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『ものをこわがらな過ぎたり、こわがり過ぎたりするのはやさしいが、正当にこわがることはなかなかむつかしい』
と言ったのは、寺田寅彦である。それゆえ、彼は人々が無暗に恐れる現象に根拠がないことも見抜くのである。
「大学の構内を歩いていた。病院のほうから、子供をおぶった男が出て来た。近づいたとき見ると、男の顔には、なんという皮膚病だか、葡萄ぐらいの大きさの疣が一面に簇生していて、見るもおぞましく、身の毛がよだつようなここちがした。背中の子供は、やっと三つか四つのかわいい女の子であったが、世にもうららかな顔をして、この恐ろしい男の背にすがっていた。
そうして、「おとうちやん」と呼びかけては、何かしら片言で話している。そのなつかしそうな声を聞いたときに、私は、急に何物かが胸の中で溶けて流れるような心持ちがした」 寺田寅彦(大正十二年三月)
科学者には、人々の認識を迷信や魔術から解き放つ社会的任務がある。実態を見抜き本質を追及してこそ科学者である。自由は科学者の属性、僕の父も在野の数学者でもあった。
父と祖母の姿も、寺田寅彦の描いた親子のようであった筈。しかし僕は祖母の顔を想像出来ない。表情が浮かばない。顔に症状が現れた祖母に向かって、「ばぁちゃん」と抱き着いただろうか。就学前の僕は無類の泣き虫で、父や母を困らせていた。
父方の叔母は「直兄さんな、勉強はよく出来やった。ばってん、でひな母ちゃん子でな。妹のあたいから見てん甘えん坊じゃった」そう言いながら古いアルバムを見せてくれた。「でひな」とは、たいそうという鹿児島弁である。写真には坊ちゃん顔をした旧制中学生が、上等そうな小倉の夏服に高下駄姿で庭の石垣に腰かけている。
祖母の名「トメ」には、子だくさんに悩んだ曾祖父の願いが込められている。
「松原トメ」の名を、「菊池野」(恵楓園自治会機関紙)に見出した時、眠ったまま面会したのは祖母かも知れないと考え始めた。祖母が父を産み育てた土地の通称が松原であったからだ。
当時ハンセン病者は、療養所への「収容」と同時にそれまでの衣服も名も捨てさせられた。名を改めたのは手紙で感染の事実が知られ家族に迷惑が及ぶのを恐れたためである。迷惑を恐れて自死する者、親族による射殺や一家心中事件も後を断たなかった。それは偏見が人々にもともとあったからではない。
全生園ハンセン病図書館に、ガリ版刷りの古い「無癩県運動」一覧表があった。自宅で療養する患者を療養所に囲い込めば、ハンセン病が消えるがごとき動きを行政と専門家が先頭に立ってやったことが「無癩県」という名称に現われている。治療の観点ではなく絶滅隔離の視線が伝染力の極めて弱い病気に投げ掛けられたのである。偏見や差別が先にあったのではない、意図的に作られた結果なのだ。(収容患者の範囲が浮浪患者から全患者に拡大され始めたのは、1925年衛生局長通達からである。狙いは窮乏患者を救うためではなかった。重症患者等の園内重労働の担い手を確保する狙いであった。1931年癩予防法から本格化する。)
現在の鹿児島県webサイトには、「昭和4年頃からは,各県において,ハンセン病患者を見つけ出し強制的に入所させるという「無らい県運動」がおこり」と、行政の作為を恰も自然現象のように記述している。事実は、県が「無らい県運動」を組織したのである。おかしな話である。療養所に送り込めば、なぜ「無らい県」なのか。
療養所は厄介者の捨て場としての「外地」なのか。作家島 比呂志は、療養所を『奇妙な国』と呼んだ。その国境内は「日本」ではなかった。この国では滅亡が国家唯一の大理想であり、子孫を作らないために男性の精管を切り取ったのである。子どもも義務教育から除外。やがて死に絶える子どもには未来はないと断定した。
1905年の帝国議会では、ハンセン病をペスト並みと決めつけ隔離を要求する議員に、内務省衛生局長は、
「(伝染病予防法は)急劇ナル伝染病ニ対スル処置デアリマスカラ、或ハ隔離ト云ヒ、交通遮断ノ如キ、其他此多クノ処置ハ、癩病ニ対シテ、直チニ適用ハ出来難イ」と隔離を退けていた。
ところが初代全生病院長になる医師光田健輔は、渋沢栄一とともに「ペスト並みの怖い病気」という誤った印象形成に精力を傾け全国を遊説したのである。
これまではただ遺伝病だと思っていたらいが、実は恐るべき伝染病であって、これをこのままに放任すれば、この悪疾の勢いが盛んになって、国民に及ぼす害毒は測り知れない。 渋沢栄一
ハンセン病患者を外来患者として病院が受け入れることは、ペスト患者を外来患者として受け入れることと其理に於て大差ない。 光田健輔
猛毒性のペストを引き合いにした「恐るべき伝染病」という極端な誇張は、資金集めと偏見助長の格好の標語となった。だが言葉の偽造は、我々を真実の発見から遠ざけ、実態や本質を隠蔽する。(コロナ対策行政が、繰り出す「ウイズ コロナ」や「新しい生活様式」などの標語も、コロナの実態と対策から国民の視線を遠ざけている)それを街の煽動屋ではなく専門医と渋沢がやったことに恐ろしさがある。僕が渋沢を新しい日銀券にふさわしくないと主張するのはこのためである。
1953年からの2年、熊本市黒髪町の龍田寮児童(ハンセン病療養所菊池恵楓園入所者の子弟)通学をめぐる全国的事件があった。龍田寮事件とも黒髪校問題とも言う。この事件の最中僕は、堀に入って遊んだことになる。
文部大臣や大学が混乱の調停にあたったが、同盟休校にまで発展、 1955年秋から子供たちは、親戚や熊本県内10か所の児童養護施設に極秘に引き取られた。
この年に開校したての詫間原小学校に入学。この学校と黒髪校は、熊本市中央を流れる白川を挟んで、歩ける距離である。
そこで、施設から通う三人組の一人と同学級になった。陰あるその子に妙に惹かれて遊びに誘った。しかし放課後になると、「施設のおばさんに遊んじゃいかんと言われとるけん」と三人で逃げるように帰った。校門の上から三人が白川にかかる橋を渡り、丘の麓に見えなくなるまで見ことがある。彼らの一人がひょっとすると「松原」君ではなかったか。父のすぐ下の妹も祖母と同じ時期に戸籍から消えている。ハンセン病療養所の夫婦は断種を強制され子どもを持てなかったが、恵楓園では患者が出産したケースがある。
追記 画像は寺田寅彦、後方に写っている女性が母のアルバムにあった父方の祖母に似ていて気になる。 続く