施設特別女子従業員は五万人を突破。朝鮮人女性は一人もいない。女性を集める費用や施設費は概算で五千万円と見積られ、この金は大蔵省斡旋で、勧銀が三千三百万円を無担保で融資した。当時の三千万円は現在の五百億円と言われる。

ピエロも自己表現に向けて団結する

米俳優の労働組合“SAG-AFTRA”の声優たちは
1年に及ぶストライキを打ち抜き勝利した

 桑原武夫が鶴見俊輔と「開かれた日本語」という対談をしたことがある。彼は日本では「子どもの名前は親の独創性を示す芸術」と思われているが、ふりがなを付けなければ読めないのはおかしいのではないかと疑問をぶつけた。

鶴見 日本の教育のなかで綴り方というか、子どもの自己表現の場をどんどん減らしているでしょう、小学校、中学、高校、大学まで……。それと関係があるような気がしますね。子どもが自分のほうから書く文章というものを尊重していって、そういう時間をたくさんつくっていけば、初めは漢字をたくさん知らないわけですから、少ない漢字を使いこなしたいろんな文章を書いていくはずです。ところがその時間を減らす。それから試験の答案を全部○×式にマルティプル・チョイスでやりますね。そうなってくると、日本語を自分の側から自発的に使うということが狭められてきますからね。
 ・・・子どもの自己表現を重んじるという教育観が大正時代にはじまったんだけれども、戦争時代にちょっと薄れて、また復活してきたのに、日本が豊かになってきてからだんだん押されてきているんですね。これはいいことじゃないと思います。自己表現というのは、教育者として採点するのに困難で、教師が自分の器量で採点するほかないから不安なんでしょうね。だから機械をとおして採点させるわけだけれども、その機械をとおして採点させるのが科学的だという、その信仰があまり科学的根拠がないのでね、困ると思うんですよ。
                   『言語生活』1981年7月号

 親の自己表現の機会が何処にもなくなってしまった。人間的価値を優先する「宗教教育」が「宗派教育」の胡散臭さに敬遠され、親に残された表現は自分の子どもの名前と学校歴だけになってしまった。
学校歴は能力がなければ自由にならない。それ故子どもに「悪魔」や「王子様」と名付ける事を自己表現代わりにする者が横行する。手引き書や自称adviserも現れて親の見栄と不安を煽る。
 学校が論文や作文などの表現に臆病になり漢字を使う機会を減らしてしまった事が、その元凶であるという指摘は胸におちる。江戸時代には豊かであった色に対する感覚までが、衰弱し切り日常の色彩用語はカタカナに覆い尽くされている。

 自己表現を重視すれば「教師が自分の器量で採点するほかないから不安」になる。己の採点の自由な根拠が奪われているためである。自己表現する自由のない者は、弱者の表現に神経質になり弾圧に手を貸しがちである。

 笑いも報道も教育もその表現の本質は「権力批判」に尽きる。笑いの現場から「権力批判」が禁じられたとき、どうなるかを「吉本騒動」は示した。表現の中身で笑わせることが出来なくなった芸人は、仲間内の秘密を暴露したり弱い立場の芸人をからかい小突き、ひたすらドタバタして可笑しくもないことをずっこけて見せ大声で笑うしかなくなっている。笑いを禁じられた芸人の悲しみをピエロは表している。


 バラエティ番組『夢で逢いましょう』は1966年迄、『シャボン玉ホリデー』は1972年で打ち切られ「権力批判」の笑いは電波から消えた。
 大森実が「米軍の北ベトナム・クインラップのハンセン病病院を爆撃」のスクープを報じたのが65年、毎日新聞が米大使館に屈して大森が退社したのは66年。日本の紙面から体制批判の姿勢が遠のく。
 管理主義教育のメッカとなった愛知の東郷高校は68年に設立されている。教頭法制化が74年 主任制が75年。教室から批判精神の息吹が聞こえなくなる。
 権力批判が、この時期に様々な分野で封じ込まれた。何事にも惰性や余力はあり一気に進むわけではない。
 『夢で逢いましょう』や『シャボン玉ホリデー』を担っていた人々が寿命を迎え、管理教育に抵抗する世代が引退、報道が広告代理店に支配され言論人が姿を見せなくなって、一気に事態が悪化したように見える。しかし事態はゆっくり慢性病の様に深く進行していた。
 桑原武夫のようにそれを子どもの名前の付け方に発見し注意喚起しても、大方は笑うだけで僅かに鶴見俊輔が応じる程度であった。大勢が「危機感」を露わにしたとき、日本は既に骨の髄まで病に冒され死に体。若者はオリンピック絡みのスポーツに意識も身体も支配され身動きならず、意識の覚めた者は仕事を奪われ生活の糧にさえ困窮し身動きならない。誰も彼も「自己表現」を忘れたかのようだ。恐ろしくてそれを言い出せないでいる。


  合州国には、SAG-AFTRA(Screen Actors Guild - American Federation of Television and Radio Artists「テレビ・ラジオ芸能人と映画俳優労組」があり、組合員は16万人。劇場やテレビはSAG-AFTRAと労働協約を結ばなければならない。だから、強大な映画会社やTV局とも対等に交渉することができ、俳優らの権利が向上し自由な政権批判も出来る。そればかりではない、吉本のような芸能事務所が巨大な支配力を持たないよう、その機能は分離制限されている。(タレントのスケジュール管理や世話などの「マネージャー」業務、仕事斡旋や契約などの「エージェント」業務、事務所が企画・制作など「プロダクション」業務が法律によって分離されている)
 

戦争指導選良たちの、幼稚で狂信的な現実感覚。   それは「戦争紙芝居」から生まれている

最新式の「戦争紙芝居」、在外公館での天皇誕生日
   承前←クリック ノモンハン事件の師団長小松原中将は辛うじて残ったテントの中で 
 「もう、こうなればどうしょうもないな。しかし日本の兵隊さんは強いそうだからなんとかやってくれるだろう」と頭を抱えていた。戦争のプロである筈の陸軍大学出選良がどうして「日本の兵隊さんは強いそうだからなんとかやってくれるだろう」と幼稚な考えに落ちたのか。彼が指揮する兵隊の装備は16世紀頃の装備しかない、それで勝つ事が出来ると本当に考えていたのか。

 戦前戦中の小学校
学芸会は、戦争紙芝居であった。そこで理屈抜きの「日本の兵隊さんは絶対に強い」という了見が叩き込まれた。
 第1次世界大戦時のヨーロッパを視察すれば、近代戦の残忍なる殺戮や「戦争の害毒、軍備の危険、軍国主義の亡国」を
、水野広徳大佐のように実感する。(水野は、以後「我国は列国に率先して軍備の撤廃を世界に向かって提唱すべきである。これが日本の生きる最も安全策」と言い切り、1923年の「新国防方針」に対しては、日本の敗北以外にないと確信していた) 批判的思考の余地のない硬直した空間では、戦争紙芝居の幼稚な認識は国民的信仰となったのである
 戦争紙芝居教育を経て中学校、士官学校、陸軍大学を「優秀」な成績で駆け上り、幼稚な思想で2000万アジア民衆を道連れにしたのか。


 牧野伸顕の『回顧録』に、昭和初年英国の女流評論家と会食したときの会話がある。女史は戦争紙芝居の話を聞いて
津々浦々の小学校でそういう奇妙な教育がおこなわれている。そういうなかから職業軍人が出てきて、もし政権をとれば必ず戦争を仕掛け、日本を亡ぼすでしょう」と忠告したと書かれている。
 1920年改造社の招待で来日したバートランド・ラッセルも、小学校と中学校を見学。兵士養成所でしかない。これほど危険な学校をみたことがない」と書き残している。←クリック  

 日本の教師は世界で最も優秀であるとの言説は、右にも左にも官にも民にも古くからあった。かつては一学級70 名を越える学童生徒を抱えながら、数多くの行事・事務をこなし国際的にも高い学力を維持していた。今や日祭日なしに勤務して過労死してストもしない。この「優秀性」に逃げ込んで、校長室はあたかも小松原師団長の天幕のようになっている。
 負けることを禁じられた兵士は、時代遅れの装備と届かぬ補給で死体の山を築きながら突撃し続けた。それが紙芝居並みの「日本の兵隊さんは絶対に強い」信仰を狂信にまで高め、「いつか神風が吹く、現人神をいただく日本が負けるはずがない」と非合理な思考を伴い、アジア数千万、日本数百万人の犠牲者を出したのである。
 元々日清戦争は、清国軍閥の一部を降伏させただけだし、日露も局地戦に勝ったに過ぎない。中国やロシアに勝ったとは言えない、モスクワや北京を占領していない。にもかかわらず有頂天になり、現実的な危機感を失ったのである。日清戦争を少し疑いさえすれば、紙芝居並みの「日本の兵隊さんは絶対に強い」信仰は生まれなかった。

  少しずつ負ける事は、諦める事とともに悪くないどころか必要な事である、有頂天を戒め健全に自己批判出来るからである。平凡とはそうして形成される価値である。


記 いまも在外公館では「天長節」と称する天皇誕生日の招待会が行われ、現地の名士や現地駐在商社員が正装して参列する。そこで大使は、天皇夫妻の写真を前に日本の繁栄は天皇のおかげと演説し、商社支店長がバンザイ三唱の音頭をとる。感激した商社員=自称現代のサムライたちは、自宅に天皇一家団欒の写真を掲げるようになるという。初め恥ずかしげにやがて奢り昂ぶり、新「戦争紙芝居」は続いている。
 疑う態度が欠けている、危うい。

校長が「私は教委から授業を禁じられています」と胸を張ったのは、何故か

ペスタロッチは政府から危険人物視された
 校長に、「教員の授業を評価するなら、評価するあなたの授業を見せてくれ」と職員会議で迫った事がある。校長は、「授業には見本というものはありません、それぞれ教師の教育観に基づいて行うもの」と先ず逃げた。「では我々の授業の何を見るのか、評価の基準がなければ評価は成り立たない。それが評価論の前提ではないか」と切り返せば
 「我々校長は、教委から授業を禁じられています」と胸を張った。
 別の高校である女子生徒が、校長に対話と授業を求めた。が逃げて校長室に内側から鍵をかけて籠もってしまった。そのときの顛末は、此所←クリックにある
 授業を切望して、教務とやり合った校長を僕は一人しか知らない。彼は一週間に8時間の数学を受け持ったが、それでも少なそうな顔をした。登校時にはいつも火ばさみとゴミ袋を持って歩く姿に、ぺスタロッチを想った。

 何故校長が授業から逃げるのかは、比較的簡単に分かる。教員養成制度も教員採用試験も管理職試験も機能していないからである。彼が学ぶことも教えることも好きではなく、教職に最も相応しくない事をそれらが見抜けなかったからである。
 分からないのは、「授業を禁じられています」と胸を張る神経であった。恥ずかしげに言うのならまだ分かるが、胸を張るのには驚いた。悪夢を見るような気がした。

 宇都宮徳馬が好んだ話に「石山デン隊長」がある。石山とは「塹壕」で、デンとは「出ん(出ない)」である。日露戦争「二百三高地」攻防戦の指揮官である。難攻不落を誇るロシア軍要塞への死の突撃命令を絶叫しながら、自らは塹壕から一歩も出ない連隊長。そのわけを、彼はこう言ったのだ
 「自分は天皇陛下から作戦を命じられた大切な体だ」
 だから兵士たちは、彼を塹壕から出ない指揮官という皮肉を込めて「石山デン隊長」と呼んだ。

 石山デンが目指す真っ当な将校なら、命令がどのように伝わりどのように敵に打撃を与えているか最前線で具に見なければならない。その様子によって作戦は変えねばならぬからだ。彼には勝つ覚悟もない。
 件の校長が「教委から授業を禁じられています」と胸を張ったのは、「お前たち平教員と違って、私はお上からの命令を伝える大切な人間だぞ」と言うつもりであったのだと今になって思う。彼は学校における「石山デン」であり、校長室に籠もる。彼にとって大切なのは、身分であり、生徒や授業に対する愛着は何処にもない。学校や教育行政がどうあるべきかを考察する気はさらさらない。

 日露戦争は大国ロシアに勝った事だけが語られるが、兵隊は軍医総監のために辛酸を嘗めた。戦死者4万8400余名に対して傷病死者3万7200余名、うち脚気死者は2万 7800余名にのぼった。日本軍の行軍はまるで幽霊の行列のように見えたという。それが白米食による栄養障害であることはロシア軍も知っていた。戦死者数には満足に歩けない脚気患者が相当大量に含まれていたと考えねばならない。公式記録では
陸軍の脚気患者は25万人。麦飯にした海軍の脚気患者は105名。
 学閥の面目のために白米食を続けた頑迷な軍医とは森林太郎である。鴎外はこの膨大な死者について何も書いていない。鴎外とともに乃木希典の無能振りも目立った。兵が病気を抱えながら突撃して死んでゆくのに、無能な指揮官たちは勲章の数を数えていた。案の定、戦争後将軍たちは爵位の大盤振る舞いを求めた。(この時、陸軍は少将でさえ全員男爵になった。だから戦史は歴史家でなく軍人が書くという杜撰さ)
  「我々校長は、教委から授業を禁じられています」と胸を張って授業から逃げるのは、民を侮る明治以来の伝統だと分かる。こんな連中が軍隊を持つのは危険極まりない。自分の役割が消えたとき人は狂信的になるからである。民の死者だけが増える。まさしく悪夢である。

 1939年のノモンハン事件は日露戦争後40年経っているが、関東軍1万5000名が壊滅する事態になった時ですら、師団長の小松原中将は
 「もう、こうなればどうしょうもないな。しかし日本の兵隊さんは強いそうだからなんとかやってくれるだろう」とテントの中で頭を抱えていたと、司馬遼太郎は『戦争と国土』(文春文庫)に書いている。相も変わらず、石山デンである。
 2019年になった。教師が過労死しても為す術なく校長室に籠もって頭を抱える管理職の姿が同時に浮かぶ。これこそ紛れもない日本の伝統であり、学校に校長は要らないのである。

「出来」ても0点をとることの主体性 Ⅰ

ない方がいいことに莫大な費用
 大分前の事だが「教育再生会議」でノーベル賞受賞の野依良治座長が
 「塾をやめさせて、放課後子どもプランをやらせないといけない。塾は出来ない子が行くためには必要だが、普通以上の子どもは塾禁止にすべきだと思う・・・塾の商業政策に乗っているのではないか」と発言して注目を浴びた。
 塾寄り行政の文科省の逆鱗に触れたか、「日本の数学のレベルは学校ではなくて、塾によって維持されている、という面もある」とJR東海会長が反論するなど塾業界関係者の怒りが爆発。中には、塾禁止は憲法違反と息巻く者もある。彼らの発言を見ると、言論や表現の自由より営業の自由が優先している事が分かって面白い。まさに新自由主義政権以降、教育の民営化は着々と進んでいる。
 野依良治博士の教育観は、教育新聞web版←クリック で閲覧できる。教育の現状への危機感が滲み出ている。
  ただ同意しかねるのは、「公立小学校で放課後に児童を指導し、「祭り」「演劇」「ダンス学芸会」などを体験させる「放課後子どもプラン」。放課後の少年少女たちまでを「指導」したがることと、「塾は出来ない子が行くためには必要だが」としている点である。後者について、異を唱える。
 
 「出来る子・出来ない子」という分け方は、教育を権利とする視点から逸脱している。教育の原点は「分かる喜び」にある。「出来る・出来ない」は、競争の中に組み込む乱暴さがある。そもそも「出来ない」ことはいけないのか。首相や大臣が公式の場で漢字を読めないのは、大いなる恥ではあるが何度やっても辞任はしない。首相は読めなくても良いが、子どもは読めなければいけないのか。逆ではないか。


 出来るがやらない生徒はどうか。僕が中学生の時、ほぼ全科目「1」の親友がいた。彼らは出来ないのではない、点数に興味・感心がない。休み時間や放課後、僕の机に群がって「教えてくれよ」というときは真剣な目の色をしていた。練習問題を解き問題集もやっつけて「分かったぞ。オレの答案にも○付けてくれよ。母ちゃんに見せるんだ」と言うときは嬉しそうだった。中には札付きの不良少年もいて、体も大きく喧嘩は滅法強かったが、分かったときの喜び方は無邪気なものだった。彼も「たわし、オレにも○付けてくれ」と言った。←クリック        


 だが定期試験では、0点をとる。分からなくなったのかと聞けば「出来るよ、ほら」と解いて見せて笑う。どうしてと聞けば、「どうせ通信簿には「1」しか付かないんだ」と平然としている。(相対評価の時代で、五段階評価の割合を厳守しなければ内申書の信用度が下がり受験の障害となった。受験しない生徒の成績を操作して受験する生徒に回すのは日常化していた。それ故この時代、受験生の多い学校の担任になれば付け届けが山をなした)
 とはいえ彼らは、底抜けに明るかった。彼らは中学を出れば「金のたまご」として就職出来たからだ。暗かったのは、都立進学と私立進学の境界の成績に喘ぐ生徒たちだった。当時、私立高校の大部分は授業料が高い上に、都立高校の滑り止めであった。経済的に苦しく私立には行けない境界の生徒たちは、テストには目の色を変えた。顔色も青ざめて笑い声も浅かった。彼らにとって、出来るのに零点で笑っている連中は、まさに仏であった。←クリック  (分かっているのに点数をとらない連中こそが、自立した学習権の主体であった。学校的競争に振り回されて点数を稼ぐ我々こそがが惨めだった) 彼らは一方的に教えられるだけではなかった。彼らは様々な情報や秘密を僕に耳打ちしたり、不良少年の嫌がらせや強制から守ってくれた。生きた教養は、彼らがくれた。特別権力関係という言葉も、彼らの一人が教えてくれた。

 教師になり、やれば「出来る」のに点数をとらない生徒たちにあちこちで出会った。高校には落第があるから零点はとれないが、ギリギリの成績で進級する。僕は毎年繰り返されるその名人技に感心しながらもハラハラさせられ通しだった。 
 やれば「出来る」のに点数に無関心な生徒が仲間に教えると、なかなかうまく評判がいい。評判が悪いのは博士課程を出た事を自ら吹聴して、分からない生徒を見下げる若い教師であった。(ある日突然彼が教えるクラスで反乱が勃発。生徒たちは「そんなに俺たちに教えるのが嫌なら辞めろ。あんたに教わりたくない」とクラス中が教師に迫った。翌日から寝込んで欠勤、数ヶ月後退職届が出た) 「出来ない」生徒の思考のプロセスに入り込み分析するという、「教科指導」の肝心要の楽しみを面倒くさがったのである。(この点から考察すれば教職課程における「教科教育法」は「教育原理」にもまして重視されなければならない。しかし僅か2単位ではどうしようもない) この作業をサボって置きながら、低学力を嘆くのは犯罪と言って良い。
 教師が教えるより、生徒同士で教え合うほうが、互いの思考のプロセスに容易く入り込める。「出来る」者が「出来ない」者の思考の中に入るのも、その逆も大いに意義がある。その双方向があっての「分かる」でなければならない。教師にも、何故出来ない生徒が出るのかが「分かる」が必要なのだ。
 例えばこうして育った級友が、高級官僚と社会的弱者になった時、互いの心や生活を理解し対話することがどんなに大切か考えねばならない。対話の必要な課題が、難民問題や原発事故や慰安婦問題などとして頻発して、武力や制裁で威圧する愚が繰り返される。

 偏差値が上がるにつれて、教えあう雰囲気は貧弱になる。教えあう雰囲気の欠如が競争を煽り、偏差値を上げると信じる傾向が生徒にも親にもある。そんな雰囲気こそ打ち破るべきなのだ。
 他者の思考や身体に入り込み分析することは、自分の思考と身体を点検することでもある。独断に過ぎないあやふやな理解が、普遍性を増すのだ。だから他者は様々な意味で違いが大きいほどいい。
 野依博士はそこをとばしている。出来る者も出来ない者も同じ学校、同じ教室にいて共に学び合うことが必要なのである。偏差値による選別は「出来る者」のためにもなっていない。選別が進めば進むほど「出来る者」は、ひ弱になりTVのクイズ番組にしか使いようがなくなる。

 仮にこうした効果がなくとも、級友と助けあうことは悪くない。身近な相互扶助の機会を捨てて(偏差値による選抜がそうさせている)、「道徳」を説くのは傍ら痛い。級友への援助を通して、自然な相互扶助精神が育てば、「道徳」も「ボランティア」も要らない。異なった思考や身体の生徒との交流理解が続く事が友情を育み、ひいてはいじめも起きない。
 文科省や教委の「浅知恵」(塾業界依存による公教育の民営化)は、何ら事態を改善しないばかりか新たな問題を生み出し、教師の仕事を増やし過労死へと追い込むのである。追い込む為に、意図して「浅知恵」を乱発しているような気もする。こうした多忙化は、組合の組織率を低下させ、自主的研究活動から遠ざけ、地域や親との連携も不可能になるからだ。
 まるで熱力学第二法則そのままだ。ジタバタする度にエントロピーは増大する。

  分かっているのに0点を取って笑っていた連中は、僕に究極のジェントルマンズC=fairを教えていたのかも知れないと頻りに思う。

追記 「放課後子どもプラン」に吉本興業の名前を散見することが出来る。例えば、厚労省の放課後子ども教室について(https://www.mhlw.go.jp/file/06-Seisakujouhou-11900000-Koyoukintoujidoukateikyoku/0000054561.pdf)。此所にただならぬ気配を野依博士も感じたに違いない。

人類は互いに「自己天敵」、「進化」はおしまいか

自由と有り余る暇が進化をもたらしている
 フウチョウは極楽鳥とも呼ばれる。その鮮やかな色彩の羽や飾りを持った華麗な風貌と生態で人々を魅了し学者たちを惹き付けてきた。中でもカタカケフウチョウは光線のほぼすべてを吸収する究極の漆黒の羽とメタリックに輝く飾り羽を持っている。羽を広げ細い足を優雅に動す姿は、まるでバレリーナが舞うようである。舞台となる地面もゴミを完璧にかたづける。つがいを作る行為が芸術にまで昇華しているのだ。 
 とはいえ、鮮やかな色彩も器用な踊りは、天敵を招き危険に身をさらす。 その点ニューギニアの熱帯雨林は極楽鳥にとって文字通り極楽である。捕食者の不在と餌と水に恵まれていること、美しい進化の条件であった。
 その熱帯林1億ヘクタールが、1980年から2000年の間に人間の消費活動によって奪われ、現在1年に40,000種以上が絶滅している。(地質時代、種の絶滅速度は1000年に1種程度であった。対して、現在の生産活動による種の絶滅は、過去とは比較にならぬ速度で、1600年~1900年には1年で0.25種、1975年以降は、1年に40,000種と急激に上昇し続けている)つまり、人類は世界最大の捕食者となった。
 
  この最悪の捕食者=ヒトは、人類そのものの生存も危うくする。一発で広島型100発分の威力(一発で核の冬=地球規模の飢餓をもたらす)の原爆がまだ1万5000発も存在している。搾取を極限まで推し進めた大量消費の爆発は、生態系を破壊し人間の文化を窒息死させている。まさに人間は人間の天敵になったのである。原爆がわれわれの生存を脅かしているばかりではない、同じ人間同士が苛烈な競争に駆り立てられ死者を積み上げている。
 天敵の存在する環境では、生物は優雅な進化を享受できない。人類はもはや、知的芸術的天才を生み出せないかも知れない。第二次大戦後、気付いてみると偉大な芸術家・科学者・哲学者は出ていない。アインシュタインもサルトルもピカソも、すべて大戦前からの生を引き継いできた人々である。ノーベル賞も芥川賞も小粒になった。周恩来やホーチミンそしてゲバラやネルーも大戦前に青年期を過ごしている。政治家に至っては小粒どころか、ヘドロである。原爆と大量消費は、人類を人類の捕食者にしてしまった。同じ種同士は天敵とはなり得ない筈だが、ヒトは人類に対する「自己天敵」と化したのではないか。

 (免疫系は自分自身を攻撃しないとする「自己中毒忌避説=Horror autotoxicus」が20世紀初頭には主流であった。しかし、その後の研究により自分の体の構成成分を抗原とする自己抗体が発見されるにつれ、自己免疫疾患=Autoimmune diseaseの存在が明らかになった)
 
 青少年の日常は、捕食者同士の競争に明け暮れ、優雅な進化や成長を準備できないでいる。受験から部活から青少年を解放しなければならない。暇が有り余るからこそ、極楽鳥は様々に進化したのである。強制収容所には文化があり得ない。

   安部政権目玉で塾産業肝煎りの教育再生会議ですら、「子供は遊ばないと伸びない」(小宮山東大総長)という発言が出ているのだ。

王様に貰ったミカン

 深酒して 終電車に乗り遅れ、交番で補導された事がある。身分証明を見せると、巡査は慌てて「失礼しました」と敬礼した。修学旅行引率では、宿の仲居さんから面と向かって「先生はどこ」と聞かれた。「僕です」と答えると、仲居さんは 一瞬呆然の後 生徒と一緒に大笑いした。引率されたのが二十を...