ものを・・・正当にこわがることはなかなかむつかしい

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  『ものをこわがらな過ぎたり、こわがり過ぎたりするのはやさしいが、正当にこわがることはなかなかむつかしい』

と言ったのは、寺田寅彦である。それゆえ、彼は人々が無暗に恐れる現象に根拠がないことも見抜くのである。


  「大学の構内を歩いていた。病院のほうから、子供をおぶった男が出て来た。近づいたとき見ると、男の顔には、なんという皮膚病だか、葡萄ぐらいの大きさの疣が一面に簇生していて、見るもおぞましく、身の毛がよだつようなここちがした。

 背中の子供は、やっと三つか四つのかわいい女の子であったが、世にもうららかな顔をして、この恐ろしい男の背にすがっていた。

 そうして、「おとうちやん」と呼びかけては、何かしら片言で話している。そのなつかしそうな声を聞いたときに、私は、急に何物かが胸の中で溶けて流れるような心持ちがした」 寺田寅彦(大正十二年三月)


 科学者には、人々の認識を迷信や魔術から解き放つ社会的任務がある。実態を見抜き本質を追及してこそ科学者である。自由は科学者の属性、僕の父も在野の数学者でもあった。    

 父と祖母の姿も、寺田寅彦の描いた親子のようであった筈。しかし僕は祖母の顔を想像出来ない。表情が浮かばない。顔に症状が現れた祖母に向かって、「ばぁちゃん」と抱き着いただろうか。就学前の僕は無類の泣き虫で、父や母を困らせていた


 父方の叔母は「直兄さんな、勉強はよく出来やった。ばってん、でひな母ちゃん子でな。妹のあたいから見てん甘えん坊じゃった」そう言いながら古いアルバムを見せてくれた。「でひな」とは、たいそうという鹿児島弁である。写真には坊ちゃん顔をした旧制中学生が、上等そうな小倉の夏服に高下駄姿で庭の石垣に腰かけている。


 祖母の名「トメ」には、子だくさんに悩んだ曾祖父の願いが込められている。

 「松原トメ」の名を、「菊池野」(恵楓園自治会機関紙)に見出した時、眠ったまま面会したのは祖母かも知れないと考え始めた。祖母が父を産み育てた土地の通称が松原であったからだ。

 当時ハンセン病者は、療養所への「収容」と同時にそれまでの衣服も名も捨てさせられた。名を改めたのは手紙で感染の事実が知られ家族に迷惑が及ぶのを恐れたためである。迷惑を恐れて自死する者、親族による射殺や一家心中事件も後を断たなかった。それは偏見が人々にもともとあったからではない。

 全生園ハンセン病図書館にガリ版刷りの古い「無癩県運動」一覧表があった。自宅で療養する患者を療養所に囲い込めば、ハンセン病が消えるがごとき動きを行政と専門家が先頭に立ってやったことが「無癩県」という名称に現われている。治療の観点ではなく絶滅隔離の視線が伝染力の極めて弱い病気に投げ掛けられたのである。偏見や差別が先にあったのではない、意図的に作られた結果なのだ。(収容患者の範囲が浮浪患者から全患者に拡大され始めたのは、1925年衛生局長通達からである。狙いは窮乏患者を救うためではなかった。重症患者等の園内重労働の担い手を確保する狙いであった。1931年癩予防法から本格化する。

 現在の鹿児島県webサイトには、「昭和4年頃からは,各県において,ハンセン病患者を見つけ出し強制的に入所させるという「無らい県運動」がおこり」と、行政の作為を恰も自然現象のように記述している。事実は、県が「無らい県運動」を組織したのである。おかしな話である。療養所に送り込めば、なぜ「無らい県」なのか。

 療養所は厄介者の捨て場としての「外地」なのか。作家島 比呂志は、療養所を『奇妙な国』と呼んだ。その国境内は「日本」ではなかった。この国では滅亡が国家唯一の大理想であり、子孫を作らないために男性の精管を切り取ったのである。子どもも義務教育から除外。やがて死に絶える子どもには未来はないと断定した。

 

 1905年の帝国議会では、ハンセン病をペスト並みと決めつけ隔離を要求する議員に、内務省衛生局長は、

「(伝染病予防法は)急劇ナル伝染病ニ対スル処置デアリマスカラ、或ハ隔離ト云ヒ、交通遮断ノ如キ、其他此多クノ処置ハ、癩病ニ対シテ、直チニ適用ハ出来難イ」と隔離を退けていた。

 ところが初代全生病院長になる医師光田健輔は、渋沢栄一とともに「ペスト並みの怖い病気」という誤った印象形成に精力を傾け全国を遊説したのである。


   これまではただ遺伝病だと思っていたらいが、実は恐るべき伝染病であって、これをこのままに放任すれば、この悪疾の勢いが盛んになって、国民に及ぼす害毒は測り知れない。    渋沢栄一  

   ハンセン病患者を外来患者として病院が受け入れることは、ペスト患者を外来患者として受け入れることと其理に於て大差ない。  光田健輔 

  

 猛毒性のペストを引き合いにした「恐るべき伝染病」という極端な誇張は、資金集めと偏見助長の格好の標語となった。だが言葉の偽造は、我々を真実の発見から遠ざけ、実態や本質を隠蔽する。(コロナ対策行政が、繰り出す「ウイズ コロナ」や「新しい生活様式」などの標語も、コロナの実態と対策から国民の視線を遠ざけている)それを街の煽動屋ではなく専門医と渋沢がやったことに恐ろしさがある。僕が渋沢を新しい日銀券にふさわしくないと主張するのはこのためである。

   1953年からの2年、熊本市黒髪町の龍田寮児童(ハンセン病療養所菊池恵楓園入所者の子弟)通学をめぐる全国的事件があった。龍田寮事件とも黒髪校問題とも言う。この事件の最中僕は、堀に入って遊んだことになる。

 文部大臣や大学が混乱の調停にあたったが、同盟休校にまで発展、 1955年秋から子供たちは、親戚や熊本県内10か所の児童養護施設に極秘に引き取られた。

 この年に開校したての詫間原小学校に入学。この学校と黒髪校は、熊本市中央を流れる白川を挟んで、歩ける距離である。

 そこで、施設から通う三人組の一人と同学級になった。陰あるその子に妙に惹かれて遊びに誘った。しかし放課後になると、「施設のおばさんに遊んじゃいかんと言われとるけん」と三人で逃げるように帰った。校門の上から三人が白川にかかる橋を渡り、丘の麓に見えなくなるまで見ことがある。彼らの一人がひょっとすると「松原」君ではなかったか。父のすぐ下の妹も祖母と同じ時期に戸籍から消えている。ハンセン病療養所の夫婦は断種を強制され子どもを持てなかったが、恵楓園では患者が出産したケースがある。

記 画像は寺田寅彦、後方に写っている女性が母のアルバムにあった父方の祖母に似ていて気になる。       続く

戸籍から消えた祖母がくれた学童帽

 「ハンセン病療養所多磨全生園」で、塹壕のような溝が掘り起こされたのは2016年12月。開設当初から患者逃亡を阻止のために設けられた。新聞は発見と報道したが、おかしな言い方だ。古代の集落跡であれば、知るものも記録もないから「発見」と言えるが、この逃亡防止の溝で隔離された元患者は生存して、その生々しい記憶は今なお生きている。


 残土は積み上げられ土塁となったから溝はかなり深く急斜面、目や手足に障碍を持つ者が落ちれば這い上がれない。一度隔離されば火葬場の煙となるまで外には出られない。絶滅隔離を知らしめるおぞましい遺構である。

   

  この溝に入って遊んだ微かな記憶がある。小学校入学直前、少なくとも三度。熊本電鉄に乗り、大きな森のある駅でおりた。谷や資材置き場で遊び弁当を食べたまでは覚えている。資材置き場で足を滑らせてて出来た膝の傷は、今もはっきり残っている。帰りは父の背。

 新調の学童服・学童帽・ランドセルを着用して出かけた日もある。「汚れるから遊べないよ」と問うと、父は「今日は学校に行く練習じゃ」と答えた。


 この時の記憶が甦ったのは、菊池恵楓園と土屋文明の関わりを調べていた時だ。アララギの普及を目指して土屋文明は絶滅隔離政策下のハンセン病療養所にたびたび足を運んだ。

春の日に並びて吾を迎えくれし合志村の友らよ一年過ぎぬ          1938年『少安集』

と土屋は詠んでいる。熊本の北方に位置する合志村は、恵楓園の所在地である。

 その時を、 菊池恵楓園の畑野むめさんは 『検証・ハンセン病史』 河出書房新社刊  の中でこう証言している。

 

  「土屋文明先生は、弱い人によくする方でねえ。・・・前はね、外からここに来るなら、この患者地帯(溝で隔離された区域をそう呼んだ)に入るときは、目の少し出るくらいの大きなマスクして、予防着着て長靴ば履かにゃ、入られなかったの。参観人は皆そんな格好して入ってきよった。消毒液が置いてあって、そこを通って入ってきよった。 土屋先生はね、最初から私服のまま、とっとと入ってきて。自分の服着たまま重病人のところに行って、話をしたり。そういう人だったよ。 昭和十二年(1933年)においでたときも、(講話で)高いところにするような造りしてあるでしょう、それを「こんなものは取られんかね」て言うて。下りて一様に話したいってね。偉い人だけど、そういうふうな親しみやすい先生だったな。だけど、みんな畏れとったよね。「黒鉄の文明」とか言ってね。歌には、やかましゅうしておられた。畏れられちゃおったけど、弱いもんにはよかったなあ」


 文明がやってくる日、菊池恵楓園の歌人達は不自由な手足、不自由な目をおして門まで出向き歌人土屋文明を感激させている。白い隔離の壁を纏ってどうして、言葉と心の遣り取りが、共感相互理解が出来ようか。それは年齢、時代を問わない。


 その門の写真を見付けた時、僕は「溝」がどこに在ったか、なぜ父が入学直前の僕を三度もここに連れてきたのか。その手掛かりをつかんだ気がした。

 恵楓園正門は停車場の北に接し、「溝」は電鉄「御代志」停車場から北に伸びる線路伝いの森の中にあった。それが子どもには自然の谷に見えた。恵楓園の前身、九州7県連合立九州らい療養所は、「多磨全生園」と同年1909年開設。遊んだ1954年には側面も崩れ、森と一体化していたに違いない。


 気絶するほどの大怪我だったが、帰宅時には綺麗に包帯が巻かれていた。妹がいなかったのも。弁当の後眠ってしまったのも、次第に謎が解けた。小さな妹には僅かに感染の可能性があったが、学齢以降の子どもや大人には感染しないことを父は既に知っていたのだと思う。

 恵楓園正門を抜けた先の面会所に、眠り込んだまま誰かに面会した。「学帽・ランドセル姿」の僕を見たいと父に懇願したのは、誰だったのか。土屋文明を門まで出迎えた中にいたかもしれない。 祖母は和歌を嗜んでいたと聞く。   続く


クラブは教育の一環ではない

 「スポーツ体罰死を克服できない日本に、olympic開催の資格はない」

   宝塚市立中学柔道部顧問教師が、「部活動」で生徒2人に重軽傷を負わせ、「指導の範疇をはるかに超えた。体罰とすら呼べない」として懲戒免職になった。暴行傍観の副顧問も減給処分。

 驚くべきは、体罰や傷害で教職員が免職となるのは異例であることだ。この男は生徒がアイスキャンディーを食べたことに立腹。投げ技や寝技で背骨を折る重傷を負わせた。過去にも体罰を3度繰り返し、減給などの懲戒処分を受けていた。男は「最初は厳しめの指導と思っていたが、大変なことをやってしまった」と反省しているという。だが、免職処分がなければ「指導の一貫」と居直っていた可能性を否定できない。県教委は指導監督が不十分だったとして、校長も戒告処分。宝塚市長は「一歩間違えば生徒を死に至らしめた事件。厳しい結果は当然」と語っている。

   同じ兵庫県の神戸高塚高校校門圧死事件から30年経って、も体罰依存の「部活」構造は硬い。

 そんな国が、オリンピックに浮かれる資格はない。iocも「中高生のスポーツの体罰死を克服できない日本に、olympic開催の資格はない」と言う資格がない。利権太りの「スポーツ貴族」体制自体が、スポーツマンシップに程遠いからだ。 そもそも一体彼らはどのように選ばれているのか、そんな組織が一国の財政に平然と手を突っ込む事が許されるのは何故か。世界中が問うこともない、怪しさ漂う「聖域」である。

 校門圧死事件当時の兵庫県高校生徒指導協議会は、「校門」立番を高く評価していた。文科省の学校安全「研究指定校」でもあった。だからだろう、現場に付着した被害生徒の血痕は、警察到着以前に学校が流し去っていた。教育行政の「安全」意識が生徒の日常に向けられることはない。

 あれから30年も経って、ようやく「体罰による免職」という現実が示しているのは、30年もの間体罰死は「熱心さのあまり」の「指導の一貫」として処置してきたことに尽きる。  殺人を「処置(弾薬も食料も尽きた戦場で、動けなくなった兵を殺す命令をそう呼んだ)」と呼ぶ習わしは、旧帝国陸軍が蔓延させたものである。

  殺人教諭は懲戒免職、校長を戒告、教頭と教育長を訓告、教育次長2名を厳重注意、校門を閉めようと言い出した教員や生活指導部長に対しては処分は無かった。
 殺人元教諭は、有罪確定直後「警察的な校門指導を正義」と自著に書いた。皇軍から連綿と続く「犯罪を言葉で言い逃れる」「日本の麗しい」この伝統は、前首相の言行にも引き継がれている。

 そもそもクラブは学校教育の一環ではない。明治の日本人は倶楽部と書いた。教員も少年も対等の立場で「play」を楽しむ余暇活動である。中学生も街の叔父さんも校長もスポーツ愛好家として対等だから、体罰やパワハラがあれば告発も退会勧告もできる。加入も退会も自由である。
  
教育行政はこの自由と平等が嫌いだ。年代を貫く自由と平等は、地域活動を通して連帯と民主主義の精神と行動を養わずにはおれないのだ。

旧制弘前中生のストライキ

 旧制中学生や旧制高校生が、社会問題に関心を持ちストライキを組織した自治の「伝統」から少年/少女を隔離する手立てとしては「部活」ほど手軽で硬い物はない。1973~2001まで続いた高校の必修クラブ制度は、高校生から自治の精神打ち砕いた。上級学校への推薦制度につられて、自ら進んで体罰・パワハラ地獄に365日朝から晩まで熱中するのだから。


 満州事変の1931年、『東奥日報』は「弘前中学四五年生徒 全ストライキ」と三段抜きで報じている。生徒300人が、教師の体罰に抗して嶽温泉に籠城したのである。

 この嶽のストライキ「決議」は「弘前中学校当局の教育方針を見るに只欺瞞と矛盾と暴力である故に我等はその非なることを和平的態度を以て再三それとなく指摘して三省あらんことを求めた然し三省は愚か我等に対する当局の態度はますます激しくなるのみにして一つとして教育の根本的精神即ち人格を養成する教育は行はずここに於て我等は・・・時代錯誤的な教育精神を打破し弘中百年の禍根を断つべく」と続き、最後に葛原校長と長谷川、立石教諭の二人の辞職を要求している。教師の暴力が発端であることがわかる。

  奈良県では女子小学生までが教師の教授不熱心に抗議、同盟休校している。  

 選挙権を持つ高校生が体罰で殺される事件が絶えないのに、ストライキやデモも無い事に大人は危機感を持たねばならない。 

オンライン授業には「眼差し」がない

 「・・・Iさんの表情が忘れられない。彼女は劇の台本にも配役にも道具にも関わらなかったのだが、嬉しげに毎日の練習や準備を熱心に見ていた。あんなに見つめられたら手を抜けない。僕は観客の役割ということを考えざるを得なかった。
メアリー・カサット( 1844- 1926)
それは授業に於ける生徒の役割に通じている。    発言するでもなく、手を挙げるわけでもない、眼差しと聴く耳だけがアクチブな生徒は少なくない。しかし彼女のその場に於ける役割は、決して小さくはない。静かであってもその表情は確実に演者に熟考を促す。もし演者=教師の感性が鈍感ならばその意義に気付かないに違いない。」

  僕はblog「多数決とコンセンサス 続き」にそう書いた。

   オンライン授業は「眼差し」・「聴く耳」を持たない。見つめる眼差しや聴く耳の一途さを察知できない。オンラインで話す者とみる者の眼差しは、機構上一致しない。モニターのカメラはモニターの外部にある。聴講生が画面の話者に焦点を当てれば、話者の画面では眼差しはズレる。互いの眼差しが一致して初めて、同意や同感の「うなづき」は生まれる。異議を唱える表情も眼差しが一致していてこそ、鋭いメッセージとなる。  

   独学の画家メアリー・カサットが描いた一連の母子像はそれを雄弁に語っている。

 
 
「一致しない眼差し」をcomputer技術は「克服」するだろうか。モニターの真ん中に見えないカメラを置くか。あるいは眼差しを仮想的に演じる助手を聴講生の中に仕込むか。・・・
 
 今既にオンライン授業システムを通じ個人データーを盗んだ詐欺事件が頻発し始めている。それを防止するシステムも登場し、やがて膨大な手続きや仕組みが有料で組み込まれるだろう。
オンライン授業は、今のうちにやめておくべきだと思う。
 人類が「対話」を初めて何十万年だろうか。永い時がヒトの眼差しを絶妙な手段に高めた筈だ。その生の眼差しに勝るものはない。たとえ赤ん坊であっても、苦もなくこなせる眼差しは我々人類に組み込まれている。
 「やがて電力料金は二円になる」と聞く者を惑わして始まった原発が、手のつけようのない事故や災害に見舞われ想像を絶するコストを生んでいるように、安全で絶妙な「オンライン授業」は高くつく。膨大なコストは、それ自体が巨大な利権となる。あらゆる利権は「聖域」化して批判を寄せ付けなくなる。

 

「withコロナ」が、泥棒する時間と命

  自殺者、中でも社会的弱者である女性や子どもの自殺が増えている。 厚労省自殺者統計は10月の自殺者数を2,153人と

みている。前年同期比で40%増。日本の自殺者数は、ここ数年、毎月1,500人から1,800人の間を推移。しかし今年は、新型コロナ禍が開始の2月から6月までの自殺者数は1,400人から1,500人台を推移して、過去5年間の水準を下回っていた。 生き難さが人に打撃を与える迄には時間的なズレがある。賢い政府を持てば、その間に緊急の対策を取ることができる。しかし時の首相安倍晋三は愚劣なタイミングで「Go To トラベル」を強行、最悪の結果をもたらした。自殺者は7月から1,800人強へ増加、10月には2,000人を突破してしまった。

  この間の事情を日本の報道機関ではなく、米国cnnがいち早くしかも的確に報じている。

  Tokyo — Far more Japanese people are dying of suicide, likely exacerbated by the economic and social repercussions of the pandemic, than of the COVID-19 disease itself. While Japan has managed its coronavirus epidemic far better than many nations, keeping deaths below 2,000 nationwide, provisional statistics from the National Police Agency show suicides surged to 2,153 in October alone, marking the fourth straight month of increase.

To date, more than 17,000 people have taken their own lives this year in Japan. October self-inflicted deaths were up 600 year on year, with female suicides, about a third of the total, surging over 80%.

Women, who have primary responsibility for childcare, have borne the brunt of pandemic-induced job losses and insecurity. They're also at greater risk of domestic violence, which help centers say has worsened here this year, as it has around the world.


  「withコロナ」と馬鹿げた標語を掲げる首都の知事、彼女からは猛毒プルトニュウムを手に制御を夢見るのかのような狂気が漂っている。その標語をいち早く掲げたマスコミ、店先に張り出す商店。我々はウイルスに殺される以上の犠牲を政府の無能によって被りつつある。
 適切な設備や人員を削減しなければ、助かったはずの命さえ消えている。彼らは教育や福祉・医療の削減が政治だと考えている。
  こうしてCOVID-19は、死亡と重い後遺症を伴う自然災害であるばかりか、無知・無能な政治判断がもたらす「人災」 になった。

 政権者たちはコロナ禍を口実に、手続きなしで我々の行動を統制し、財布はおろか、時間を盗み命まで弄んでいる。
  エンデはマイスターホラにこういわせている。


 『彼らは人間の時間をぬすんで生きている。しかしこの時間は、ほんとうの持ち主からきりはなされると、文字どおり死んでしまう。人間はひとりひとりがそれぞれじぶんの時間をもっている。そしてこの時間は、ほんとうにじぶんのものであるあいだだけ、生きた時間でいられるのだよ。』


  コロナ禍で生計の手立てを絶たれた学生たちは、保証のない危険で低賃金の出前配送に駆り出され拘束る。その地獄を「自由な働き方」と言い含められるのだ。権利としての自由な時間を、無価値な「暇」にすり替えて見せるのが時間泥棒の初手だ。


  「・・・よけいなことはすっかりやめちまうんですよ。・・・むだなおしゃべりはやめる。年よりのお母さんとすごす時間は半分にする。いちばんいいのは、安くていい養老院に入れてしまうことですな。そうすれば一日まる一時間も節約できる。それに、役立たずのセキセイインコを飼うのなんか、おやめなさい!」


 ヨーロッパやラテンアメリカの古い街で、体の不自由なお年寄りが、二階から顔を出して通りの若者に声をかけるのが見かけられる。

 「お願いよ、野菜とパンを」

 「いつものでいいかい」と若者はぶら下げられた籠から金を受け取り、ひとっ走りする。頼まれたパンと野菜をお釣りと一緒に籠に入れて、二階の年寄りに声をかける。

 「用があったらいつでも呼びな」

 こんな光景の積み重ねが「公」=コミュニティを形成する。こうして作られる自由な連帯の社会を壊して「デリバリー」会社は肥太る。民衆の統制から「自由」になった資本は、我々のすべてを食い尽くして尚欲望をたぎらせる。

  「光を見るためには目があり、音を聞くためには耳があるのとおなじに、人間には時間を感じとるために心というものがある。そして、もしその心が時間を感じとらないようなときには、その時間はないもおなじだ。」

かへすがへすも羨ましの鶏や

 
 あの烏にてもあるならば 君が往来を鳴く鳴くも
などか見ざらん かへすがへすも羨ましの鶏や げにや八声の鳥とこそ 名にも聞きしに明け過ぎて 今は八声も数過ぎぬ 空音か正音か 現なの鳥の心や      

       『閑吟集』



 If I were a bird, I would fly to you.という言い回しを 仮定法過去という無味乾燥な文法用語とともに高校で教わったが、教養とは程遠い断片的なものでしかなかった。
 しかし大和猿楽にあるこの歌なら、枕草子や世阿弥の『逢坂物狂』に連なる豊かな表現を知ることができる。

 まずは英語の教師が大和猿楽にも通じ、古典の教師が仮定法過去を知ること。それが偏差値の呪縛から若者を解き放つ。そして教室から解放たれて、街に出ることにつながる。
  『閑吟集』は、16世紀の室町期に編まれた小歌の歌謡集。世捨て人を自称する男が「ふじの遠望をたよりに庵をむすんで」昔を偲んだか。集合住宅の最上階にある僕の部屋からも、富士が見える。北斎の「赤富士」風に見える日もある、僕も既に世捨て人である。


 「なにせうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ」や「世の中は ちろりに過ぐる ちろりちろり」など、無常観漂う世界が、遠い過去の他人ごととは思えない。

 ここで鳥とは、逢坂の関で夜が明けても鳴く鶏のことである。別れを悲しむ対象を持つことの、狂おしさ。

ハイケンスの「セレナーデ」と明るい貧乏が、平和を握りしめていた

  ハイケンスの「セレナーデ」が、露地で遊びに熱中する子どもたちの歓声を静めるように流れたのは、午後の四時頃。

 記録によればNHK、『尋ね人』は1946年(昭和21年)7月1日から1962年(昭和37年)3月31日 迄続いた。   1960年(昭和35年)の放送時間は、ラジオ第1放送で月曜日から土曜日の午後4時25分から29分。「セレナーデ」はそのテーマ音楽だった。
    NHKの『尋ね人』『復員だより』『引揚者の時間』の3番組は、聴取者から送られた、太平洋戦争で連絡不能になった人の特徴を記した手紙の内容をアナウンサーが朗読し、消息を知る人や、本人からの連絡を番組内で待つ内容であった。当初は対象者別に以上の番組が設けられていたが、やがて『尋ね人』に集約した。放送期間中に読み上げられた依頼の総数は19,515件、その約1/3にあたる6,797件が尋ね人を探し出せた。集落が静まり返って聴き入ったわけである。
   手紙の内容はまとめられ、アナウンサーによって淡々と読み上げられた。https://ja.wikipedia.org による。


 昭和20年春、○○部隊に所属の××さんの消息をご存じの方は、日本放送協会の『尋ね人』の係へご連絡下さい。
 シベリア抑留中に○○収容所で一緒だった○山○夫と名乗った方をご存じの方は、日本放送協会の『尋ね人』の係へご連絡下さい。
 旧満州国竜江省チチハル市の○○通りで鍛冶屋をされ、「△△おじさん」と呼ばれていた方。上の名前(あるいは、苗字)は判りません。
 ラバウル航空隊に昭和19年3月まで居たと伝え聞く○○さん、××県の△△さんがお捜しです。
 昭和○○年○月に舞鶴港に入港した引揚船「雲仙丸」で「△△県の出身」とおっしゃり、お世話になった丸顔の○○さん。
 これらの方々をご存じの方は、日本放送協会まで手紙でお知らせ下さい。手紙の宛先は東京都千代田区内幸町、内外(うちそと)の内、幸いと書いて「うちさいわいちょう」です。←クリック



 番組が終わると共にどの家からも深い溜息が聞こえ、やがて子供たちの歓声が再び露地を駆け巡った。

 このひと時を戦中を耐え生き延びてきた大人たちは深い悲しみとともに、戦争放棄の憲法を持った喜びをかみしめた。


 祖母たちが、庭で遊びで明け暮れる子どもたちを見ながら「もう、こん子たちゃ、戦争に取られんでん済んとやなー」と繰り返す光景を思い出す。衣食住すべて不自由な明るい貧乏が、平和を握りしめていた。

    しかし朝鮮戦争特需は、貧しい平和にとって中毒性の「毒饅頭」となった。握り締めたはずの貧しい平和は脆く崩れ去った。貧しさの中に平和を生きる思想に欠けていた。

管理主義の亡霊は、なぜ今頃佐賀に取り憑いたのか

・下着は白とする
・靴下は白とする
・マフラー禁止
・制服に名札を縫い付ける
・靴は白とする。中敷も白とする
・セーター、コート、マフラー、手袋の色は白・黒・紺・茶などの色に限定
・コートは学校指定の物を着用。ダッフルコートやフード付きは不可

・男子の髪型で左右非対称カットやツーブロック、頭頂部を立てるなどの髪型は禁止
・眉毛を剃ってはならない
・整髪料はつけてはならない
・髪を伸ばす場合は、耳より下で耳より後ろで結ぶか、三つ編みにする

 これら1980年代の管理主義再来を思わせる校則は、佐賀県弁護士会が県内公立中に情報公開請求したものの一部である。弁護士会はその結果を分析、見直しを求める提言書を県教育委員会に提出した。←クリック

  多くの中学校が、飲食店やゲームセンター、カラオケなどへの立ち入り禁止を定め、保護者同伴でも認めないところさえある。校区外では、制服着用を強制する例もあったという。

   こんな時代錯誤の校則を作れば、体罰やパワハラは日常的になる。学習には百害あって一利もない。余程ここの教師たちは学ぶことに関心がないか、嫌いなのか。




 僕は咄嗟に、石川達三の『人間の壁』を思い出した。
 朝鮮戦争特需に手放しで湧いた日本経済は、冷戦の訪れとともに一気に冷や水を浴びる。(死傷者は中国200万~400万、韓国40万、アメリカ14万、更に1000万人以上の離散家族を生んだ。戦争状態は2020年のいまなお続いていることを忘れてはならない・・・休戦であって「終戦」ではない。)

 加えて水害に見舞われた佐賀県財政は慢性的な赤字に陥り、1956年には財政再建団体の指定される。その再建計画には大幅な人件費削減が盛り込まれ、10年間で教職員約7000名の内2600名を整理するために、45歳以上の職員を全員退職させ、養護教員・事務職員を全廃する内容。1957年迄に5回に及ぶ教職員定数削減、だが翌春には団塊の世代児童が7000人も増える事態が迫っていた。 『このままでは義務教育が崩壊する』との危機感から、組合は実力行使を決定。しかし当時すでに公務員法で争議権を奪われていた教師たちは『出来るだけ授業に支障が出ないよう』に県下の全小中学校で組合員を3分し、2月14日から16日の3日間、一日ずつ有給休暇をとった。教職員5929名のうち、およそ5200名が抗議集会に参加した。これに対し、佐賀県教育委員会は県教組幹部11名を地方公務員法違反で停職1か月から6カ月とする行政処分を行った。警察も組合幹部を逮捕した。
 石川達三は、この佐教組事件関係者に精力的に取材。朝日新聞に小説『人間の壁』を連載、単行本はベストセラーになった。1959年には山本薩夫監督・香川京子主演で映画化した。

 しかし闘争は敗北した。公選制教育委員会は廃止、勤務評定が実施され、教育現場から自由で伸び伸びとした雰囲気は消え始めた。教師が行政に縛られれば、教師は生徒の自由を守らないのか、守れないのか。僕の祖父は海軍退役後、故郷の旧制中学で教えたが、若い教師たちが軍国主義に凝り固まり鉄拳制裁しても「予備役将校のあんたの爺さんが、一度も殴らず
学校で一番穏やかじゃった」と当時の教え子は僕に語った。勤務のない日は鍬を担いで畑に出ていたという祖父を誇らしく思う。

 自分たちが行政の高圧的管理に苦しんでいる時こそ、その苦痛から生徒や父母だけは守る覚悟を持つ。それが闘うということだ。何故なら、少年/少女たちを取り巻く世界に対峙することから学びは始まるからである。同化させ順応させることは、学びの敗北でしかない。

 

 朝鮮戦争の終結をいまだに実現出来ないことに歩調を合わせるように、不気味な「後遺症」が佐賀の中学校で亡霊のように現れたのだ。戦争で浮かれ儲けた事実は甚大な「付け」として必ず現われる。

 コロナ禍も「闘い」である、にもかかわらず「Go to キャンペーン」「with コロナ」と莫大な補助金をつぎ込んで浮かれている。「付け」は激増する死者・後遺症、さらに巨額の増税となって我々の生活を痛めつける。増税しやすいのは、戦争である。

なんで、テキストを使わなかったんですか

    突然、20年も前の卒業生からmailを貰うことがある。学生憧れの企業で、社内講習の講師を任されたらしい。オンライン授業で。

「口承」の豊かさを文字媒体は伝えられるか

  ・・・全員で考えるような授業にしたいです。めざすは、先生がやってたようなテキストを使わない授業です。憧れです! 先生はなんでテキストを使わなかったんです?

 

 便利さには全て落とし穴がある。教科書が「優れ」たものなら、学ぼうとするものはわざわざ教師に教わりに出向くことは無い。自学すればよいのだ。分からないことがあれば自ら調べる。だから出欠を取るのは言語道断。

   オンライン授業の経験は幸いにしてない。新し物好きの教師たちに突然の機会がもたらした興奮と失敗から考えていることはある。
 口承から文字、印刷、電信・・・知識や現象の伝え方が「発展」する度に人類は表現能力を失ってきた。それは決して取り返しがつかない過程。一度枯れた草や伸びきったゴムに、可塑性は無い。枯れる前に伸びきる前に、これは危ないと気付けば稀に引き返せる。が、新しい技術や手法は人を幻惑し、譬え重大事故があっても目新しさへの信仰からは抜けきれない。

 こうして事柄や概念を言葉にし、文字に写し、文章化する度に、対象が持つ豊かな深さは失われる。大勢に受け入れられる事を目指せば、削り落とされる部分は大きくなる。共通とは詰まらないものなのだ。更に教科書には権力や権威の睨みが施される。それを教師が忖度するとき落ちるものがある。生徒が聞くときにも同じ事が起きる。伝わる部分が多く見積もって全体の7割だとしよう。伝わる過程が三度あれば、知識が末端に届くときには、7割の7割の7割つまり3割程度になる。5割としても1割近くまで、痩せ細り浅くなる。
 それゆえ学校でもオンライン授業はことごとく失敗している。それはジェット機を追いかけながら走るに似ている。限りなく虚しい。
 もしオードリー・ヘップバーンがオンラインで講義すれば、人々はヘップバーンの講義に魅せられ録画、繰り返し再生を試みるかも知れない。生身のヘップバーンを知らずとも、人は映画を通して擬似的ではあるが、彼女の生きた言葉と動作や息づかいを幾分かを掴める。しかし我々は、ヘップバーンでは無い、三船敏郎でも無い。
 社内講習とは言え、講師を務める位置にあることを祝福したい。何があってもめげるな。

儲かる学問は権力と一体化する

   研究や教育でその価値を静かに問うべき大学が、新聞の全面広告やビルの広告塔、競技場の壁、競技playerの着衣、その他あらゆる媒体を買う事で、その存在を見苦しく目立たせている。
 「もしも桃太郎がデータサイエンスを心得ていたら、おばあさんがくれたきびだんごでビッグビジネスを生み出し、鬼ヶ島を丸ごと買収して鬼を全員部下に!?なんてことになったかもしれません。「データ分析力+発想力」で新時代の社会に貢献できる注目の学問、はじまります。」


 新聞の朝刊全面をデカデカと使ったある大学の新設学部の広告である。中学生の課題でも、こんな杜撰なものはない。新学部開設準備室が「知恵」を絞ったか、広告代理店に下請け発注したか。いずれにしても、知性の欠片もユーモアの片鱗も無い。

 仮に桃太郎の時代に「ビッグデータ」があったとしても、身分制度下ではビジネスの担い手は存在しない。制度外の無法者として無理矢理ビジネスを強行すれば、桃太郎自身が「鬼」となる。桃太郎が鬼を部下にするのではなく、桃太郎が鬼と同化してしまう。話は進まない。そもそも、きびだんごを鬼ヶ島をあげて大量に生産したとして、何処でどうやって売るのだ。きびだんごはお婆さんが旅に出る身内につくるもので、大量に生産して商品として流通させるわけには行かない。無理矢理売れば、押し売りするしかない。矢張り鬼は桃太郎を親玉とする鬼になるしかないのである。せいぜいが堂々巡り。

 この新設学部の「売り出し文句」にはこう書かれている。

 「情報処理技術の急速な発達とそれに伴うAI時代の到来により、ビッグデータを実務に応用できる知識やノウハウを身につけた人材が広く求められています。」

 新設学部担当理事が桃太郎であり、買収される「鬼」が教員と学生。売れるはずのないきびだんごが「データ」というわけだ。
 儲かる「学問」だけに予算を与える文科行政は、子供騙しの堂々巡りを煽るのみで何ら成果をうむことは無い。アインシュタインの相対性理論には何処の研究機関も注目出来なかったから、物理学とは無縁の特許局で書類に埋没しながら特殊相対性理論に専念せざるを得なかった。湯川秀樹も養子先の湯川家が裕福な医者であったから、生活に煩わされず中間子理論を完成させている。

「バイク・メカニック」の少年とその弟

 近所に障害児を積極的に受け入れている私立小中学校がある。校名も目立たないし派手な宣伝もしていない。

バス乗客の多様性は学校にも不可欠
 以下は、三鷹までバス通勤していた妻から度々聞いた光景。
 毎朝途中から乗り合わせる少年が、窓に張り付いて「バイク!・メカニック!」等と沿道の仮名書きの看板を大声で読む。雨の日も風の日も。知的障害があるらしく、弟が何時も付き添って面倒を見ていた。ある日、二人はバス停に遅れて、走っていたがバスに追い抜かれた。懸命に走り、バスは停留所で少し待って二人は息を切らして乗ってきた。妻が二人に「よかったね、間に合って」と語り賭けると弟がにっこり笑って「はい! 助かりました」と答えたが、兄はいつものように窓にすがりついて「バイク!・メカニック!」に夢中。                  

 その学校のhome page。

 「本校では健常な生徒と自閉傾向のある生徒が、共に学校生活を送っています。
健常児は高校受験に向けて、自閉症児は社会自立に向けた学習に励むという、それぞれに異なったベクトルはありますが、日々の学校生活で共にできる活動や行事などの活動は一緒にします。
 一時的な交流ではわからない、互いの良さや特性。個性を受け止められれば、その人なりへの心配りができ、仲間という意識が自然と生まれます。・・・混合教育は健常な生徒にも自閉傾向のある生徒にも学び合いがあり、お互いが刺激を受け合うものです。そして、双方に恩恵があり、人間として心豊かに生きる素地を培って行けるのが、とても大きなメリットです。 今わが国に限らず広く世界の教育界では、健常な人と障害ある人が共に生きる社会(共生社会)の実現に向けて、「インクルーシブ教育」の推進が叫ばれています。・・・」

 受験関係のサイトでその中学校の入学時「偏差値」を見れば、とても低い。しかし付設の高校は無いから、一般の公立中学生に混じって様々な高校を受験をする。その進学先の一覧がその中学校のhome pageにある。国立大学付属や私立・都立の名門高が目白押し。
 選別して生徒の「偏差値」を揃え、教育を受験先に合わせて特化・競争する事の馬鹿馬鹿しさを思う。

  ミヒャエル・エンデが学んだシュタイナー学校は卒業生に学者や芸術家が多いが、設立当初は教育方針が理解されず運営は困難を極めたと聞く。しかし困難は学園を鍛え、今や世界に1000校以上。
 この統合教育を掲げる学校も運営が困難になった時期があったと記憶している。
  社会の実態を反映した多様性が、少年の理性と感性を育み鍛える。コスタリカの生態系の豊かさが、昆虫の驚異的な進化を促進すると同時に、政治社会的豊かさに現れるように。
 

 

あだ名とおでんの民主主義

    しんちゃんのあだ名は「コンニャク」。色白で痩せて動作がくにゃくにゃしているからだと、転校したばかりの僕は考えていた。しんちゃんの前が僕の席、すぐに遊ぶようになり、「コンニャク」は四谷警察と慶応大医学部探検に僕を誘った。留置場と霊安室に滅法詳しかった。


 1950年代の四谷界隈には、旧四谷区の重厚な建物が残っていた。その多くは関根要太郎の設計で一つとして同じ構造をしていない。四谷図書館や警察も、左右対称なつまらなさも無い。階段や入口は石作り、四谷第四小学校の場合は、昭和11(1936)年竣工。2.26事件被告17人に死刑判決が宣告された年である。日本の貧困化の歪さが滲み出ている。戦後の区立四谷二中は、ついにその移転閉校まで貧弱な木造のままであった。格差は戦争を生むのだとつくづく思う。
 しんちゃんは、そのモダンな意匠の警察の中で遊ぼうという。今のように入口に警官が立ってはいない。僕たちは姿勢を低くして銀行のような一階を抜けて、地下の留置場に走った。鉄格子の向こうにそれらしい場所がある、しんちゃんは詳しかった。警察の中は迷路のようで人も多く新宿のデパートより面白かった。数回目に捕まった。捕まったが怒られはしなかった。柔道場に連れて行かれ、投げられたり投げたりして遊んだ。おかげで毎週警察の柔道場に通うことになった。その帰り路、小さな商店街で買い食いが習慣になった。

 しんちゃんは、おでんのコンニャク以外を決して喰わない。


 
聞けば、買い食いは「お腹を壊すからダメよってママが言うから」だった、コンニャクだけは腐らないからと。
 だから、彼はコンニャクと呼ばれていたのだ。 ある日コンニャクは、たまには家で勉強しようと、自分の部屋に誘った。信濃町駅と都電四谷三丁目の中間に位置する左門町の屋敷だった。広い数寄屋造りの本屋は迷路のようで庭には築山や池があり、コンニャクの部屋はその一角に鉄筋コンクリート造りの別棟。「ここなら幾ら騒いでも大丈夫だよ、その為にパパが造ってくれたんだ」僕たちは勉強を忘れて色んなオモチャで騒いだ。疲れてコンニャクは、部屋の電話から「ねえや、お腹空いちゃった」と言うと、若いねえやと年老いた女中がバターの香りいっぱいのピラフと果物と飲み物を持ってきた。コンニャクは、お坊ちゃんだったのだ。聞けば彼のお爺さんは、銀行の頭取だった、どおりで本屋には秘書や運転手などが行き交っていた。
 1950年代の四谷第四小学校には四谷二中同様、大金持ちの坊ちゃんからスラムの洟垂れ小僧までが詰め込まれ、ヤクザや芸者の子から映画の子役・TV歌手もいた。黒塗り・運転手付きの自家用車から、穴の空いたボロ靴までが共存していた。雑多な中に、戦争に負けて実現した平和と民主主義が息づく、おでんのような学校であった。
  何でも突っ込んで煮てこそ旨いのである。

 四谷二中が、「名門」越境中学であったことと「おでん」は無関係ではない。


 コンニャクは、今外科医。気の毒にまだ引退できない。

詰まらない授業には騒いでこそ「けじめ」

 授業改革の主体は誰か。 

 1980年代までは、「校内教研」(教研は日教組や高教組の組合員で構成する研究協議会。各職場の教研委員を中心に校内教研、地区ごとに週一回程度の教研、学期ごとに都道府県ごとの教研、毎年の全国教研が組織されていた。「教え子を再び戦争に送るな」は第一次全国教研集会のスローガン)や「生徒と教師の集い」など、教師・生徒双方の自主活動が活発だった。前者は組合分会が、後者は生徒会執行部が主催した。

 僕が青年教師だった頃、下町のある工高の「生徒と教師の集い」で教師の授業への批判注文が続出した。会場は普通教室の倍ほど、教師も生徒も一言言ってやろうと詰めかけていた。年配の教師がこう反論した。
 「授業は落語や漫才では無い。面白さで笑わせるのが目的では無い、生きる上で欠かせない知識の習得が第一、辛いことに耐えてこそ成果が上がる。君たちには静かに耳を傾け、知識に向き合う事が求められる。」  小さな生徒が勢い込んで「ハイハイハイ」と手を挙げ

 「面白くて、役に立つ授業はあるよ。樋渡先生の授業を見習ったらいい」と言うと生徒の間から拍手が湧いた。
 この日の「集い」は白熱して、下校時間を大きく超えて対話は続いた。

 翌週の職員会議は、急遽「校内教研」に切り替えられたが、「樋渡にはめられた」との呟きが満ちていた。普段から「あいつの授業は生徒が騒いでいるだけだ。生徒に迎合して煽っている」との不満もあった。しかしそこで「ともあれ、彼の授業を見てみよう」と、互いに見せ合い相互批評しようではないかということになった。
  僕を胡散臭く思ってた教師達も教室に来た。教師達は先ず呆れた。教師がうしろに詰めかけても、生徒たちが一向に静かにならないからだ。最初は苦虫を噛み潰した表情がやがて神妙になった。


 職員室に顔を出すと、手招きする。
 「いやー驚いたよ。噂通り君の授業は煩い。煩いが、よく観察すると喋っている内容が違うんだ。授業の中身について喋っているんだね。後ろから教室に入って生徒の間に座っていると発見があるね。」
 「でも、ただ無秩序に煩いことも屡々。そんな時は諦めて教室を出て運動場や、付近を散歩しています。息抜きにもなりますし、生徒たちの会話の中から授業のヒントを拾うこともあります」

 高校生の頃だ、みんなが授業に乗り気でないとき「先生腕相撲しよう」と、どう見ても弱そうな僕が勝負を挑んだ。そんなとき、教師もなんとなく授業に乗り気でないことが多い。何人目かには教師はわざと負けるた。負ければ授業は休講になる。英語のG先生の腕っ節は生徒の誰より強かった。そんなG先生が教室に入るなり「おい!腕相撲しよう」と意気込むことがあった。大抵はアッサリ負けるのだが、時には強い生徒の何人かをねじ伏せることがあった。その日の英語は気合いが違っていた。
 
 詰まらない授業には騒ぐ、サボるという「けじめ」が今はない。教師と生徒の間から健全な緊張感が消え、墓場の秩序だけが漂っている。

   教師・生徒双方の自主的「教育改善」の努力=闘いが消えて、行政の介入が恰もやむを得ない正義であるかのように登場している事を知るべきである。行政法人化で自治権を奪われた教授会や議決権を奪われた職員会議は、もはや「授業」改革に関心は無い。


 詰まらない授業や堕落した学校運営に何ら反乱しない若者は、腐りきった政府に怒りもしないだろう。それが、権力の「教育」に期待する秩序である。生徒たちが詰まらない授業に文句を言いサボって実力行使をしていた頃、この工高の校内教研からは、数々の教材や授業方法が生まれている。 

自由な社会と奴隷社会を分つのは、自由な質問

  教師が監視する生徒総会は、自由な自治を学ぶに相応しいか。

 「自由は危険なものである。幼い息子一人で初めて道路を横断させれば、息子の生命を危険にさらすことになる。
しかしそうしなければ、被は一人で道路を横断できないまま成人するだろう。ナチズムの敗北後、ドイツを占領したアメリカが、ドイツ人に自由を与えろ道を選んだのは危険だったかもしれない。反ナチ党だった私の友人たちでさえ、完全なドイツ人だったから、「ネオ・ナチ」に言論・出版・集会の自由を与えることに反対だった。
しかし、ドイツ人をまず困らせたのは、自由のすべての危険性とともに、自由への恐怖だった。アメリカがドイツに自由を「与え」ないと決定すれば、ヒトラーが正しかったということになっただろう。
 自由な社会と奴隷社会を分つものは、自由な演壇上での自由な質問が慣例になっているかどうかだけである。
ミルトン・マイヤー『彼らは自由だと思っていた――元ナチ党員10人の思想と行動』未来社 p167             

   学術会議任命拒否問題はそれ自体が、憲法や人権宣言に背馳しているが、この問題も的確に端緒を捉える必要がある。 若者たちが何故この問題に鈍感なのかに絞って、端緒を捉えねばならぬ。そうでなければ結末に対処する事もできないからである。
 人が物心ついて、公的な場で「自由な演壇上での自由な質問が慣例」となっていないことに気付くのは、小学校や中学校においてだろう。職員会議には生徒の参加自体が認められないだけでなく、記事録すら公開されない。まして質問や発言は思いもよらない。そもそも出席は「義務」である。
 生徒会や児童会は「自治」会の体を為していない。議題や議事進行マニュアルまでが事前に職員会議で決定される。(敗戦直後、新制高校発足から暫くは生徒の職員会議参加を認める動きもあった。大学学長選挙に学生が拒否権を持つ例もあった)

 僕自身苦い思い出がある。小6の学級会で担任「提案」の行事に意義を唱えたのだ。級友たちは仰天、僕と担任との激しい議論で1時間は瞬く間に過ぎた。このクラスは併設の幼稚園から数えると、8年間メンバーがほとんど変わっていない。担任はこう言った。「皆でお別れ会をやろう、グループごとに出し物をやるんだ。な!いいだろう」僕は猛然と反対した。その次第はここに書いた。←click

   僕をすっかり学校不信に追い込んだ苦い経験から救ったのは、進学したばかりの四谷二中だった。それもここに書いた。←click           上級生が生徒会中央委員会から顧問教師の退場を要求し、教師はそれを受け入れたのだ。僕の世界観は根底的に変わった。小さな時期から異議を唱えたり文句を言う、それが家族の地域の楽しみや誇りであるような社会、それが自由な社会である。
 気に入らない言論や人物はあらゆる権力的行為を駆使して徹底的に排除、「利権」を見せつけることで「安定的」多数派を形成する。その手口は、すでにfasismである。物が言えないと同時に、ものを言わないで済む「安逸のfasism」が少年たちに蔓延る。

端緒において行動する


 1943年、ベラルーシ920万人のうち220万人が虐殺された。ソビエト映画「炎628」の628は 、ナチス「移動虐殺部隊」によって焼滅した村の数。現場の一つハティニ村には
、628の墓標と博物館がある。


 移動虐殺部隊はハティニの村人たちを、納屋に閉じ込め、ガソリンをかけ、火を放ち、逃げ出す村人たちがあれば待ち構えて悉く銃殺した。 身内も知り合いも焼かれ身も心もボロ布状態になった少年フリョーラは、パルチザンに身を投じる。

 彼が、水溜まりに沈んだヒトラーの肖像画を見つける場面がある。肖像画を見つめるうちにフリョーラの意識は、ヒトラーのナチスが世界を席巻していく歴史的記録映像に重なり合う。虫も殺せず村人に笑われた優しい少年フリョーラは、即座に銃の引き金を引く。その度にナチス台頭とヒトラー躍進の映像が猛烈な勢いで逆転する。歓喜するドイツ国民や親衛隊の行進や集会に手を挙げるヒトラー、フリョーラは躊躇わず引き金を引く。その度にヒトラーが若くなっていく、青年時代のヒトラー、少年時代のヒトラー・・・。そして赤ん坊のヒトラーが母親に抱かれている写真。フリョーラは引き金を引けず、口をわなわなと震わせ涙をおとす。


 何時行動を決意すべきだったのか、惨劇の端緒は何処にあったのかを言葉なしに我々に訴えかける場面である。

 僕は毎年「炎628」を教材にして、高校生とニーメラー牧師の言葉を考えてきた。我々の「今」は、ニーメラー牧師の言葉のどの時期なのか。

 今、学術会議に対する政権の介入への抗議が急激に高まってきた。介入の端緒は何処か考えてみる。

 2004年国立大学行政法人化は如何だったか。2005年NHK番組改変問題への介入・恫喝は・・・。

 僕は教員養成課程に於ける必修科目「法学」から憲法が外された事にまで、更には東大闘争確認書までは遡らねばならぬと考えている。

 それだけではない、それぞれの端緒にもいくつもの端緒を考えることが出来る。それを常に意識し続ける事が肝要だと思う。それが歴史を学ぶ意義である。18歳選挙権と模擬投票の流行は何だったのか、問わずにおれない。

  端緒において行動することを痛切な悔恨と共に呼びかけたニーメラー牧師の言葉

  「ナチ党が共産主義を攻撃したとき、私は自分が多少不安だったが、共産主義者でなかったから何もしなかった。ついでナチ党は社会主義者を攻撃した。私は前よりも不安だったが、社会主義者ではなかったから何もしなかった。ついで学校が、新聞が、ユダヤ人等々が攻撃された。私はずっと不安だったが、まだ何もしなかった。ナチ党はついに教会を攻撃した。私は牧師だったから行動した―しかし、それは遅すぎた「ミルトン・マイヤー『彼らは自由だと思っていた――元ナチ党員10人の思想と行動』未来社 p167」は余りに有名。


  だが戦後の46年1月、ゲッチンゲンでの説教でニーメラー牧師は次のように告白している。

  「・・・私は1933年になっても、ヒトラーに投票したし、また正式な裁判なしに多くの共産党員が逮捕され投獄された時にも、沈黙を守っていました。そうです。私は強制収容所においても罪を犯しました。なぜなら、多くの人が火葬場にひきずられて行った時、私は抗議の声をあげませんでした

 日本軍に移動虐殺部隊はなかった。さほど残虐でなかったのか、そうではない。歩兵部隊であれば、どの部隊も略奪・強姦・焼き討ちに迷いはなかった。

 満州を支配した日本軍関東軍と名付けていた。731部隊の正式名称も関東軍防疫給水部本部)は、「燼滅掃討作戦」を実施している。
 華北の長城に沿った南北500㎞余で村々と人々を、焼き尽くし(焼光)、殺し尽くし(殺光)、奪い尽くし(搶光)た。人呼んで「三光作戦」。

 1937~45年の8年間だけで「318万人が殺され、276万人が連れ去られ、1952万軒の家屋が焼かれ、5745万トンの食料、631万頭の耕作用家畜、4800万頭の豚・羊」などが奪われている。残酷さと規模において、ナチス移動虐殺部隊を凌駕している。

 フリョーラ少年が、ヒトラーの肖像を撃つ場面直前。ナチス移動虐殺部隊がパルチザンに包囲さる。青ざめたナチ将校たちが命乞いする場面がある。憎しみの感情が極限に達した村人たちは、今にも銃弾を浴びせかねない。パルチザン隊長は「殺すだけでいいのか、裁判にかける」「奴らの言い分をよく聞いておくのだ」と止める。

 パルチザンの隊長が「奴らの言い分をよく聞いておくのだ」と冷静に止めるが、意を決した一人の婦人が人集りを掻き分け進み出叫びながら軽機関銃を浴びせる。

 僕は三光作戦や731部隊の犠牲になった人々の身内の気持ちを思わずにはおれない。憎しみの感情に高ぶる人々を、言葉で制止するのは容易いことではなかった筈。

  

~であることと、~と見做されること


  横浜市の職員バッチは「ハマ」を図案化したもの。あるヤクザの代紋によく似ている。 「ハマ」市職員が盛り場で一杯やっていた時、いかにも暴力団構成員らしい男数人が、職員バッチを見て最敬礼したという。
 バッチを付けたがる民族は極めて希である。 ヤクザの代紋バッチ、学校生徒の校章、会社の社員バッチ、他者との差異を誇示して意識を隔離する代物。
 

 ある年の正月、旧財閥系企業人事部長が苦り切っていた。

 「「若い社員たちが団交で、社員バッチをつくれ」と言うんだ」。彼は、組合に賃上げの要求が低すぎると交渉の秘訣を伝授する変わり者だった。

 「「通勤で、三井や三井の連中が社員バッチを付けているのが羨ましい」と言うから「それは奴隷根性じゃないか、会社ではなく自分自身に誇りを持て」と言い返したが彼らは、「愛社精神だ、仕事への誇りだ」と食い下がるんだ」

 1964東京オリンピックが終わった頃である、学生達が会社の偏差値が欲しいと言い始めた。次第に就職偏差値は「精緻」を極め、今や結婚偏差値まである。
 通勤地獄に腹を立てる事もなく、満員電車の中で他人からの視線に痺れる愚かさ。自ら進んで格差を要求する。階級意識が育たないわけだ。同様に学生意識も存在しない。あるのは裏に偏差値の高さを露骨に匂わせた愛校精神だけだ。不安定雇用を世代共通の課題として意識出来ない程、分断されてしまっている。共闘を回避して、互いに嘲弄する日々だ。

 『大いなる西部』は、「体面」を賭けて撃ち殺し合う文化の愚かしさを描いた異色の西部劇。水場を巡る二つの牧場に連綿と続いた殺し合い。東部からやってきた主人公は、水場を双方に解放することで円満に解決する事を願っている。
 メンツに拘り命を捨てたがるのは、アメリカも日本もよく似ている。意気地なしと世間から見なされる事を恥じ、他者の評価に翻弄される愚かさ。~であることと~と見做されることには、天地の差がある。

  グレゴリ-・ペック演じる主人公は、女性を巡る鞘当ての挑発にも 

 「争っても何も証明できないぞ。挑発には乗らん。馬でも銃でもこぶしでもだ」と言い捨る。

 主人公が荒馬で手酷く失敗する様を嘲弄しようとカウボーイたちが待ち構えるが、その手にものらない。しかし荒馬を乗りこなす事に興味はある、カウボーイに殴り勝つ自信もある。見せびらかすのを好まないのだ。
 メキシコ人の牧童に荒馬を引き出させてじっくり観察するが、牧童は乗るのを強く止める。鞍を載せるのにも苦労して、漸く乗るが馬は頑として動かない。動いたかと思えば振り落とす。それでも長い格闘の末に荒馬を乗り熟し牧童を感嘆させるが、誰にも言うなと堅く口止めする。
 そんな主人公に婚約者は愛想を尽かして言う。

 「・・・気にならないの?」
 「どう思うと勝手だ。問題は自分さ」
 「あたしのことは? 世間があなたを…」
 「臆病者と思うだろうがそれは違う。だが勇敢さを証明する気もない」
 「その逆を十分に証明したわ」 

 ある時敬愛する女性が侮辱されたのにたまりかねて、主人公は真夜中無人の野原で「挨拶がわり」の決闘をする。長時間の殴り合いの果て、ついにチャールストン・ヘストン演じる牧童頭が弱音を吐く。
 「お前の挨拶は長いなあ」
 「これで、終わりだ。君さえよければ」
 「俺はいいぜ」
 「これが何の証明になる?」 

主人公はこの殴り合いについても一切口にしない。

 結局意地の張り合いは、双方の牧場主が互いの弾丸で死ぬことで終わる。主人公の意図する水源地の開放の問題は、これでたぶん決着はする。しかしこれは中断又は先送りかもしれない。

 十字軍とイスララム教徒の体面を巡る惨劇は、如何なる政治的国際的調定も受け付けない。千年を経てなお拗れるばかりだ。
  「どう思うと勝手だ。問題は自分さ」という台詞のつぼは、ここにある。社員バッチや高校の垂れ幕に改善の余地は無い、廃止だけが残る。対話の不能性・・・。

 「どう思うと勝手だ。問題は自分さ」を遙かな昔から、何度も聞いた。そうでなければ、合点の行かぬ事が多すぎる。

 

繰り返し聞かされれば、嘘にも「親近感」を抱いてしまうのが「単純接触効果」 。「人柄がよさそう」だけで、新首相支持率7割の仰天を生んだその効果。

天皇は、皇祖皇宗の御心のまにまに我が国を統治し給ふ現御神であらせられる。                   「国体の本義

 

 「嘘も100回言えば真実になる」は、博士号を持つナチ宣伝相ゲッベルスの言葉と言われるが確証を見つけられない。そもそも嘘は真実にはならない、嘘は何処までも嘘のまま。あり得るのは、何遍も繰り返して聞くうちに、聞き手が嘘であってもその内容に「親近感」を抱くようになることだ。名付けて「単純接触効果」。

   これは、音楽や図形や文字、服装や習慣、味、匂い、CM、広い範囲に見られる。娘が父親に似た男に惹かれてしまうのも、しつこいTVショッピングにウンザリしながらつい手を出すのも、臭い食べ物にも何時しか愛着してしまうのも、単純接触効果の類いである。

 前内閣官房長官が記者会見で、「全く問題ない」、「批判は当たらない」、「指摘は当たらない」と念仏のように繰り返して、良識ある者の強い反感を刺激し続けた。国民主権下の主権は何処にあるかを理解しない。だから木で鼻をくくったような定型句を繰り出して、コミュニケーションを遮断した。それを7年以上も繰り返され、主権者としての堪忍袋の緒が切れる前に単純接触効果が現れる人々が続出したのだ。それが「人柄がよさそう」だけで、支持率7割と言う仰天を生んでいる。

 嘘を100回聞かされても、「単純接触効果」に支配されずに疑うのが、健全な批判精神である。内閣官房長官の記者会見会場の記者たちは、「問題あるか、ないかを判断するのは公僕たるあなたではない、我々国民である。」と先ず釘を刺して質問・追求すべきだった。にも関わらず「「特権的」接触効果」が事前に存在していたわけだ。記者クラブ制度や首相との会食が「「特権的」接触効果」としての奴隷的忖度を生んでいる。

  「ウソをつかない奴は人間じゃねえよ」(橋下徹『まっとう勝負』小学館p181)

と述べたのは、元大阪府知事。

 「私は、交渉の過程で“うそ”も含めた言い訳が必要になる場合もあると考えている。正直に自分の過ちを認めたところで、何のプラスにもならない」・・・「絶対に自分の意見を通したいときに、ありえない比喩を使うことがある」「たとえ話で論理をすり替え相手を錯覚させる!」『図説 心理戦で絶対負けない交渉術』日本文芸社「どんなに不当なことでも、矛盾していることでも、自分に不利益になることは知らないふりを決め込むことだ」(『最後に思わずYESと言わせる最強の交渉術』日本文芸社)

  彼の狙いは彼自身の信念を実現することではない。自分が「強者」であることを府民に知らしめる、つまり独裁者になりたいのだ。    

  筋金入りのナチ党員ゲッベルスが言ったのは、信念を実現させる手段としての宣伝である。

 『嘘で塗り固められたプロパガンダというのは、それがニセの大義であることの証である。長期的には必ず失敗するものなのだ』

 『優れたプロパガンダは嘘をつく必要がない。むしろ嘘をついてはいけない。真実を恐れる必要はないのだ。大衆は真実を受け入れることが出来ないというのは誤りだ。彼らにはできる。大事なことは大衆が理解しやすいようにプレゼンテーションしてやることだ』


 天皇が生き神ではないことがバレた時 、「絶対に自分の意見を通したいときに、ありえない比喩を使うことがある」「たとえ話で論理をすり替え相手を錯覚さ」せただけなのだ、と天皇を担ぎ上げた連中は嘯いたことだろう。そうしなければ、戦争指導犯罪者として処罰される。だから「・・交渉の過程で“うそ”も含めた言い訳が必要になる場合もあると考えている。正直に自分の過ちを認めたところで、何のプラスにもならない」と言い逃れことにしたのだ。そうでなければ、天皇メッセージで沖縄を占領軍基地に提供して、帽子を振りつつ全国を行脚することなど出来はしない筈だ。どんなに不当なことでも、矛盾していることでも、自分に不利益になることは知らないふりを決め込」んだのである。

 二度とこんな嘘を通用させない為にこそ、沖縄独立と日本の独立が欠かせないのだ。

 ゲッペルスさえ嘘を排して自殺を選んだのに対し、日本の支配者達は嘘の上塗り自体を「信念」にして増殖し続けている。



「優秀」印なら物言えぬ賃金奴隷でもいいのか

  身体的に健康で精神的な幸福度が低ければ、奴隷に適している。
先進38カ国の子どもを比べたユニセフ調査(9月3日)によれば、日本の子どもたちは、身体的健康は1位なのに、「精神的健康」は、37位と調査対象国中ワースト2位。1位はオランダ、2位がデンマーク、3位はノルウェーと、北欧の国が上位を占めた。
 「学力」はPISAテストの読解力・数学的分野で、38か国中5位で上位となっている。一方、社会的スキルでは「すぐに友達ができる」と答えた15歳の割合は69.1%で38か国中37位。
  読解力・数学的分野で38か国中5位を単純に喜べない。批判精神が伴わなければ、政権の意図を直ちに「読解」して忖度する霞ヶ関官僚の「忠犬」振りを約束するに過ぎないからだ。
 「すぐに友達ができる」社会的スキルが低ければ、政府や資本の危険な意図を読解し仲間を組織し抵抗する可能性も低いわけだ。
 

   OECD先進7ヵ国の調査でも、日本の子どもの自己肯定感は断トツに低い。昨年内閣府が公表した2019年度の「子ども・若者白書」によると、「自分自身に満足している」という質問に対し、「そう思う」「どちらかといえばそう思う」と回答した日本の若者(13~29歳までの男女)は45.1%しかいなかった。
 
   動物園の動物が、野生動物よりはるかに平均寿命が短い。それは餌や行動などを自ら選択しないからだ。重い責任を伴う幹部たちの平均寿命は、生涯にわたって指示される平よりも長いし健康でもある。休みもせずhardな日々でも長生きなのは、裁量権や選択権があるからだ。

 4ヵ月の乳児に、ひもを引っ張ると音楽が聴こえることを教えたら、とても喜び落ち着いた。ところが、「音楽のひも」を奪い不規則に音楽が聴こえるようにしたら、乳児たちは悲しげな顔をし腹を立てたという実験がある。コロンビア大学のシーナ・アイエンガー教授は自著の『選択の科学』でこう語っている。

子どもたちは、ただ音楽を聴きたかったわけではなかった。音楽を聴くかどうかを、自ら選ぶ力を渇望したのだ文藝春秋刊
 中国帰国生たちが正月に、他校の帰国生を連れてきたことがある。彼女は指定校推薦でなかなかの国立大学に入ったのだが
 「先生聞いて頂戴、如何して日本の教師達は私たちの希望を無視して、偏差値の高い学校を押しつけるの」
 「善意のつもりなんだ。彼はこう思っているよ。偏差値社会の日本で暮らすうちに何時か君が彼に感謝すると」
 「私をランクの高い学校に入れて、自分の手柄にしているだけなのよ。」
 「辞めてもいいんだよ」
  「私もそう言ったの。そしたら指定校だから来年の受験生に迷惑がかかるから、辞められないと脅かすのよ」

 自ら選ぶ意志を無視する教師の罪は深い。仮令失敗したとしても、自ら決意しての失敗からは学ぶものは多い。与えられた「成功」体験は、更なる指示を待ち望む「依存」が生じるだけだ。
  部活も日々の授業も受験も、「指導」と言う名の指示に従うだけ。皆が同じ方向を向いているとき、それを疑い変える、それが主権者らしさなのだ。教師は生徒を優秀な奴隷に仕立て上げ、豊かなら「やむを得ない」と自らの成果を誇るのだろうが、もはやどうあがいても豊かさに手は届かなくなっている。「自助・共助・公助」を掲げた政権が、主権者の審判抜きで湧いて出たが、共助・公助の余地は既にない。
 2018年度の「問題行動・不登校調査」(文科省)によれば自殺した少年(小中高校生)は昨年度1年間で332人(小学生5人、中学生100人、高校生227人)。昭和63年度以降、最も多い。気懸かりなのは多さだけでは無い、自殺の要因「不明」が6割を占めているだけでなく、国内の自殺者数は9年連続で減少する中でのことだ。2019年の数は、来月出る。優秀に育ったとしても奴隷にしかなれない。自殺の要因「不明」が多いのは、自分の尊厳さえ知らないからだ。 少年が生きる気力を持てない世の中にした事の責任を、大人特に教師は負わねばならぬ。
  教室に『謀反論』が必要だ。

祖父は敵前逃亡したのか

江戸時代土木設計にどんな数学を用いたのか
 祖父の訃報に僕が熊本から駆けつけたのは、小学校に入ったばかりの時。だから僕にバイオリンの弦を持たせることを楽しみにしていた病床の祖父を知らない。
 それを補ったのは叔父である。彼は町史の編纂で知った情報を「内緒だぞ」と度々耳打ちしてくれた。
 「わっこんげーん爺さんが海軍ば辞めやった時な、だいぶ上層部で揉めたごたる」と教えてくれたのは、僕が中学生になってからだ。母たちは病気で引退と説明していたが、僕は叔父の言葉に惹かれた。僕はそのとき叔父に、慰留されたのか、敵前逃亡を疑われたのかと聞いた。叔父は敵前逃亡の語を否定も肯定もしなかった。
   俄然祖父が、豊かな人格を持って生き生きと立ち上がった。
 思えば、片田舎の古い家や軍人の家にはあるものが何も無かった。天皇や元勲の写真、軍刀、軍帽、勲章・・・何処にも無かった。それらしいものは、大きな双眼鏡だけ。部下の旧軍人が訪ねてくることも、家の中で軍歌が響くことも無かった。誇らしい記憶である。
 
 小学校入学までの勉強を僕に禁じたのは、この明治生まれの祖父であった。海軍兵学校で弾道学や船舶運用を講じたが、水兵からのたたき上げだ。祖父は高等小学校を出た後、17歳を待ち志願して四等水兵となった。


 藩政時代から、代々数学は役目上必須であり得意でもあった。島津一帯に「樋渡」の名を刻んだ石橋がある。石橋や石垣の構造計算や設計から、人足等諸経費の計算と現場監督に明け暮れた。荒くれ者の少なくなかった人足たちの揉め事の仲裁まで引き受けていた。  

 石垣や河川堤防の測量設計に三角関数は欠かせなかった筈。和算にも三角関数はあった。鹿児島のそのまた僻地の下級武士が、その知識・技術をどのように獲得したのか。江戸時代和算は高度に発達を遂げていたが、その三角関数は土木測量や計算に用いられたのだろうか。
 江戸時代和算は、義太夫や俳句など私的趣味の類いであったからだ。祖父も書道や水墨画を始め三味線にバイオリンと趣味は広く、第九交響曲のSPレコードや手回し蓄音機もあった。
 もし祖父が数学好きなら海軍同様学費のいらない師範学校に進む手もあった。何故そうしなかったのか、得意だが教えられるのは厭だったのか。学校の雰囲気が肌に合わなかったのか。
 
 祖父母の養子となった父の実家も、藩政時代には同業だった。数学には堪能で、トラス構造にかかる応力値を求める近似式を若くして開発、特許登録している。この式には三角関数が含まれている。父はこの知識を何処で得たのだろうか。
 更に分からないのは、父がその特許を公開してしまったことだ。高度成長期には多くの橋梁がつくられ、トラス構造計算に父の近似式は盛んに用いられたが、彼の財布には一銭も入らなかった。コンピューターのない時機、日本全国の土木設計事務所では、父の近似式を使った計算のために手回しの機械式計算機がけたたましい音を立てた。

 父にとって数学はもはや趣味ではなく、学問であった。しかし個人的利得手段にするほど私的なものとは考えていなかった節がある。

 祖父は暗算が得意だったから、軍艦の大砲の弾道計算に引っ張り出されたに違いない。陸の大砲と異なり、軍艦は自他共全速で動きながらの発射だから、複雑な関数計算、特に三角関数は欠かせない。しかも迅速に決断しなければならない。
 祖父の引き出しには、三角関数の目盛りのある使い古した計算尺と算盤があった。何処でそれを学んだのか、独学か。 
計算や仲裁の能力は、体制が滅び仕事が消滅してからも受け継がれたのか。
 海軍には砲術学校があったが、将校の教育機関で下士官は入れない。いずれにせよ命じられて下士官のまま、兵学校で教鞭を執った。教え子には高松宮もいて、面白い挿話を祖母や母は聞いている。

 早々と将校に昇進、官舎と当番兵が割り当てられ毎朝運転兵が車で迎えに来た。
 英王室の式典に遠洋航海したこともあって、バイオリンと蓄音機と洋食のマナーを我が家にもたらした。
 1932年には上海事変に海軍陸戦隊を輸送した。このとき祖父は自筆の絵はがきを、母と叔母に何枚も送っている。兵隊や軍艦の絵はなく、苦力や屋台の物売りが筆で描かれ彩色が施され「湯気を立てて屋台の肉まんが旨そうですが、軍医から厳しく禁じられてます」と文が添えられてあった。
 祖父が見たのは苦力や屋台ばかりでは無い。日本人僧侶襲撃事件もあった。日本山妙法寺の僧侶と信徒が数十名の中国人により襲撃され死傷者を出した。しかしこれは、当時の上海公使館附陸軍武官が、板垣征四郎大佐に列国の注意を逸らすため事件を起こすよう依頼され、中国人を買収し襲わせた謀略であった。


 突然祖父は軍隊を辞めるのである。
 都城で晴耕雨読の生活の後、志布志築港の絶景点
に石垣を組んで家を建てている。そんな場所をどうやって手に入れたのか、合点が行かない。
 1935年4月 志布志線が東に延伸。これに合わせて、敷地は造られたと考えて間違いは無いと思う。祖父が設計したと考えられる石垣も屋敷も、上り勾配の線路に接して港側である。  続く
         

知を伴わぬ力は暴走する。知が運動と結べば「危険」思想視される。

 「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角かどが立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。 住みにくさが高じると、安いところへ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟ったとき、詩が生れて、絵ができる。人の世を作ったのは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三件両隣にちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国に行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくいところをどれほどか、寛容て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職ができて、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊い。 住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、ありがたい世界をまのあたりに写すのが詩である、画である。あるは音楽と彫刻である。こまかに云えば写さないでもよい。ただまのあたりに見れば、そこに詩も生き、歌も湧わく。着想を紙に落さぬとも璆鏘の音は胸裏に起こる。丹青は画架に向って塗抹せんでも五彩の絢爛は自から心眼に映る。ただおのが住む世を、かく観かんじ得て、霊台方寸のカメラに澆季溷濁の俗界を清くうららかに収め得れば足る。『草枕』
                                                             
 
漱石は、博士号は要らぬ、帝大教授も真っ平と、意地を通した。だが意地は個人的、対して芸術は「住みにくいところをどれほどか、寛容て、束の間の命を、束の間でも住みよく」する。政治も又同じ役割を持っている。
  
   米国で黒人差別が撤廃されて4年目の1957年、依然として偏見は根強かった。人種隔離は、「知のない力」として暴走し続けていた。それを打ち破るのは、思想に裏付けられた直接行動である。
 

胸を張れ、勇気ある危険思想が世界を前進させる
 Elizabeth Eckfordは白人だけの「リトル ロック高校」へ入学した最初の黒人の一人であった。白人たちは黒人高校生に大いに抵抗を示した。大口をあけてElizabeth Eckfordをけなす白人が写るこの写真は20世紀のトップ100の写真の1枚に選ばれた。
 この写真が公開された当初、この白人少女は人種平等の危険思想に反対して「正義」を貫く自身が誇らしかったに違いない。 が、やがてこの写真は彼女を苦しめることになった。Elizabeth Eckfordに謝罪し、仲良く並ぶ写真を撮ったという、1997年になっていた
 TV画面狭しと 、杜撰なhate言説に「ドヤ」顔して胸を張る芸人たちもやがて自らの姿を恥じるようになる。だが途方も無く長い年月を要するだろう。

校長の適否は授業を受けた生徒が最終判断すべし

 校長に「何故授業しないの?」と詰め寄った女子高生がいた。真っ当な詰問。
   OECDが国際教員調査「TALIS 2018」で、授業をする校長の割合を国別に調べている。日本の数値は突出して0.0%。東欧諸国は90%台、チェコでは校長全員が授業している。フランス13.2%、フィンランド60.7%、0.0%なんて国は他にない。異常なのだ。ある大学教師もそれを分かりやすく表にまとめている。 http://tmaita77.blogspot.com/2020/08/blog-post_28.html

 女生徒の慧眼は、OECDや大学に先んじていたわけだ。ただ大学の先生は、校長の職務規定に「必要に応じ児童の教育をつかさどる」の文言を加えたらどうかと提言している。

 「校長の適否は授業を受けた生徒が最終判断すべし」でなければならぬと思う。主権者教育とはそういうことだ。そんな学校で思う存分「生意気」を尽くした若者であってこそ、企業で政府で社会で筋金入りの批判的市民となり得るのだ。「公(おおやけ)」はそうした動きがなければ、絵に描いた餅に過ぎない。公は常に更新されねばならぬ。既に存在して「参加」するだけの入れ物ではない。

   校長の職務は、「校務をつかさどり,所属職員を監督すること」(学校教育法37条)で、教員の「児童生徒の教育をつかさどる」という文言がない。それを根拠に法令上授業出来ないと居直る事を恥とも不満とも思わない神経を、涵養しているのが日本の教育行政である。
 
 政権topは世襲の繰り返しで加速度的に劣化。劣化すればするほど
政権topは、短期的成果を求めて現場への独善的介入を繰り返す。思い付きの軽薄な介入が、支持率操作の常套手法となった。批判精神を捨てた愚者を、無分別な行政が選抜し引き上げる構図が定着。学校に限らずあらゆる組織の「長」に、忖度と恫喝以外の能力は要らなくなった。
 冒頭の校長は女生徒を恐れて、校長室に鍵をかけて籠もってしまった。

衛生とは「いのち(生)をまも(衛)る」こと

似島検疫所は当時世界最大級
 衛生を単にsanitaryの訳語=汚物処理だと考える人は多い。明治年間、未曾有の危機から国民を救った国産の造語である。
日清戦争(1894年~1895年)で日本軍は戦勝したものの、大量のコレラ罹患兵を抱えた。 この時期、明治27年の患者数は546(死者314)だったが明治28年1895年には患者数5万5144(死者4万154)と爆発。戦場から多数の患者および保菌者が一気に傾れ込めば、各地はコレラ恐慌に見舞われることは明らかであった。
 その危機に直面して、3カ所の検疫所が計画・建設された。うち呉軍港に近い似島検疫所は、僅か2ヶ月で総建坪22,660坪、401棟の検疫所を完成。当時世界最大級の施設。この検疫で消毒した艦船687隻、総人員232,346人、内コレラ患者総数369人。コレラ罹患が確認された者は直ちに収容され、九日間の療養と再検査の後、故郷に向かった。他の国のように各地に散った帰還兵が病気を蔓延させることは無かった。
 
後にドイツ皇帝は日本の軍医に対し、「この検疫事業は無上の大成功である。日本は軍隊が強大であるばかりでなく、かかる事業を遂行する威力と人才があるとは」と驚嘆を伝えている。 
 このとき、衛生の語を「命をまもる」の意味を込めて造り、計画から建設運営までやってのけたのは、後の東京市長後藤新平である。僕はここで後藤の「功績」を語るつもりは無い。 位階や爵位ある者の義務だからである。
 肝腎なことは、戦傷の苦しみと死の感染症に怯える帰還兵にとって、検疫所の広大な設備と手当てはどんなに心強かったことだろうかという点にある。 人々の安心は、莫大な費用を浪費した挙げ句多くの兵士を死に導いた巨大戦艦の姿や零戦から生じるのではない。

 奮闘(検疫関係者の感染死は50 名を超した)の甲斐あって、1895年9月には患者は激減した。  しかし大流行が収まるには1920年を待たねばならなかった。
  ここでは日中戦争中も検疫が行われ、原子爆弾投下後は被爆者の臨時救護所となった。戦後は厚生省検疫所、1958年閉鎖。広島市内の似島避病院舟入分院は、広島市立舟入市民病院として今も存続している。

 今コロナに怯える我々は、世界最低レベルの検査と不足する貧弱な施設に苦ししめられている。130年前にやれた事さえ出来
ない。遙かに貧しいベトナムやキューバが徹底した医療政策によって、コロナ制圧に成功した事実から何一つ学べない。日本政府には「衛生」=命を守る思想は無いからだ。それ故コロナ対策担当大臣は、厚労相ではなく経産相なのである。国民の命より、利権なのだ。官房長官は「感染防止は個人の責任」と言い捨てる残忍さである。

若者を貧困と無知から解放すべし

    「病気の原因は社会の貧困と無知からくる。」「だがこれまで政治が貧困と無知に対してなにかしたことがあるか。人間を貧困と無知のままにしては置いてはならないという法令が出たことがあるか」   黒澤明は『赤ひげ』で新出去定に怒りを込めてこう言わせている。             ...