四谷二中 9   特別権力関係論

   二中冬は、霜柱が立つ日も校庭での朝礼があった。いくら寒くても朝礼無しにならない。僕はその極寒の朝礼の中身をほとんど覚えていないのだが、自慰は体にも頭にもよくないという説教と、寒くてもポケットに手を突っ込むなという指示は覚えている。

  「おい、"たわし"あれを見ろよ」と後ろからささやく声がする。視線をたどると斜め後方の教師が、ポケットに手を突っ込んでいる。ぐるっと見回すと、何人もの教師が同じ姿勢で佇んでいた。

  「きたねえな」「何で生徒はイケなくて、先生はいいんだ」教室に戻りながら、口々に言う。

 「"たわし"、聞いて来いよ」

 こういうのはいつも僕の役目だった。昇降口の傍に立ってポケットに手を突っ込んでいた教師に、仲間数人で詰め寄った。

 「どうして生徒はポケットに手を突っ込んじゃいけないのに、先生はいいんですか」と問うと、それまでニコニコしていたのが、真顔に戻った。

 「立場が違うんだ、生徒と教師は」

 級友が吐き捨てるようにたたみ掛ける。

 「そういうの、特別権力関係論って言うんだ」

 「ごちゃごちゃ言わずに、教室に戻れ」と追っ払われた。

 「なんだ、今の特別何とかというのは」

 「俺も詳しいことは知らないけど、裁判で会社が働く人を煙に巻きたいときに使うらしいんだ」

 彼は、かなり有名な弁護士の息子。さっそく級友連れだって聞きに行った。門のある家で、出窓が印象的だった。

 応接間におしかけその場ではわかったが、ドイツでナチスが使った論理だということだけが記憶に残った。


 管理主義が高校で荒れ狂った1970年代後半、僕はこの言葉を再び耳にすることになる。

多数への隷属を打破する民主主義 絶えざる政治的平衡 

 

 革新派のルイス・イナシオ・ルラ・ダシルバが、保守派の様々な妨害を押さえてブラジル大統領に復帰した。 

 保守派が多数の議会を相手に、ルラ大統領はどの程度の統治意思決定力を発揮出来るか。

 ここで思考を巡らせるべきは、嘗てブラジル議会が革新的議会があったことはないという歴史的事実である。最高の憲法を作った1988年でさえも。左派の議員は16人で、残りはすべて保守政党の議員だった。しかし、それでもブラジルは進歩的な憲法を制定出来た。(上院81、下院513)

 議会は社会的諸勢力の相関関係を反映する。ルイス・イナシオ・ルラ・ダシルバが資産家勢力や古い政党と築いた関係は、政府に安全を与えるための歴史的制度でもある事を理解する必要がある。

 ブラジルの進歩的大衆は、ルラ大統領が国家の矛盾に立ち向かう事を期待している。ルラ政権の急進性の度合いや構造改革の進展は、大衆の勢力と圧力にかかっている。

なぜなら、社会の歴史的構造変動は常に大衆の結集に支えられて来たからだ。

  コスタリカで革新政権が成立したことはただの一度しか無い。この事実を知ると日本の平和勢力は仰天する。肝心なのは体制では無い。民衆の絶えざる運動なのだ。出来上がった体制に依存したり「代行」させたりする事ではない。


 希な例だが、アメリカの西部劇でただ一つ感心出来ることがある。銃と略奪が幅を効かせる西部の町で、新聞が果たす役割を見事に描いている作品がある。頑固者の新聞発行者は、銃や略奪に依存する保安官や市民に距離を置いて細々と輪転機を回している。その新聞を市民は買う。市民に背を向ける新聞を読むのだ。そして自ら判断する。

 新聞が多数に傾いたり特定の判断をするのでは無い。判断の主体は市民。

  何が正しいかを判断する独立した市民のバランス感覚がここにある。暴力や貧乏にも屈しない自由な精神がある。  

  日本国民は、新聞に一体何を求めているのか。プロスポーツや公営ギャンブルの勝ち負け、天皇一族や芸能人の消息スキャンダルか、世界大会のメダルか。自分たちの尊厳を無きが如く扱われてさえ歓喜する隷属性。日本の新聞と広告代理店はそこに的を絞って恥じない。付和雷同そのものが事柄の価値付け動機となる空虚な危うさがここに生まれる。

 体罰や腐敗が横行しても生徒会「新聞」は批判するすべを知らない、なぜなら新聞部や委員会室を仕切るのは顧問と言う名の他者だからだ。体制の広報はジャーナリズムたり得ない。従順な生徒に教師は安堵し、服従を分掌する教師に管理職は安堵し・・・この逆転しない構造が何処までも続く。この構造は空虚な「国体」に収束するように工夫されている。

 何処にも日々の授業や成長する若者の姿は無い。卒業「式」の答辞には一過性の幼稚な涙と感動の場面が語られ、親も教師も教委もつくられた予定調和を賛美する。主権者は絶えず異議を唱えねば消える。

 

  服従本能を持ち付和雷同する人間の群れを「畜群的人間」と言ったのはニーチェであった。

 日本の学校は幼稚園から大学院まで「自由な民」としての子どもを、コンパニオンアニマルに仕立てる事が要求される。そのためだけに学校の日常を、様々な行事で涙と感動づくめにするのは、成果を目に見えるように求められるからだ。管理社会では、目に見えないものは成果ではないとして葬られる。

 「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ」サン=テグジュペリ

 コンパニオンアニマル化は「自由な民」への虐待に他ならない。

    「可愛い」ペット=コンパニオンアニマルは、体制=飼い主に服従する以外の幸福はない。ものを見るための心を捨てたからだ。オルテガの指摘を日本の学校の日常が先取りしている。

  「俺に任せておけ」と言いたがる活動家や政治家。そして彼らに不和雷同し、やがて暴走する世間の姿が「国家の奴隷」。

平凡な価値 と 共同体の規模

  一学年10学級が続いた悪夢の日々を思い出す。学区は選択の多様化をうたい文句に無闇に拡大。それを教委は「自由」の拡張と錯覚させ、親も中学生も教師もこんな安手の詐欺にまんまと引っ掛かってしまった。

 受験生に選択の余地はなかった。彼らは受検産業の用意した「偏差値」に相応しい学校を指定されるに過ぎない。「偏差値」が低すぎても高すぎても近くの学校は、予め「自由な選択」からは排除さているのだ。

 おかげで教師も生徒もは、1時間以上を満員電車で通勤通学させられる。学校に着く頃には既に疲れている始末。

  平等と民主を欠いた「自由」の実態を良く表している。

 「高校増設運動」は時間的に追い詰められ、教育の「質」を自ら放棄したのだ。「子どもの声」を騒音扱いする価値観は共同体の拡大や消滅に伴い拡がる。幼稚園や保育所の立地が難しくなっている。保育者の幼児に対する体罰も起こる。

 共同体か小さければ、子どもたちの遊び泣く声は煩さくない。親や祖父母を安心させ和ませる機能がある。保育者も親も子どもも古くから続く共同体で生まれ育ち、互いに気心が知れている事の価値を我が国は破壊し続けている。それを地域の「発展」といつわつてきた。

 1888年日本には7万314の自治体があったが、2019年現在1718にまで減少。フランスは3万8000ドイツは1万4500 の自治体があり、それぞれ一自治体あたりの人口は1600人と 5600人である。日本は7万8000 人である。

  我々の社会の自殺の多さ、いじめ、貧困に対する不寛容は、ここに根を探る必要がある。


  社会の大きさや複雑さの違いは、社会のあり方を、従って人間のあり方を変える。

 例えば村会と国会の運営には質的な差がある。数千万、数億人を対象とする様々な案件を抱える国会では集団の利害や党派の一般原則に基づいて討議決定せざるをえないが、村会では、政策の提案者や対象となる個人を考えて柔軟に決定できる。お酒の好きなこの人を、酔っ払い、博奕好きという属性だけを切り離して判断しないということである。子どもと博奕打ちの、曖昧さを含んだ有機的関係を固有名詞のまま連続的に捉えるということ、それが小さな共同体では可能になる。酔っぱらいの博奕打ちの変化を、多くが目にし話して確かめることが出来るからである。自治を支える人口的条件がそこにはある。 

 人口が増加すれば、こうした判断(曖昧さを含んだ有機的関係を固有名詞のまま連続的に捉える)は難しくなる。酔っぱらいの鼻つまみは固有名詞を奪われ、多数雑多な厄介者の一人として一括処理されてしまう。彼らが孤立状態から共同体への回帰するためには、多数への順応・同調という手続きのみが残り、同調できなければ罰と排除が待っている。 彼らの全生活の複雑性の理解と把握は顧みられなくなる。同時に社会は豊かな文化性を失う。リベラルな教養はその文化の中にある。

  小さな共同体で、ひとは全て、取り替えることの出来ない固有名詞の複雑な全体として承認される。それが平凡という価値であると思う。平凡は平均ではない。千人程度の「奇妙な国」で、それが可能であったことの持つ意味は深い。何故なら「社会」では、企業も自治体も学校さえもが合併して、人は特性のない諸属性に解体・分類・適応され、従って絶えざる競争と孤立の日常に埋没してしまったからである。


 勘違いしてはいけない。大きな都市でも日常的な生活決定の単位を小さくすることで共同体は小さく出来る。通勤や通学圏の縮小、世界を仰天させる悪習=単身赴任廃止は行政の決意にかかっている。遠方への高速で高価な交通機関や設備ばかり心を奪われ、日常の安価で便利な施設に目が向かないのは我々の意識か奴隷化してしまったために違いない。

 プラトンは奴隷を「自分の行動において自分の意志ではなくて誰か他人の意志を表現する人間」と定義している

独立した外交見識と手腕が平和には欠かせない

  「麗人科学者」山村八重子(1899〜1996年)の日記を読み解く連載が東京新聞にある。その第6回が彼女の兄山村一郎。


 山村一郎は早慶明三大学リーグ誕生の「生みの親」でもある。 1914年、応援団同士の諍いで長く早慶戦が中断したが、この早慶を仲介したのが山村一郎だった。最初は早明、慶明戦だけではあったが、三大学リーグが結成された。そこに法政、立教、東大が加わり、11年後に六大学に発展、早慶戦も復活した。


 フィリピンで大規模ヤシ園を切り盛りしていた一郎は、戦時中の42年5月奏任官(高等官)待遇の陸軍嘱託で大佐の扱いとして地元民との間を取り持った経歴がある。

 当時の陸軍軍政監部出張所長の証言によれば「あの地域では、あとから戦争犯罪に関する裁判の呼び出しが一つもなかったのですが、それは山村さんのおかげですよ」「憲兵隊長も山村さんのご意向を聞いて、決して無理をされなかったから、ザンボアンガだけ憲兵隊の問題が出てきません」「この人がおらなかったら、行政にしてもなににしても、話がうまく進みません」と、現地の事情に精通する一郎が重要な役目を果たしたことを明かしている。当時のフィリピン自治政府大統領のマヌエル・ケソンと山村一郎の写真(1936年)も残っている。

  独立した外交見識と手腕が平和には欠かせないことが判る逸話である。「統帥権の独立」と言う謀が軍部の横暴を許し、日本を一億層玉砕の淵に追い込んだのだ。戦犯たちは責任逃れに奔走、沖縄を嘗ての鬼畜に売り渡し、外交軍事の全てにわたって従属している。何が「cool japn」だ。

 敗戦後、山村一郎は米軍捕虜となり、レイテ島の捕虜収容所で捕虜代表を務めた。ヤシ園など現地の資産をすべて失い46年暮れに帰国。

遅刻は「指導」対象か 優しく眠らせるべし

  睡眠を妨げると如何なる生物も認知能力は著しく低下する。昆虫やミミズから象や鯨はもちろん類人猿も学習が妨げられる。現代日本人は寝足りているか。


 若者の若者の睡眠時間は、国際的にも歴史的にも惨憺たる有様だ。

 にもかかわらずTV番組では、日本人が如何に優れ、外国人の憧れ賞賛の的になっているかの映像で隙間もない。寝る間も惜しみ、寝る間も奪われて過労死も世界一。満員電車での通勤時間も世界一だ。

 青少年が眠りを奪われて壮年に達するとき、日本の認知能力の低さは目を覆うようになるに違いない。それは政権党議員らの知的倫理的堕落として既に現れてしまった。

   或人、法然上人に、「念仏の時、睡ねぶりにをかされて行ぎょうを怠り侍る事、いかがして、この障りをやめ侍らん」と申しければ、「目のさめたらんほど、念仏し給へ」と答へられたりける、いと尊とうとかりけり。 吉田兼好『徒然草』第三十九段

「それなら目覚めている時に・・・」 兼好法師
 「念仏を唱えていると、どうしても眠くなって怠けてしまいます。どうしたらいいのでしょうか。」とある人が、法然に聞いた。・・・「それならば、目が覚めているときに念仏を唱えなさい」と、それが答。実に尊い。

選択できる「生活指導」を試す

  「生活指導」で問われるべきは、量ではなく質である。下町のある工高では、指導の長さや表面的効果ではなく担任や担当教師の取り組みの中身が問われ時期がある。その底流には、指導はあくまで生徒の「権利」であって、生徒に対する処分=罰ではないとの共通認識があった。しかし、学級担任や校務分掌としての生徒指導部に人気はなかった。生徒が主体と言う考えにどうしても馴染めないからだ。日数や時間が過ぎたからokとは行かない。教師個人の個性が反映することにもなる。職員会議での議論もややこしくなる。指導内容抜きの教員個人間の言い争いになりが

ちだ。  
 ある年、生活指導部送りになった生徒に、指導方法を選ばせることにした。担当は二人。指導室での説教、グランドの草取り、プールの掃除、職員室の掃除(清掃分担表から各職員室を外した。職員室清掃が生徒の分担という発想に僕は合点が行かない。)

  生徒に人気のあったのは、「グランドの草取り」。もう一度草取り指導してくれと言い出す生徒が続出した。担当二人の空き時間にやれば生徒は授業を脱ける、これは事前に職員会議で周知しておいた。工高は専門教科の実習や実験や製図が圧倒的、この時間を脱けることになる。

 グランドの木陰は校舎からは見えないから、普段から彼らの喫煙場所でもあった。その付近で今度は草取りをする、教師と並んで。面と向かってでは無く草や空を診ながら、いつの間にか対話になる。授業や教師ねへの不満から親や校則への不満もゆっくり話し合える。将来への不安が口にでることも。草取りは心身を解すにも丁度良い。終わった時には、生徒の表情が柔らかい、同じように僕らも柔らかい表情になっていたに違いない。

  しかし一見長閑な選択できる「生活指導」は、定着しなかった。

 教員は「強制してこそ指導」との先入観から自己を解放できない。この傾向は学校の「偏差値」ランクが下がるほど著しい。ここに、経済的・文化的貧困への止みがたい無知と偏見がある。

 加えて都立高校異動に関する「希望と承諾の原則」が、都教委による強制人事に変わったことも大きい。異動先の教育文化の違いを受け入れない教師が強制異動で増えたのだ。このような教師にとって、服装や頭髪の自由や、指導の選択制など論外だったに違いない。全都的に、全国的に「管理主義」教育が力を増していたのだ。 特定の生徒だけが管理されるように見える時、既に全ての生徒の自由も教師の自主性も侵害されているのだ。

反骨精神

  マーロン・ブランドは誇り高い若者だった。だが彼の父親は誇りを反抗と見做した。その矯正のために陸軍士官学校に入学させる。厳しく叩き直せば、素直になると考えたのだ。だが彼は教官にも口応えして謹慎処分を喰らう。謹慎の最中遊びに行ったことがばれて、卒業直前には退学処分。

 この除籍処分に対して「あまりにも一方的」「不公正」と学生全員が憤慨。次第にストライキに発展、根負けした士官学校長はブランドに、学業を修了して翌年に卒業するよう手紙を送るが、ブランドは復学も拒否している。

  彼は、クラスメートが自分に宛てた激励の手紙を自宅の寝室に飾って大切に保存していたという。


  マーロン・ブランド主演・エリア・カザン監督『波止場』は1954年アカデミー賞の監督賞、脚本賞、主演男優賞など8部門を受賞した。元ボクサーの主人公は波止場の日雇い労働者。港湾労働者の日当をピンハネして暴利をむさぼるボスに反抗、事件に巻き込まれ瀕死の重傷を負うが、信念に基づいて生きることに目覚めるテリーの熱意に心動かされた港湾労働者たちは、脅迫を続けるボスに背を向ける。ここに描かれた元ボクサーの姿は、矯正教育を強要する父親と士官学校長に従う事を拒否するマーロン・ブランドの生き様を思わせる。

   1972年の映画『ゴッドファーザー』ではマフィアのドンを演じアカデミー主演男優賞に選ばれるが、「ハリウッドにおけるインディアンをはじめとした少数民族に対する人種差別への抗議」して受賞を拒否。

 授賞式にはインディアンの服装をしたネイティブ アメリカンの公民権活動家リトルフェザー女史を登場させ、アメリカの映画作品内における人種差別、分けてもインディアン差別に抗議した。

 それまでのアメリカの西部劇映画では、史実を歪曲した外見・風習のインディアンを悪役として登場させ、正義の騎兵隊のワンパターン。マーロン・ブランドの抗議をきっかけに、アメリカの映画界のインディアン観は少し変わり始める。しかし日本で上映する西部劇では、相も変わらず先住民蔑視が今も続いている。

 

 差別に抗議するAIM(アメリカインディアン運動)代表がFBIに追われて逃走中、ブランドは逃走資金として1万ドルと逃走用の車を提供している。映画界だけではなく国家権力対しても闘う誇り高さがある。  

  マーロン・ブランドの反骨精神の万分の一ぐらいも日本の「芸能人」=「俳優」たちはないのか。電通やtvショッピングに支配された業界とスポンサーに過度に迎合した台詞と眼差しは、若い視聴者の世界観から誇りを奪う。迎合する見苦しい振る舞いを「金「票」で買われたのだから当然だ」と思うに違いない。「俳優というのは自分の言葉ではなく与えられたセリフ、人の書いた言葉を言う職業です」と情け無い言い訳をしたのは、酩酊するたびセクハラ絡みの乱暴狼藉を繰り返した自称「俳優」香川照之。

 統一教会に支配された政権党議員達の振る舞いや言葉は「・・・与えられたセリフ、人の書いた言葉を言う職業です」からすれば、至極自然に見える。

 マーロン・ブランドなら譬え喰うや喰わずになっても、電通やtvショッピングの画面にさらされるのを断固拒否したに違いない

  マーロン・ブランドの反骨精神の万分の一でも日本の「学

者」「官僚」「警官・判事・検事」「教師」たちにあったら・・・と思う。檻に閉込められた囚人のようにもはや彼らは自分の言葉では語れない。



 大逆事件の報を聞いた徳冨蘆花でさえ、一高生に「謀反論」を語ったではないか。彼は会場に溢れる若者にこう訴えた。

「・・・諸君、最上の帽子は頭にのっていることを忘るる様な帽子である。・・・我等の政府は重いか軽いか分らぬが、幸徳君等の頭にひどく重く感ぜられて、到頭無政府主義者になって了うた。無政府主義が何が恐い? ・・・幸徳君等は時の政府に謀叛人と見做されて殺された。が、謀叛を恐れてはならぬ。謀叛人を恐れてはならぬ。自ら謀叛人となるを恐れてはならぬ。新しいものは常に謀叛である・・・」

 2時間に及ぶ演説が終わると数秒の静寂の後、万雷の拍手がわいたという。蘆花は些かも「主義者」ではなかった

 

 

だいぶ昔の人力「SNS 」 / 僕らが失ったもの

  敗戦間もない1950年代、人々はどのように「社会的ネットワーク」を築いていたのだろうか。鹿児島の田舎、情報源は良くて地方紙と有線ラジオ。電話は壁掛けで余程の資産家でなければ手も出ない頃。

  1957年秋の事だった。町で一番高い山御在所岳を知った。クラスの男子の半数で日曜日に登る事になった。言い出したのは転校生の僕。

 前の晩、祖母たちは御在所岳がどんな山か教えてくれた。道順も細かく聞いて僕はその夜なかなか寝付ず、寝坊してしまったが朝起きると、弁当と水筒と手ぬぐいや下着が祖父の背嚢に準備してあり、祖母たちまでが浮き浮きしていた。孫が冒険する歳になった事を喜んでいたのか。そういえば背嚢には軍隊用のコンパスに加えて熊よけの鈴までがぶら下がっていた。

 だが集合場所に来たのは僕以外にたった一人。約束したはずの何人かを訪ねると、うな垂れて親と一緒に立っていた。そしてお説教を喰らってしまった。「子どもだけで御在所岳に登るなんて危ない。あんたんとこは父ちゃんも母ちゃんも居れば屹度反対したはず・・・」反応はどこも同じだった。

 僕は家へ走って、祖母に報告した。

 「男が一旦約束したことは、簡単に諦めてはいかんよ。まだタップリ時間はある。」祖母たちはそう言う。


  意気揚々と川を遡り、分かれ道の角の大きな農家に立ち寄る。そこから道は大きな杉林の中。

 「御在所岳はどっちな」と聞けば

 「何処の子ね」

 「築港の・・・」と言うと、繁々と顔を覗き込んで笑いながら僕の苗字を当てた。祖母や大叔母の知り合いだった。

 台所から蒸かした芋を持ってきて

 「持って行け」という。

 続く農家はそれぞれ見えない程離れていたが、道を聞いたり井戸水を呑ませて貰ったりしながら必ず立ち寄った。もし行く方不明になれば、立ち寄った農家の記憶が手掛かりになる。

僕はまず水平線を引いた

 山頂が近づくにつれて森は開け、山栗やグミや椎が生えていた。採って食べなが見晴らしのいいところに出た。眼下に築港や家々の屋根が小さく見える。遠くには桜島、大隅半島、枇榔ヶ島、学校もお寺も川も。馴染みの町が手に取るように見えた。母が入院している結核療養所も浜辺の大きな松林の中にみえた。今度はあそこに行こう、あそこには団子、あそこにはきれいな湧き水が・・・と言いながら、互いに追いかけ合い、背嚢からスケッチブックを取り出して絵を描いた。


  アッという間に陽が傾いた、大急ぎで弁当を広げ道を戻り森の中に入ると既に薄暗い。熊も出そう。不安になり、知ってる限りを大声唄っていると、後ろからヘッドライトを点けたオート三輪がやって来て、

 「何処まで行くか、乗れ」と乗せてくれた。この時程ホッとしたことはない。川べりに出るとまだ明るかった。築港の入り口で降りて、集落を見たとき町並みが小さく見えた。(映画『スタンバイミー』の主人公達が三日の冒険の後感じたのと同じ光景。そのことに気付いてハッとしたのは30年後のことだ。)友達と別れ家に帰ると祖母たちと妹が待っていた。休む間もなく、「風呂の水を汲まんね、沸かさんね・・・」と声がかかるが、風呂は既に沸いていた。

 山で描いた絵を見せると「そうじゃが、じゃが、療養所が判ったね。角の婆さんは元気だったね・・・」。

   クラスの男子半数で登っていたら、こんなスリリングな体験は出来なかった。

 数日後、大叔母は芋の茶巾絞りを土産に僕が立ち寄った農家を訪ねたに違いない。それは祖母たちの楽しみでもあった。

  今は遠くなった昔のSNS=社会的ネットワーク・・・捨てたものでは無いだろう。人と人を優しく繋ぐのは、道具ではない。snsが便利なるにつれて、いじめやハラスメント・殺人か頻発している。賢い使い方が出来ないのなら捨てた方がいい。

   近松の時代にも、伴大納言の世にも、いつの時代にもそれぞれの社会的ネットワークがあった筈だ。共通しているのは、時代に相応しい狭さと遅さである。

 速さ、広さ、多さだけの仮想現実に気をとられる時、我々は実体ある人間と自然を忘れている。遅さと狭さが人の思考を確実にする。  

 あの頃、夜空には天の川が見えた。

暴発は制御できない


 






  中央値とは、データを小さい順に並べた時の真ん中の値。同じ値のデータが最も多い値は最頻値という。

 画像に示した年代別平均貯蓄額。驚くべきは20代と50代の貯蓄額の中央値が、それぞれ8万円 30万円にすぎないことだ。20代の半数は貯金が8万円以下だし、50代の半数は30万円しかない。日本は新自由主義経済の掛け声に浮かれて、気が付けばsafty netが破れて久しい。だから貯蓄に頼らざるを得ない。にもかかわらず政府は物価対策を放棄。

  報道によれば、壮年男性がコロナ感染して僅か半日で死亡したという。その間救急車が患者を乗せたまま問い合わせた病院は200カ所以上。それでも受け入れる病院はなく、走り続けた挙げ句自宅に戻り絶命した。同じような例が相次いでいる。これを医療崩壊寸前と呼ぶ行政もTVも狂っている、寸前ではなく既に崩壊。明らかな医療放棄。 僕が怖いと言っていたのはこのことだ。日本の新規陽性者数と1日当たりの死者数は世界1位、という惨状。とっくに子どもや既往症ある人や妊婦が医療から弾き出されている。病院経営には莫大な補助金がつぎ込まれるが、医療そのものは消滅。これは国民皆保険制度下の行政犯罪。狂気の沙汰。

 その上実質賃金は下がりつづけ年金も削られ物価は上がる。にもかかわらず弱者の怒りの行動は組織されない。弱者・敗者はまるで生きていること自体が罪であるかのように、恥であるかのように息を潜めている。tvでは警察ドラマと武将ものや公営ギャンブルとプロ化したゲームの勝ち組だけが画面に踊る。金がなければギャンブルか投資で稼げと宣伝が流れる。ギャンブルや投資に回す金もないのに。貧しい労働者は存在しないかのような電波の世界。

  うらぶれた街や狭く密集した住宅がドラマから消え、城や宮殿ばかりが登場する。社会全体が、貧しさ、敗者に対する想像力を失っている。

 恐れねばならないのは、こうして自我像を喪失すれば温和しく秩序ありげな国民ほど、輝かかりし過去の「栄光」に自己を埋没して一気に暴発することだ。

 成長著しい中国や韓国を揶揄する雑誌が売れ、攻撃的発言が視聴率を上げる。しかし滅びた日本の栄光は妄想の中にしかない。暴発も妄想も一度始まればコントロール出来ない。 

ヒトに人格、猫には「猫」格が、犬には「犬」格がある。 パンダにはパンダ「格」が。

  日本では犬にシャツを着せる。これは世界で殆ど日本だけの奇妙な光景。

   文部省唱歌『雪』の二番は

 雪やこんこ あられやこんこ  / 降っても降っても まだ降りやまぬ  / 犬は喜び 庭かけまわり  / 猫はこたつで丸くなる

 何故だ、汗腺のない犬にシャツを着せたがる。犬は肉球と舌だけで汗をかく。シャツはたとえ冬でも不要。南極の冬にもtaroと

jiroは耐えた。反対に猫は寒がりだ。

 犬をワンコと呼び、雌猫を女の子と言い可愛がるが、実態は「虐待」。犬や猫にも尊厳がある。猫には「猫」格が、犬には「犬」格がある。「猫」も「犬」も生物として独立対等であって、「ヒトもどき」や「名誉ヒト」では無い。  

 かって三井物産は社内報「三井海外ニュース」で「ここ数年来、南アと日本との貿易は飛躍的に伸長し、それに伴い名誉白人は実質的白人になりつつある。最近は、多くの日本人が緑の芝生のある広々とした郊外の家に白人と親しみながら、そして日本人の地位が南ア白人一般の中において急速に向上していることはまことに喜ばしく、我々駐在日本人としても、この信頼にこたえるようさらに着実な歩みを続けたい。インド人は煮ても焼いても食えないこうかつさがあり、中国人はひっそり固まって住み、カラードは粗暴無知、黒人に至ってははしにも棒にもかからない済度しがたい蒙昧の徒という印象が強い」と名誉白人扱いを誇った。おかげで日本は1980年代後半から南アフリカ共和国の最大の貿易相手国となった。儲かりさえすればという日本の姿勢は、1988年の国連総会採択の「南アフリカ制裁決議案」名指しで非難されている。


 日本人が猫にシャツを着せないのは、毛が柔らかいから直接撫でたいのだ。飼い主が気持ちがいい。対して犬の毛はゴワゴワで、心地よくはない。

 儲かりさえすれば、自分さえ好ければの思い込みは激しい。自分が善と思い込めば、他者の尊厳は目にも耳にも入らない。広い城跡に住む男を「現人神」と思い込めば、全体が思い込むまで強制し続ける。常に多数は全体。少数は無になるまで拷問を加えられる。

   日本に初めて二匹のパンダ・カンカンとランランがやって来たのは1972年。上野動物園では、国賓級のパンダを一目見

ようと大勢が押しかけたが、その生態は分からないことだらけ。餌も受け付けず、公開の目途もも立てられない。 困り果てた飼育担当者は、ヒトとパンダの壁を乗り越えるように、山形弁で夜も昼も語りかけるが、カンカンは衰弱し命の危機に直面。その間も人々は毎日行列をつくって待ち続け、黒柳徹子も撮影の日程を切り詰めて毎日外で並んだ。 苦心の末漢方薬を飲み笹も食べるようになった一週間目、飼育員が「おめえさ会いてえヒトが・・・」と声をかけて黒柳徹子が顔を出した途端、カンカンは仕切りのガラス際の彼女にすり寄ったのだ。飼育員が「お前、メスのランランに少しぐらい・・・」と言うほどの嬉しがりよう。

 彼女には不思議な能力がある。パンダの独立したパンダ「格」をとっさに承認。パンダの警戒心を解除、対等な関係を結ぶ。それはパンダに限らない、全ての動物、全ての民族、すべてのヒトの尊厳を感じ取る希有な能力に恵まれている。だから「徹子の部屋」はギネス級の長寿番組となった。


 「すべてのヒトの尊厳を感じ取る希有な能力」が最も期待されるのは、教師。若者一人一人の人格を、学校や教師からは独立した尊厳ある存在としてとらえる事が要請される。

 僕だったら黒柳徹子を文部科学大臣兼教師に任命したい。彼女には小学校を1年で退学処分された輝かしい経歴がある。枠にはまらない点で彼女の右に出るひとはない。世の不良・悪童・非行・はみ出し者、そして彼らの悩める親たちに向かい合い語りあえるのは、彼女のみ。


   これには素晴らしい前例がある。ギリシア映画『日曜はダメよ』の主演女優 メリナ・メルクーリ。彼女はギリシャに軍事政権が誕生すると直ちに反政府運動に加わり、全ギリシャ社会主義運動のアンドレアス・パパンドレウ内閣が成立すると文化大臣を務めた。
(映画『日曜はダメよ』の物語自体と主演女優メリナ・メルクーリの役柄そのものが、彼女が何故ギリシアの文化大臣に相応しいかを示している。)

破廉恥な特権。破廉恥を「自慢」する病理・狂気

  宗教政党の誉れ高い衆院選候補O氏は、衆院選公示日の2021年10月19日に、自身の「無修正」性交動画を違法公開。

《なんか、編集したらAVみたいになっちゃった》

などとTwitter投稿。同時にアップロードされたのが性交動画。彼は「法律に引っかかると思っていなかった」と平然と語っていたが、党はコメントなしで比例名簿から削除して幕を引いた。

 参院選出馬予定の元東京都知事が、街頭演説中に同じ政党の女性立候補予定者の体をベタベタと触りまくり。その様子がその党の公式動画で大炎上。

 問題の場面が記録されたのは、YouTube動画。I候補が吉祥寺駅前で東京選挙区予定女性の横で演説する様子が映されている。笑みを浮かべたI氏は女性立候補予定者を紹介しながら、肩や背中や胸元にまで手を伸ばし、複数回にわたって触れているのだ。この党は動画を非公開にした。

 I候補自身はしばらくして《軽率な面がありました。十分に認識を改め、注意をして行動していきたい》とするツイートを投稿して謝罪したつもり。


  K衆院議員(元女性活躍担当大臣)は、ある評論家からのツイート

《K先生、安倍総理殺害に関して、奈良県警からメディアなどへの不確実な捜査中の情報漏洩が起きているように思われます。過去の国会答弁からも国家公務員法の守秘義務違反に該当すると考えられます。適切な対応をお願いできませんか?》

に次のように返事した。

《長官は後輩、かつ知人なので、聞いておきます

 その半日後の同日夕方には、こんなツイートを平然と投稿している。

《警察庁長官に「奈良県警の情報の出し方等万般、警察庁本庁でしっかりチェックを」と慎重に要請致しました。これ以上の詳細は申せない点ご理解を。霞ヶ関を肌で理解する者同士の会話です。皆様の感じられた懸念は十分伝わっています。組織に完璧はありませんが、国益を損なう事はあってはなりません。》


 あるまじき破廉恥を自慢したがるのは、何故なのか。強い者には、世間は味方のように見えてしまうのか。「下々」に許されないことを平然とやるのが心地よいのか。それが強者・勝ち組の特権だと吹聴せずにおれないのだろうか。


 これら最近の破廉恥は、1937年当時のN少尉とM少尉による「百人斬り競争」(南京入城までに日本刀でどちらが早く100人斬るかを競った)自慢話を思わせる。彼らは東京日日新聞の取材に応じたばかりか、銃後の小学生や民衆の前で堂々と語っている。語った本人たちも、それを「前線勇士の武勇談」として喝采した民衆も正気を失っている。

  画像は米軍によるアブグレイブ刑務所でのイラク人虐待場面。女性兵士らは鼻歌で撮影したという。

  こんな破廉恥場面を記録したがる心情を疑う。判断力を失ったのか、狂ったのか、喜びを隠せないのか。まだまだ類例は幾らもある。
 衆院議長のセクハラ電話も正気では無い。彼らは自らの破廉恥を強者・勝ち組の特権と見做している。民主主義は特権の廃止なしには始まらないのだ。どこかに特権が残る限り、弱者の「権利」は必ず切り捨てられる。

 64年東京五輪バレーボール監督は、「東洋の魔女たち」を真夜中に叩き起こして練習させたと言う。金メダルの勝ち組には許される特権と見て、世間はこの「しごき」を容認した。それが今なお続く日本スポーツ界の体罰死を許している。 

 狙撃された元首相による「桜を見る会や加計学園等に連なる幾多の犯罪的不正」も、勝者・権力者の特権と世間は容認した。であれば民主主義を破壊したのは誰かはっきりしている。そして棚上げ切り捨てられた「権利」は夥しい。

ペリー来航は「武力介入」 

 嘗て米上院が米海軍に対して、武力介入の報告を求めたことがある。ニカラグアやアンゴラなどへのArmed interventionに混じって、RyukyuとJapanも報告されている。


  

   琉球では上陸したペリー艦隊水夫が女性に強姦暴行、仏壇の酒や食べ物を盗み、「位牌」を持ちかえり、また恩納村で酒に酔った米兵が住民に向け銃を発砲し、12歳の少年を含む三名の村人を負傷させている。 

 1854年6月12日には、那覇に上陸した水夫たちが酒と女性を求めて人家に押し入っている。強姦した水夫は住民に追われ海に落ちて溺死。

 最高責任者ペリーは、謝罪しないどころか逆に水夫が死んだことを問題にし、犯人の究明を求め、強硬な姿勢で「裁判」を開くよう琉球側に要求。7月7日、ぺリー同席のもとで裁判が行われ、投石した住民が八重山に終身流刑となっている。このリュウキュウへのArmed interventionでペリーは捕鯨船への薪水補給や通商を強要する以外、琉球占拠も画策している。つまり「武力介入=Armed intervention」は「砲艦外交=gunboat diplomacy」すなわち「侵略」と一体であった。


   『嘉永明治年間録』にはペリー艦隊水兵が横須賀市久里浜近郊で起こした暴行事件の顛末が記されている。

 「この度やって来た異国船。六月八日、本牧沖に滞船中は小舟にて諸方を遊覧し、此の時久里浜に住む百姓市之助(年齢約六十歳)と言う者がいて、娘(二十歳)が一人いた。市之助は畑に出て農作業の為家を留守にしていた。娘が水を汲みに出ていると、夷人たちが娘を見つけ、小舟にて漕ぎ寄せてきて、八人が上陸し、市之助宅に侵入し娘を強姦した。物音を聞き市之助が家に戻ると、その様子を見て、天秤棒にて夷人三人を打ち倒し、その他の夷人は船へ逃げ帰った。娘は気絶していて、市之助は娘を介抱し、何とか息が戻った。此の隙に三人の夷人たちも逃げ出した。市之助は久里浜の役所に訴え出たが、役人は穏便に済ますため堪忍してくれと諭し、三百疋を取らせて事を済ました」(原文は漢文)


 琉球で罰を逃れた水兵たちは増長、久里浜でも同じ事件を起こしている事が分かる。注目すべきは「役人は穏便に済ますため堪忍してくれと諭し」た事だ。原爆投下を非難するどころか、占領軍に先んじて原爆被害実態を報道管制・隠蔽した日本軍部を思わざるを得ない。

 ペリーは忽ちのうちに懲らしめるべき「外患」から開港の恩人と持ち上げられてしまう。悪が善に転化する、正常な精神を失っている。強姦された者が、憎むべき強姦犯を「彼は私を愛していた」と妄想するに似ている。 

 おかげで各地にぺりー提督を讃える記念碑が建てられる始末。原爆投下や東京大空襲などの司令官ルメイ(日本本土爆撃が人道に反することを知りつつも戦争における必要性を優先し、現場で効果的な戦術爆撃を考案し実行した。終戦の9月20日に彼は記者会見で「戦争はソ連の参戦が無くても、原爆が無くても2週間以内に終わっていたでしょう。原爆投下は戦争終結とは何ら関係ありません。」と答えている)に、日本政府は勲一等旭日大綬章を贈っているのだ。

 ペリー砲艦外交=gunboat diplomacy以後、日本の権力は強きには屈伏すべしとの価値観に囚われてしまう。安手の鹿鳴館で似合わぬ洋装で下手な踊りにうつつをぬかす有様を錦絵にしたり出来るのもそのためだ。その裏には強者は常に正しいとする世界観が見える。そうでなければ唯一の被爆国が、原爆投下国の核の傘の元にある事の理屈が付かない。 

 強者=正義とする世界観は、朝鮮や中国更に「大東亜共栄圏」政策に反映する。開国した日本は正義であり、鎖国を続ける朝鮮は正義の日本敬意を払って従うべきであり、列強に分割されつつある中国に正義はあり得ないとの筋書きになる。かくして帝国日本は「現人神」に守られ「大東亜共栄圏」を形成、正義を世界に示さねばならない羽目に。ここまで妄想が募ると、昨日までの先進正義・米英は一瞬にして反転「鬼畜」と化す。神国官製の妄想にイライラしていた大衆が開戦の報道に快哉を叫ぶのは妄想の再構成=反転強化に過ぎない。反転した虚像は原爆による敗戦で再び反転した。

 もし日本が自立した誇りある国家であれば、力に屈した自己を恥じ、鎖国政策を維持する李氏朝鮮にこそ敬意を払う。孫文や魯迅が期待した日本像こそ、世界史的実像であった事を知るべきだった。

 それにしても米国は「武力介入=Armed intervention」を21世紀に入っても止める気配がない。貧しい小国ベトナムに徹底的に敗北した一時期は温和しかった。「世界の警察」の妄想から覚めたかにみえた。しかし「我々はベトナムに負けたのではない。国内の反戦運動に押されたに過ぎない」と言い始める。妄想の修正し始める。

 英国から追われるようにして新天地を求めたキリスト教徒たちが、メイフラワー号でプリマスに上陸して以来、彼らは先住インディオ虐殺を神の恩寵の証とする妄想なしには、合衆国建国を正当化出来ないからだ。「神に守られた正義の全能米国」と「万世一系の神国日本は、幼児な妄想という点で共通して互いに依存している。両国とも常に絶対悪として第三項を仕立てねばならなくなる。

 日本各地に乱立するペリー提督像、ペリーを『讃える』記念碑を見る度僕は胸くそが悪くなる。   

1967年のどぶねずみ色の若者たち Ⅱ

 承前  花森安治は兵隊だった頃を思い出す。彼は1911年生まれ、徴兵で中国東北部の部隊に従軍した。


   どうにもならぬほどのどが渇いてくると奇妙に、だれの顔つきも、おなじような感じになった。 

   目が、へんに光っているくせに、それでいて、どこか遠くのほうを見ているような、早くいえば、呆けたような表情になる。

 ひとの顔が、みんなそう見えるのだから、もちろん、こちらなど、とっくにそんな顔つきになっていたのだろう。

 そして、考えていることといったら、あとどれくらい歩いたら、水のある所に行きつくだろうか、などといったことではなくて、それでも、だれか水筒に水をこっそり残していないだろうかと、前後左右の兵隊の腰のあたりで、歩くたびに揺れる水筒の音に、神経をすりへらしているのだ。

 ことわっておくが、こんなことを書くのは、このごろのご連中、みなさまおなじような顔つきをしているのは、心のなかで、よほどのどが渇いているのだろう、などと歯の浮くようなことを言うためではないのである。

 なにかといえば、欲求不満だの挫折感だの劣等意識だの体制だの反体制だのとはやしていて、それで日が暮れるような、そんな甘っちょろいものではない筈だ。

 第一、おなじバカみたいな表情にしても、汗が噴いて乾いて塩が縞のように白くこびりついた兵隊のぎりぎりのアホウ面と、ズボンのポケットに小銭をじゃらじゃら鳴らしている、男性化粧料やけしたアホウ面とが、いっしょになろうはずがなかろうじゃないか。

 そんなことではなくて、あのどうにもならないほどのどが渇いているときでもみんなが、おなじ兵隊服でなく、てんでばらばらのものを着ていたら、それでもやはり、みんなおんなじょうな顔つきになっただろうか、それをふっと考えたからである。

 というのは、そんな生命ぎりぎりのときでなくても、兵隊の顔は、どうにも見わけのつかないものなのだ。

 いつか、行進している部隊の中から、自分の中隊を探そうとして、知った顔を見つけるのに、ひどく苦労したおぼえがある。

 そういうつもりで、一度、このごろの連中の着ているものを、町角に立って、眺めてみたまえ。

 まるで、だれかに命令されたように、みんながみんな、おなじような服を着ている。それが、どぶねずみ色なのだ。

 だいたい、男の背広なんてものは、やれコンチがどうの、アシタがどうのといってみたって、たかだか、エリの巾が何ミリどうなって、胴のダーツが何ミリどうとったなんてことで、ボタンの数がふえたといっても、まさか十も二十もつくわけじゃなし、ズボンをスラックスといいかえてみても、ガニマタが、すらっとするわけでもなし、洋服屋のまわし者がさわぐほどには、大して変りはえのするものではない。女の子の流行の千変万化ぶりにくらべたら、男の背広なんて、いつだって、どこだって、だれが着たって、大して変りのないものだ。

 形がすでに大して変りはないときているところへもってきて、色まで、そろいもそろって、どぶねずみ色なのだから、なんのことはない、これは、もはや一種の兵隊服である。

 それも、兵隊服のほうは、なにも好きこのんで着た奴は一人もいない。馬鹿野郎、服に体を合せるんだ、とどなられながら、どうにかこうにか、体のほうが服に合ってきたものだ。

 もちろん、あの兵隊服には、細部にわたって、なにからなにまで、きちんと規格があって、縫製はもちろん、着方まで、うるさくきめられていた。帯革をしめたとき、ビジョウのどの線が、服のどの線にそろわねばならないか、そのとき出来たシワほ、どこへ寄せなければならないか、そんなことまできめられていた。軍人の制服だから、仕方のないことだった。

 ところがこのごろの連中のどぶねずみ色の服が、やっぱりそれなのだ。

 なにも会社や役所できめたわけでもあるまいし、タダでくれたものでもあるまいに、兵隊服みたいに、ぴったり規格に合って、着方までそろっている。

 ワイシャツは白、ネクタイと靴下は、どぶねずみ色、靴は黒、ハンカチは白ときて、そのハンカチの折り方、胸ポケットからのぞかせる寸法(ミリ単位)、ネクタイの結び方から、カフスボタンののぞかせ方(おなじくミリ単位)、上着のボタンの外し方に至るまで、これがおなじときている。

 古い言葉でいえば、さしづめ、バッカじゃなかろうか、である。

 君、なにを着たっていいんだよ。

あんまり、わかりきったことだから、つい憲法にも書き忘れたのだろうが、すべて人は、どんな家に住んでもいいし、どんなものを食べてもいいし、なにを着たっていいのだ。それが、自由なる市民というものである。

  花森安治「どぶねずみ色の若者たち」 『暮しの手帖90号』

 どうだ、不気味だろう。「 あんまり、わかりきったこと」も憲法に書かねばならぬと言いながら、その実政権党が目指しているのがどんな世界なのかが。

 花森安治は、世界を震撼させた「大学闘争」の前年にこれを書いた。と言うことはここに書かれたどぶねずみ色の若者たちは、団塊の世代のだいぶ前に生まれている。つまり戦中派ではないが戦後派でもない。この微妙な世代のおかしな風俗に、花森安治は怒りを隠さない。

 彼らが国民国民学校に入る頃、教師は敗戦で呆然。昨日まで現人神のために命を捨てろと裏声で叫んでいた男が、教科書の墨塗に励むそんな時代。

 適格審査による教職追放もあったはず。 教職追放は、GHQのCIE(民間情報教育局)が担当した。CIEは、教職追放の方が公職追放より厳しいものになるべきと考えていた。全国130万の小中学校教員、大学教授等を対象に審査し、日本の戦争を肯定する者、積極的に戦争に加担した者、戦後の自由と民主主義を受け入れない者に、除籍を求めた(適格審査の記録はほんの一部しか残っていないが、審査は実に杜撰なものであった)。1946年5月、占領下の文部省は『教職員の除去、就職禁止及び復職の件』を発令。各都道府県に教員適格委員会を設置している。

 少年たちは何を考えただろうか。

 丸山真男は駅ホームの放送「危険ですから白線の内側にお下りください」に腹を立てた。判断する主体はあなたではないということを、政府に代わって数十年間睡眠学習のように聞かせ続けているからである。

 戦前の教育は少年の生活全てから、判断するする知性を奪い尽くした。

 つい昨日まで鬼畜と罵った米兵に一言一句に至るまで唯々諾々と従う。そんな教師を見て、少年たちが再び胸に刻んだのは今までのように「考えない」こと「判断しないこと」だった。そうでなれば「どぶねずみ色の若者たち」の奇態は説明が付かないではないか。


 『暮しの手帖』の魅力は、多種多様な取材対象と執筆陣にある。ノーベル賞受賞者も日雇い労働者も人間国宝も貧乏暇なしも同列に扱われる。この無鉄砲かつ勇敢な編集姿勢は、花森自身の旧制高校時代や「帝大新聞」編集部時代に形成されている。

 だから彼は一方で「どぶねずみ色の若者たち」とは対極の輝かしい青春を経験し、他方で軍馬以下の一兵卒=究極の溝鼠として戦場を彷徨った経験をもった。正真正銘の複眼的切れ味の良さはこうして生まれている。

 

  

1967年のどぶねずみ色の若者たち Ⅰ

 花森安治は、全世界的な学生紛争の勃発する「1968」年の前年に不気味な批評を書いた。

 学校にいるときは、一向に制服を着たがらないでもって、ひとたび世の中へ出たとなると、とたんに、うれしがって、われもわれもと制服を着る、という段取りになっているようだ。

 たとえば、東京でいうなら、丸の内とか虎の門あたり、あのへんを、昼休みにぞろぞろと歩いている、若いサラリーマンたちを、ながめてみたまえ。

 ・・・

 へたな空想科学小説にでてくる、どこかの遊星の、独裁者の意のままに支配されている人民たちみたいに、みんな生気のない顔をして、べつにどこへゆくというあてもなく、みんなが歩いているから、じぶんもそっちへ歩いているといったふうに、動いているのだ。

 真昼の強烈な日光の下で、突如あたりの風景が、すうっとくらくなる、立ちぐらみというのだそうだが、いくらか、それに似ている。

 見ていて、うすら寒いのだ。

 いったい、人なに事かを憂えているときは、顔色に生気があり、日に光りがある。このどぶねずみ色群の、のろのろとした動きには、そのような、大それた気配はない 

・・・

 顔色の生気のないことをいうまえに、顔つきの、だれもかれもおなじように見えること、さながらナンキソ豆の面つきのようであること、それからいうのが、ものの順序だったかもしれぬ。

 なるほど、ひとりずつを離して、ことこまかに観察すると、おのずから多少のちが小はあって、佐藤君を三木君ととりちがえるようなことはない。

 しかし、佐藤君の顔と三木君の顔のちがいは、つまりはナンキン豆にも、皮がこびりついているのもあれは、焦げて苦いのもある、その程度のちがいで、ひっくるめてみれば、このごろの連中の顔は、まったくおなじような感じである。

 むかしは、女性の顔が、こんなふうに、どれもおなじような感じだった。

 リンカクでいうと、面長とか面丸とか色つやでいえは、じゃがいもの皮をむいたのと、むかないのとか、一方はキッネ顔、一方はタヌキ顔といったちがいはあったにせよ、ひっくるめての感じは、どれもおなじだった。二言でいうと、つまりは<良妻賢母>風とでもいうか、内心はともかく、いつも一歩か一歩半ひき下ったような、見たところ、つつましく、たよりなげな顔つきであった。

 どこで、どう回路を引きそこねたか、このごろは、男の連中が、おしなべて、おんなじような顔つきになっている。

 一くせも二くせもありげな、ギョロリとした面がまえは、先日小菅刑務所を見せてもらったが、そこでも見つからなかった。

 まして、のろのろと昼休みのビル街に動いているどぶねずみ色群のなかに、半くせも四分の一くせもありそうな面を見つけようというほうが無理なのだ。

 おしなべて、一見たよりなげで、二見良夫賢父ふうで、三見ケチでずるそうでこれでは、だれの顔を、だれの顔とすげかえてみても、べつになんの差し支えもござりませぬわいなあ、といった顔つきをしている。

 だれの顔つきもおなじだということはみんなのっぺらぼーの顔で歩いている、ということだ。

・・・

 兵隊だったころに経験したことだが、どうにもならぬほどのどが渇いてくると奇妙に、だれの顔つきも、おなじような感じになった。

 しかし、このごろ どぶねずみ色の服を着て、のろのろと、けだるそうに生きているのは、こどもでも老人でもない筈である。

 それとも、このごろの青年は、戸籍面の年令だけが青年で、中身のほうは、ひねくれたこどもか、若年寄りのどちらかなのだろうか。

・・・

 どんなわかりきったことでも、一度じぶんの手で受けとめて、じぶんなりに考えてみて、ほんとにそうなのか、じぶんでたしかめる。もし、そうでなかったらハッキリさせる、そうなるまでたたかおうとする、この抵抗の精神は、青年だけが持っていた筈である。この精神だけが世の中を、すこしでもスジの通ったものにしてゆけたのである。

 みんな、だれの命令でもないのに、どぶねずみ色の服を一生けんめいに着こんで、しかも我ひと共に怪しまない、そんな姿勢のどこに、この青年だけが持っていた<さからいの精神>がみられるというのか。

一体何時から日本はこんな馬鹿げた児戯に力を込め始めたのだ、千歳飴が相応しい


 いまは、天下泰平だという。

 ウソをつけ。世界といわず、日本といわず、いったい、どこが天下泰平なのですか。 いうならば、乱世である。

 お互い、うじゃじゃけ(傷跡などがただれた状態になる。 また、だらしない様子)のかぎりをつくした乱世ではないか。

 まいにちの新聞の見出しをならべただけでも、とても正気な人間の集っている世界とはおもえない。

 それだけに、こう連日連夜、ばかげたことに、十重二十重と取りかこまれていてはくよほど、しっかり立っているつもりでも、足をとられてしまう。まあ仕方がない、とあきらめる。しまいには、それがあたりまえのような気が、してくる。

 あげくの果てが、みんな、のっぺらば一の顔にどぶねずみ色の服だ。みんなが着ているから着ている。

・・・

 たかが、服のことぐらい、、どうだっていいじゃないか、というのか。

 その通りだ。たかが服のことだ。こちらも、それがいいたくて、さっきからうずうずしていたところだ。

 まったく、どうだっていい筈だ。いい筈なのに、どうして、みんな申し合せたみたいに、どぶねずみ色の、ものはしげな服を着ているのだ。

 紺の上衣に、うすいグレーのズボンをはいたっていい筈だ。・・・

 第一背広なんか着なくたっていい筈だ。ジャンパーだっていい筈だ。

 それを、みんながしているとおりにしていたら、まちがいがない、などと横町の年寄りみたいなことを考えて、そう考えるのが、大人の考えというものだ、とおもっているのなら、たいへんな大まちがいだ、。

 たしかに、そういう考え方は、こどもではない。しかし、決して大人の考えでもないのである。それは、ともかく生きているだけ、という老人の考え方にすぎない。

 そんな考え方では、世の中をよくしようなどと大それたことはもちろんだが、この凄じい乱世を、果して乗り切って生きてゆけるかどうか。

 のんでものんでも、のどのかわきのとまらない因果な病人みたいに、ひとのすることばかり追っかけるクセがついてしまったら、ひとが赤旗を振れといえば、うしろの方で目立ぬように赤旗をふり、ひとが鉄砲をかつげといえば、ロの中でぶつぶついいながら、鉄砲かついで船に乗せられてしまいはせぬか。

 どぶねずみ色の服を着せられている諸君よ。たかが服のことだが、このつぎ服を買うときは、ひとのことは気にしないで、じぶんの着たい服を買いたまえ。

 すると、たかがそれくらいのことをするにも、いささかの勇気がいることに気がつく筈だ。

 しかし、君よ。君がねがうところの、親子何人かが、おだやかに暮してゆけたら、というささやかなマイホーム的幸せを手に入れるためには、たぶんその何倍かの、<いささかの勇気>がなければ、だめなのだ。らくなことだけをしたい、いやなことはしたくない、といった臆病者では、到底手に入れることはできない等なのだ。       花森安治「どぶねずみ色の若者たち」 『暮しの手帖90号』     続く

 1967年この年僕は高校三年生になった。既に前年頃から制服や校則に対する火花を散らすような抵抗が、あちらこちらの高校で始まっていた。教室で、廊下で、校庭で、教師と激しい論争が繰り広げられ、大きな人だかりになった。同時にそれはベトナム反戦と密接に絡んでいた。

 花森安治はこうも言う。

 みんながスキーに行くから、おれはゆかない。みんながクルマに熱を上げているから、おれはそっぽをむく。みんなが安ウイスキーをのんで麻雀をするから、おれはのまないし、やらない。

 それがいいとか、わるいとかいうのではない。それが青年なのだ。すくなくとも、青年とこどもがちがうのは、そういうところなのだ。

 そんなことを言っては損だと知っていても、いわなければならないことは、ハッキリと大きい声でいう。そんなことをしてはまずいとわかっていても、しなければならないことは、きっぱりとやる。

 それが青年というものだ。すくなくとも、青年と老人がちがうところは、そこなのだ。

 かりに、世の中がすこしでも進歩しなければならないとしたら(こどもと老人は、そんなことを考えもしないし、信じもしない)それがやれるのは、青年しかない。   

五十三才の老女教師と娘に襲いかかる「勤務評定」

 公選制教育委員会が始まったのは戦後間もない1948年、それが慌ただしくも56年の地教行法(地方教育行政の組織及び運営に関する法律)で首長による任命制教育委員会が強制された。その任命制教育委員会は、先ず何よりも教員に「勤務評定」で襲いかかることに専念した。

 この『暮しの手帖』への投書は、「勤務評定」が教育を如何に荒廃させたかを如実に語りかけている。

  ★母の異動

 二ヶ月ぶりに母から便りがきた。五月も終り近く教員の異動期はとっくに過ぎ、気にかかりながらも、母は新学期を迎えて元気に勤めていると決めていたのだった。しかし便りによれば母は異動組だった。しかも退職勧告を受け、はねたあげくの遠かく地異動。

 片道一時間半汽車に乗り、降りて四十分歩く里程。母は五十三才である。戦争未亡人で四人の子供を成人させ、戦後の日本をカツギ星、土方でくぐり抜けてきた。昭和二十五年、助教諭になり法政大学の通信教育、単位認定講習を七年間受けた。幼い子供をかかえて日曜もなかったこの期間は、どんなに辛かったことだろう。夜中にふとめざめて、洗濯をやっていた母をよく見かけたものだった。

 それにもかかわらず母は明かるい人だ、。ジメジメするのがきらいで私たちは安心して母によりかかっていた。しかし母は誰にもよりかからなかった。頼るは自分のみだった。

 一人娘の私が遠い地へ嫁ぐことも黙って耐えていた。子供をおいて私もまた職業をもつ身であるが、それに耐えかねるとき「子供は大きくなればわかってくれるよ」と言ったが母を支えていたものはこれだったのか……と思う。便りの末尾に「とにかく人のやれないことをやれ……という訳でがんばります」とあった。

 しかし恩給は助教諭だった七年間は年数に認められず、せめて年金を…と働きつづける母に教委は何故、こんな仕打をしたのだろう。老後の補償を自分で得ようとしてこの異動を受理した母が、させた社会が私には悲しいのである。

     松下 雅子『暮しの手帖9号』(1967)


 第一次アメリカ教育使節団(1946年)は、戦前戦中の天皇制軍国主義教育が恰も国民に狭窄衣を着せたようなものであったことを指摘し、日本の教育改革は狭窄衣から教師を解放する事でなければならないと報告書を作成した。この勧告に基づいて独立行政委員会としての公選制教委が教育委員会法によって組織された。

 地方自治体の長から独立した公選制・合議制の行政委員会として公選制教育委員会は、予算・条例の原案送付権、小中学校の教職員の人事権を持った。

 しかし1951年の単独講和暴挙後、占領軍は各地に基地を置き沖縄を占領したまま撤退する。早くも1956年、公選制の廃止と任命制の導入を強制する地方教育行政法が成立している。  

 任命制教育委員会は、一貫して教育と子どもに関心を持たなかったと言って良い。彼らは教育委員会を、政治に従属させ私物利権化を図り今日に及んでいる。「勤務評定」は複雑強権化したに過ぎない。 

権力批判や公正さは何処で消えるのか。

   「ポッカレモン」社がレモン果汁が含まれているかのような宣伝をしながら、中身は100%化学合成品であることを、「暮らしの手帖」が1967年の89号でスクープ。大騒ぎとなった。

コマーシャリズムを排除
し続けた「暮らしの手帖」
  マスコミは、次から次へと他の不当表示も報道し始める。砂糖を使ったはちみつ、粉乳を還元した新鮮牛乳、マーガリンを混入したバター、醸造酢と表示した合成酢、リンゴを混ぜたいちごジャム、オリーブ油を使わないオリーブ石鹸、天然真珠という人造真珠、着色した宝石、背の伸びない伸長機など、次々に事例が報道され、不当表示問題は社会問題化した。しかし責任企業の処分は大甘だった。

 40年後の2008年12月5日、公正取引委員会が「不当景品類及び不当表示防止法」に基づく排除命令を、再びポッカ社に出さねばならなくなる。排除命令の内容は、同社が販売した「ポッカレモン100」等において表示が事実と異なり、一般の消費者に対し実際よりも著しく優良であるとの誤認を招くとするものであった。「ポッカレモン」には「新鮮なレモンのビン詰」、「飲むレモン」、「手軽に使えるレモン以上のレモン」と広告、いかにも天然レモン果汁であるかのように表示。実際にはクエン酸などを使った「レモンもどき」であった。又、同社は原料レモン生果に防カビ剤は使用していない旨の表示を行っていたが、実際には防カビ剤イマザリルが含まれていた。

 同様の不当表示をしていた有力10社にも排除命令が出た。

 ポッカ社ら有力10社は、全国紙に月2~3回全ページ広告。テレビ・雑誌等にカラー広告を活発に用いて、レモン果汁飲料を誤認させる文章や画像をばらまき続けた。

 新聞やTV報道の第一の役割は、真実の追究による権力への批判の筈。巨大企業も権力。その広告を垂れ流した責任を負わねばならない。


 「暮らしの手帖」に始まった騒動に、行政もメーカーもマスコミも何ら反省はなかったことが分かる。

 今や、私企業のTVshoping が日本の電波を占拠。ほぼ一日中国民の健康や老化不安を煽り、怪しい商品を怪しい口調でtvタレントを使って流す有様。電波も国民の共有財産ではないのか。「公」が「民営化」の名の下に私物化されている。「国立」「公立」とは、「国民共有」「自治体共有」の意の筈。それが「行政法人化」の名で、私物化されているだ。そして国家や自治体そのものまで、「パソナ」などの私企業に私物化されてしまった。 

 日の丸・君が代を巡る行政の不当介入で教師が馘首されているのに比べれば、「不当景品類及び不当表示防止法」はまことに恐るべき「ざる法」と言わざるを得ない。当該企業の営業停止・重い罰金や責任者の収監等の実効性ある対策に日本の官庁は踏み切らない。なぜならそこは、彼ら官僚の将来の天下り先だからである。 

「小さな町」の「なべて貧しい人々」の「矜持」

 

「二時間後にタンタを去るとき、私の心は快く温まっていた。タンタでの二時間は、エジプトでのもっとも充実した時間であった。

 まず、帰りの切符を買おうと、例の紙片を持って窓口を探す。外国人の訪れない駅だからローマ字表記など一切なく、すべてアラビア文字ばかりである。うろうろしていると、そのあたりにたむろしていた一人が案内してくれる。13時13分発の指定券は満席で、15時47分発のしかなかったが、無事に帰りの切符が買えたので、チップを渡そうとすると、手を振って受けとらない。

 駅前の露店をプラプラしていると、私に全然わからない言葉で話しかけ、タバコをすすめる男に出会う。自分について来いという身振りをするので、不安を覚えながら後に従うと、モスクがあって、彼は自慢げに説明する。もちろん何を言ってるのかわからないが、それでおしまいで、駅へ戻ってくる。案内料をくれといった素振りはまったくない。

 駅のホームに布を敷いて母子らしい二人がパンや菓子を売っている。一EP紙幣を出してパンを買う。・・・釣銭は硬貨や小さな皺くちゃの紙幣が一握りほどもある。数えるのも面倒なので財布に押しこみ、ベンチで固いパンをかじっていると、さっきの店の男の子が走ってきて、何やら言うと、私の掌に小さな硬貨を三つ押しっけていった。釣銭の計算をまちがえたので、追加分を届けに来たのである。」 宮脇俊三 1981年『週刊文春』


 旅行作家はエジプトの汽車に乗る企画でカイロを訪れた。

小さな町には共同体が残っている
だが、外国人向け現地旅行社の横柄且つ官僚的な対応のおかげで、アレキサンドリアに行く機会を失ってしまった。不快な気持ちで時間つぶしに歩いたのは、小さな町「タンタ」であった。古くて小さな町タンタには連帯する共同体=コミュニティが成立している。日本の自治体は無闇に合併を繰り返し巨大化して、共同体=コミュニティとしての機能は無いに等しい。

 この作家を訪れた偶然の経験は、本編の鉄道乗車記より面白い。文化人としての作家が「旅行記」を書くのに、その舞台設定を他人に任せる。現地旅行社には雑誌社を通して日本大手旅行社経由で話をしている。そこに生まれる大名旅行が面白い筈がない。ガイドと運転手付きの『旅行』に安心する悪癖は、一切他人任せの修学旅行と遠足に起源がある。自分で決断しない・させない行動は、個人の倫理感を惹起させない。「旅の恥は掻き捨て」意識はそこから生まれる。

 小さな町の物売りや少年たちのさり気ない行為が、自立した個人に見えて頼もしい。

 しかし我々の日本の自治体は、決断と連帯を産まない構造になっているからだ。身分や上下関係で動く社会に横に拡がる連帯は生じない。命令と忖度と賄賂が幅を効かせる。面白い訳がない。教師と親に依存した「部活と生指と偏差値」の少年時代を過ごす人間に、他者に共感し連帯する世界観は生まれる筈がない。格差が一切を破壊する。  

 小さな自治体には共同体=コミュニティが成立しやすい。貧しい人々に判断する市民としての矜持が満ちているのなら、「豊か」になるのも大きくなって競争に勝ち抜くのも考え物だ。

「共和制は、憲法改正の対象となりえない。」イタリア憲法第 139 条

 イタリアでは憲法が、大戦後20回にわたって改正されている。これを根拠に、我が国でも改憲が必要との論調が勢いをつけている。イタリアの場合の主なものをあげる。

63年2月(上下院議員定数院、上院の任期)

89年1月(大臣弾劾裁判制度を国会から通常裁判所へ移行)

93年10月(議員の不起訴特権の一部廃止)

99年11月(刑事被告人の権利保障)

2000年1月(在外投票権の保障)

01年10月(中央と地方との関係の抜本的改正)

03年5月(男女平等の促進)

22年2月(生態系と生物多様性保護)

 

 イタリアの憲法改正は、各議院で3か月以上の期間をおいて引き続く2回の会期により議決される。第2回目の議決にあっては、各議院で総議員の絶対多数により承認されなければならない。

 憲法改正案は、公布後3か月以内に一議院の5分の1、50万人の有権者または5つの州議会の要求があるときには、国民投票に付される。ただし、前記憲法改正案が第2回目の議決で総議員の3分の2以上の多数により承認されたときは、国民投票に付されない。 

 憲法改正が、かなり頻繁・多項目に及んでいることが分かる。

 しかしイタリア憲法は最終条項の第 139 条で 

共和制は、憲法改正の対象となりえない。 

と釘を刺していることを忘れはならない。

Bella ciaoは1943年から1945年まで続いた
反ファショレジスタンスで唄われた

 1943年7月24日ムッソリーニ政権は崩壊したが、ファシストに協力し伊国王エマヌエー
レⅢ世は戦争継続に固執。抗してムッソリーニ体制を倒したレジスタンス勢力=臨時政府・国民解放委員会は王制の是非を問う国民投票を実施。伊王制は崩壊し、民主共和制国家のイタリア共和国が成立した。民主共和制は、革命の成果であったことを最終条項第 139 条が宣言しているのである。

 24回の憲法改正を経ているフランスも、共和制を憲法改正の対象から外している。

  イタリアやフランスの民主共和制革命にあたるのは、日本で言えば憲法三原則、分けても9条である。

 まともな国家の憲法は、その中心理念を変更しない条項を持つ。

 日本国憲法も、前文で

 そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

と明確に宣言している。

 何度も繰り返す必要がある。 

われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

 



自分自身を「不快」と思うことなしに、自分自身にはなれない

  常識ある者の世界では、身体的・精神的苦痛で意思を変えさせることを「拷問」と呼ぶ。入管では意思を変えさせる過程でこの15年間で17人が死亡。

 何故日本政府は「難民」認定を極度に渋り、拷問虐待を続けてきたのか。一転してウクライナ避難民への大歓迎ぶりはどういうことか。入管の源流は戦前の特高警察の外事係である。特高は日本の「国体」を手掛かりに様々な事件をでっち上げた。でっちあげた嘘を守るために嘘は膨れ上がり、どんなに物が無くとも日本は「現人神」の君臨するから・・・と遂に原爆二発を喰らった。喰らったうえに自ら属国になり喜んでいる。確かに「世界に類の無い」愚かな国だ。 

我々は自分自身を「不快」と思うことなしに、自分自身にはなれない


 転勤新任教師として壇上で紹介されるとき、僕は埴谷雄高の言う「自同律の不快」にみまわれていた。

 前任校で、僕は職場の教研委員を4年続ける機会に恵まれた。おかげで新任早々、職場を外側から見る事が出来た。各職場の僅かな違いが、高校教育と教育界の全体構造を見せてくれた。それは、付き合いや交流の範囲の拡大と共に明瞭になった。嫌なものも、目についてくる。

 嫌悪したのは「生活指導」にのめり込む一群の教師たちの

特高課の部屋は職員室に似ている
「使命感」。当時生活指導運動活動家は、実存主義にかぶれてサークルをつくり傲慢だった。

 僕には「指導」という言葉が、軽薄な教師による「少年の領分」への介入に過ぎないと思った。個人の表現や態度、に介入できると思い込んでいる姿は、まさに「特高」。いたずらに生徒と教員の間に壁を作る浅知恵なのだ。

 埴谷雄高の言う「体系のなかに入ってしまうと、自分のしていることの非道さ」も無意味さも、分からなくなる。僕自身もそのなかの一人であるのが嫌だった。

  転勤が決まり、転勤先に打ち合わせに行った時のこと。僕は渡り廊下で、三年生らしい二人組と対峙した。二人はニャッと顔を見合わせ、ジーパンから煙草を取り出しふかし始めた。春休みだから人気はない。この頃ぼくはヒョロヒョロに痩せていた。逃げるわけには行かない。君ならどうする?・・・

 すれ違いざま、彼らは「勝った」と思ったに違いない。僕は前を向いたまま「うまいか」と声をかけた。

 「アッ・すいません。・・・アッ・イヤ吸いました」とあっけなく降参した。

 「君たちが睨んだ通り、明日から僕はここで教える。だから今日は忙しい。いちいち君たちの担任に言いつける暇は無い。自分の判断で担任に報告しろ」

「ハイッ!  ハイ!」

 たちまち噂が飛んだ。「あいつは空手の有段者だ・・・」誤解もいいところだ。 確かに僕は、学園紛争で火焔瓶や機動隊の放水が飛び交い、セクトによる殺人さえ起きる生活を四年も続けていたから、怖さに鈍感になっていた。

 翌日の着任式で昨日の三年生を見つけながら、こう言った。

 「君たちは、この若造は何なんだ、どういう奴なんだと考えているだろう。・・・嘗めちゃいけないよ・・・、とは言わない。なめてもいいよ。そうしなければ味はわからない」。

 生徒達はざわめき始めた。教室に戻っても「あいつは何を言いたいんだ、何者なんだ」と静まらなかったらしい。


 学校は「自分のしていることの非道さがわからない」の連続である。「なめるんじゃない」はそうした中で「指導」の言葉として多用されてきた。僕は、生徒たちにはなめる権利があると思う。

 この話をK高校のTさんが、受け持ちの生徒たちにした。休み時間に小便をしていたら、後ろでしゃがんで眺める生徒がいて「先生ながいね」と笑っていたという。教室で片手を前列の生徒の机について話を始めたら、手の甲に妙なものが当たって振り向くと、そこの生徒が「先生、しょっぱいね」と言ったと聞いた。

 はじめ僕は「不快」を、教師と生徒の問題だと考えていた。そうではない、学校を越えた支配=被支配の問題であったのだ。だとしたら我々は自分自身を「不快」と思うことなしに、自分自身にはなれない。時には自分と、自分を取り巻く歴史も含めて、憎まねばならぬ。


授業あっての分掌。日々の授業あってこその行事。

  授業のために分掌はある。行事も日々の授業の為にある。その逆、授業が分掌の犠牲になってはならない。行事優先で授業が軽んじられてはならない。

 本来校務は、管理職の任務。校長は教員が授業に専念出来るよう身を粉にして走り回らねばならない、校長室でふんぞり返るだけが能では無い。

 教委や文科省との喧嘩も覚悟の上で、教員の待遇、労働時間、休息・休暇、研究の自由、福利厚生、その他諸々の保障に関する雑務こそが校長の仕事である。

 だから例えば帝大の農学者古在由直は学長や総長就任を断り続けた。雑務が多く研究に専念出来ないからだ。また正木ひろしをして「狩野先生こそ本当の国宝的人物だ」と言わしめた狩野亨吉が帝大総長を固辞したのも、研究に専念したいが為であった。

 近頃の校長や学長は、何が生き甲斐なのか。校長室の書棚を見れば一目瞭然。専門分野の本は無い。教師の従順さに乗じて、自らの任務は教師に分担させ、その励み具合を評定するから救いは無い。人は研究や授業より地位に惹かれるのか。


 始めは教師も授業に差し支え無い範囲でイヤイヤ分掌を引き受ける、だがやがて分掌に励むために授業は軽んじられ忘れてしまう。特定の分掌や部活の「専門家」になってしまえば、教委の歓心は得るだろうが、机上から教科関係の専門書は消えている。


 学問や行政から責任感が見事に消失した時期がある。ヨーロッパで言えば魔女狩りの約二世紀間。日本では犬将軍の時代。この時代、学者や官僚はいなかったのか。いた、とびきり優秀で目立ちたがりが。彼らは無知蒙昧な民衆を啓蒙し暴走する火炙りを鎮めるどころか、反対に暴走に「科学」や「法令」に基づく根拠を与えた。

 今、学問や行政の世界から責任感が消え失せている。首相にして責任という言葉を知らないかのように振る舞う始末。行政法人に成り果てた大学や病院にもはや倫理感の欠片も無い。

 ということは、今世は「魔女狩り」の時期にあると見た方が良い。 社会全体が思考停止して、考えること自体が恐ろしいから、新聞や放送までが短く大きく乱暴な声にしか反応しない。


 思考停止状態のまま社会のハンドルを握られてはかなわない。機構や政府のハンドルを握り続ける思考停止した人間の手を止めのは誰か。誰もが忠実な「専門家」 として秩序維持に勤めるのだろうか。

ある年のある日 \\ 美しく力強い言葉

 

   Hate breeds hate, and love breeds love. Love means approving of children and that is essential in any school. You can't be on the side of children if you punish them and storm at them. Summerhill is a school in which the child knows that he is approved of.      Neill

 The function of the child is to live his own life - not the life that his anxious parents think he should live, nor a life according to the purpose of the educator who thinks he knows what is best. All this interference and guidance on the part of adults only produces a generation of robots.    Neill

 

 6月26日

 9.11事件被害者への「賠償金」が平均5000万円、アメリカ軍の「誤爆」によって殺されたアフガン人へは僅か5000円。という世界の非対称性。(住所のない日本人ホームレスに決して生活保護は届かないが、パスポートの無いウクライナ避難民は丁重に受け入れるという非対称性。非対称性は限度無くひろかる) と言論報道の自由の構造性について語った。

 「アメリカって自己中ね」と生徒の声が飛ぶ。覇権主義という言葉を持ち出そうとして思いとどまる。彼女たちの言葉を専門家やメディアが使うべきなのだ、そうすることによって、「学」を身近なものにする努力。

 6月28日

 「戦争には経済的背景がある。それで潤うものが必ず存在し、彼らの願望として戦争は実現する」

 「何故アメリカ軍は、アウシェビッツを爆撃しなかったのか」

  教室の後ろに向かって歩きながら話を進め発問する時、生徒達が体を回しながら目で追う。教育実習での経験を思い起こす。

  「戦争によって世界がどんどん何処も同じ世界になって行くような気がしてイヤ」と授業後話しに来る。うまく戦争の過程を捉えている。グローバル化・オルタナチィブ・エスニック・民族主義という単語をだしてみる。

 「先生それ百科事典で調べられる?」と言う。「教えて」ではない。自分で調べたいという強い欲求。


7月1日 

   疲れ切って机に突っ伏している生徒に「寝てていいよ」と言うと、 

 「起きます、大丈夫です」と重たそうに顔を上げてペンを握る。授業が終る頃にはすっかり元気になって、話を聞きに寄って来る。  

  昼休みの廊下での質問。

 「パレスチナ問題におけるイギリスの役割」と複雑な問題だった。答えていると、一人、三人と寄って来てずーっと聞いている。・・・

  反対に僕も聞く。

 「授業が始まる前に、茶髪やピアスを注意されたら、授業は半分ぐらいしか入っていかないかい」

  「うぅん、全然、聞かないで寝ちゃう」   

  「・・・化粧がどぎつくなる時の君は、必死で自分の存在を守ろうとしているのかい」と聞くと、長く考えて少し微笑む。友達も聞いている。

 「自分の立っている場所がどんどん無くなって行く、狭くなって行く不安をどうにも出来ないように感じる・・・そう言うことかい」と言ってみた。すると隣の生徒が、

 「そういうことだよ」と呟く。 本人はじーっと考えていた。


  言葉を探り当てようと藻掻く、言葉さえ見つければ・・・と。教室はこれに応える構造を持つ必要がある。どの学校にも、あらゆる階層の多様な若者が集い、自由に社会とつなかる。そんな環境が。生徒たちは世界を見いだし社会を造る主体、与える解釈を受け入れるだけの客体では無い。  

 表現に向かえない不安・不満は、いつか様々な暴力として現れる。必ず。先ず外へ向けて、そして最後は自分自身に向かって。

  諦める選択肢は彼らにない。成長期の肉体は不安定だが、精神は猛烈な勢いで藻掻き回転している。そんな時期に既存の「成果」に依存するのは馬鹿げている。

 少年は困難さがあれば、それに立ち向かう。だが教師は困難からは逃げる。どうせわからないと逃げる。逃げているのは昔少年であった筈の教師、逃げているうちに考えることを忘れてしまう教師。

 少年にとって重要なのは、考える価値があるという事実。それを示す役割が教師にはある。難しく複雑なことを、誰にも分かるように構成し直す。それを繰り返すうちに、少年は難しさ困難さをそのまま引き受ける。それまで僕らは待ち続けねばならない。 

 分かり易く説明する困難を引き受けるうちに、教師も美しく力強い言葉を獲得出来る。体罰や部活の世界の、芸能人溢れるメディアの世界の、言葉が貧弱で攻撃的なのは。美しく力強い自前の言葉を獲得出来ないからだ。 

「逆らいたくなるの、だって筋が通っているんだもん」 ある生徒が、ニャッとしながらそう言う。

 入試とは人類にとって何か。ますます判らない。教師から研究と授業を遠ざけ、少年たちを平等と公正が生む連帯と行動から隔離するだけだ。

   徒歩で小金井公園の桜を見る。疲れた、途中に幾つも学校を見て不機嫌になる。無機質な校舎の佇まいが、瀕死状態の教育を圧縮しているようで息苦しくなる。こんな組織の為に何か役に立ちたいという気持ちを、僕は何故持てたのか。この組織の一隅に有ったことが悔やまれる。授業以外の記憶が曖昧になってゆく。

 桜を見上げなければ、足下に青が鮮やかなオオイヌノフグリ。人は桜や菊に点数や価値を付けたがる、見上げるとはそういうことだ。誰の評価対象でもない=評価からの独立でしか、自律も自立も自由もないのかも知れない。


 都教委が「君が代」を通達、sshや進学指導重点校を導入した頃、21世紀になった。

 廊下で 「先生の授業逆らいたくなるの、だって筋が通っているんだもん」 ある生徒が、ニャッとしながらそう言う。彼女にとって、授業は与えられたことを暗記したり、素直に受け入れたりするものでは無い。先ず、彼女の思考の関門を通過しなければならない。その後に彼女自身の審査を受けねばならない。判るとはそういうこと。教師が試されている。筋が通っていなければ、彼女の関門をくぐる資格は無い。

 その判り方に、驚いた。現象からいきなり本質に跳躍しようとする、賢く鋭いい目つき。ラジカルと言う言葉が相応しい。

 〃いい先生〃に引きずられての〃いい授業〃では、授業は成立していない事を、この生徒の哲学的言葉は言い当てている。

 〃逆らいたくなる〃グッと睨んだ眼差しの奥で、彼女自身の思考と授業の論理は対比検討される。点数や成績とは無縁のこうした思考の延長線上に思想はある。

 一年生の授業は、絶望的に騒がしかった。みんなてんでバラバラの方向を見ていて、何処が教室の正面か分からない。しかし、「起立-礼に始まる正しい姿勢」が、授業を聞く態度をつくるのではない。授業がそれに相応しい姿勢をつくる。むろん寝そべった良い姿勢だってある。考えるのに都合のいい姿勢がいい姿勢。机に脚を乗せたいい姿勢のまま、質問や同意の仕草と声が飛び交う。教室の空気が緊張して50分が瞬く間に過ぎる。休み時間になったのに生徒たちは、「続き」を聞くために教卓の前に群がる。お茶も飲めない。ここ最底辺でこそ100分授業が必要だとつくづく思う。

 「起立-礼」に始まるお仕着せの50分は少年の知的成長を妨げ、〃いい先生〃に引きずられての〃いい授業〃は、迎合を誘発する。

 〃逆らいたくなる〃ほど自我を立ち上げ、自身の思考と授業の論理を対比検討する。〃逆らいたくなる〃とは彼らの日常的なレベルに於て思考が行われていることを示している。それが〃いい先生〃には「荒れ」に見える。

 「やっぱりここの生徒は顔つきが違う」と教師は言う。「偏差値の低さ」に見合って、〃やっぱり〃というわけだ。

 だが思考の過程は表情として即座に表れてくる。自由に思考している時の顔付きは、どんな学校でも同じであると僕は知った。

 習慣化した表情は、顔の構造として定着するだろう。

  〃逆らいたくなる〃と言った生徒は、始めのうち机の上に化粧道具が並び素顔が見えなかった。次第に座る位置が教室の前に移り、授業中に発問し始め、いつの間にか化粧は消えた。      


 「やっぱりここの教員は顔つきが違う」と言おう。上から目線の教化意識も偏差値も教師の思考を停止させる。

   生徒達は自分自身を世界・社会に向かって解放しようとしている。それを思考停止した教委や管理と偏差値に縋り付く教師たちは「荒れ」と見做し続ける。高校生から見れば、世界は硬く凍結している。 

 問題は、何故・誰が少年たちの意識を「凍結させたのか」にある。   

ある年の 6月10日 // Freedom could cure a problem child.

 選択政経の生徒のうち二人はガングロ。化粧は濃いがリボンもチョッキもシャツも汚れきっている。表現の欠落を厚化粧で糊塗して、表現すべき自己そのものを行方不明にする。これは生活指導の必要性を現しているのか、それとも生活指導の結果だろうか。

 外見に対する「指導」は、貧困の中で必ずこうした経過をたどると思う。なぜなら、彼ら自身が表現すべき自己を発見すれば済むのだから。それを可能にするのは自身による「気づき」であって、教師による「指導」や強制では無い。自身による「気づき」は、精神の自由が不可欠なのだ。貧困とは日々の生活のそれであり、同時に指導の哲学の貧困。

  I thought I was curing them by analysis but those who refused to come for analysis were also cured, so I concluded that lt was not psychology that cured them,

 It was freedom to be themselves. If humans were born with an instinct for criminality, there would be as many crminals from fine mlddle-class homes as from slum homes. But well-to-do people have more opportunities for expression of the ego. The pleasures money buys, the refined surroundings, culture, and pride of birth all minister to the ego .Among the poor, the ego is starved. A boy is born in a mean street .His home has no culture, no books, no serious conversation. His parents are ignorant and slap him and yell at him, he attends a school where strict discipline and dull subjects cramp his style. His playground is the street corner. His ideas about sex are pornographic and dirty. On television he sees people with money and cars and all sorts of luxuries .At adolescence he gets into a gang whose aim is to get rich quick at all costs. How can we cure a boy with that background?

 Homer Lane showed for all time that freedom could cure a problem child, but there are few Homer Lanes around .Lane died over forty years ago yet I know of no officlal body dealing with delinquents which has benefited from his experience. The demand is still curing by authorlty and too often fear. One terrible result is that Juvenile crime increases every year.                  A.S.Neill

 プロ野球球団の優勝セールやワールドカップ開催による経済効果について説明するオタク経済学者に対して、大竹まことが「要するに無駄遣いしろと言うことだろう」「それを無駄遣いというの」と反論する。ワールドカップグッズが値下がりした瞬間に大量に買い入れて値上がりを待とうというオタク的経済学者に対して「持っているだけで値段が50倍にもなることにあなたは疑問を持たないのか」と。大竹まことが正しい。ここで「だよね、だよね」と言ったのは、税制改革の議論で小泉首相の「努力したものが報われる・・・・」の発言を聞いた途端、「年収1800万円の人は既に報われているのではないか」と批評した生徒。

  「どうやれば貧しい者から更に税金を取れるのか」と叫ぶ者あり。

 WTOやGATSの果たす役割についてもふれる。

 「何故今、非核三原則見直しを言うのか」の質問も飛び出す。面白くなってきた、ブッシュの対テロ先制攻撃と彼のアフガンに於ける利権、国防長官の軍需産業との関係にも触れる。

  この光景がいわゆる、「最底辺校」の日常だと気付くだろうか。(底辺校の対極にある学校には、sshとか指導指導重点校だのいろいろな名前で美化される。しかし底辺校は魅力的な呼び名はあり得ない、すべての特権の廃止・完全な平等以外に「最底辺校」解消の手立てはあり得ない)教委や文科省はこうした現場を見て回る職務がありはしないか。そして自ら教壇に立て。少なくとも教科書の無意味と指導要領の犯罪性に顔を赤らめる。そんな筈は無いか。

 経済効果という怪しげな専門用語は、対象に対する分析を省略し思考停止にはしる。教員社会も仲間内用語によって、思考過程をとばして集団的思考停止に陥る。経済効果は所詮金のある者が「お守り」として使う言葉。金が無ければ思考停止しない。

  ホーマー・レイン(1875年 – 1925年) は、英国の教育者。非行少年たち自身が生活をコントロールする術を身につけることで、その人間性を改善することができると寄宿舎教育を実践した。彼の一貫した信念は  Freedom could cure a problem child.

 

「象牙の船に 銀の櫂 月夜の海に 浮べれば」・・・


 詩人西條八十は、詩に専念したいと願いながら 生活苦のために株取引に明け暮れていた。
 貧乏は人をその人の望む仕事から遠ざける。芸能人は演劇などの芸に専念出来ないため、生活のためCMで笑顔を振りまかざるを得ない。まるで商品の奴隷だ。

 日本の医師は、病院経営と外来患者数の多さに追われて医療に専念出来ない(人口1,000人あたりの医師数:日本2.0、独仏3.4、米2.3 //・医師一人当たりの外来患者数:日本8421、米2222、OECD平均2400)
  日本の教師は労働時間は世界的に見てダントツに長いが、授業に専念する時間は短い。雑務や部活に追われるからだ。
 日本の親は仕事と通勤に時間をとられ、子どもの世話や社会活動と睡眠時間を削り誇りを持てない。
 
 みんな「唄」を、誇りを忘れている。忘れさせられている。睡眠時間を削られた者は、考えられなくなる。だから短く他人を他人を揶揄するメッセージが飛び交う。
 
唄を忘れた 金糸雀(かなりや)は/ 後の山に 棄てましょか / いえ いえ それはなりませぬ

唄を忘れた 金糸雀は / 背戸の小薮に 埋けましょか / いえ いえ それはなりませぬ

唄を忘れた 金糸雀は / 柳の鞭で ぶちましょか / いえ いえ それはかわいそう

唄を忘れた 金糸雀は / 象牙の船に 銀の櫂 / 月夜の海に 浮べれば / 忘れた唄を おもいだす

 『かなりあ』は1918年(大正7年)の『赤い鳥』に掲載された。

唄を忘れた 金糸雀は
象牙の船に 銀の櫂
月夜の海に 浮べれば
忘れた唄を おもいだす

 唄を忘れた者のために必要なことが、金糸雀に託して描かれている。誰もが好きで得意なことに専念出来れば、子どもも少年も、忘れた唄=学びを思い出す。医師が治療に、教師が授業に、働く親が子育てに専念する制度を作るのが行政である。国公立大学・研究機関や病院の「法人化」はこれに逆行している。行政の役割まで営利企業に丸投げする有様だ。

 高校生の「荒れ」を「異議申し立て」として受け入れるとは、「象牙の船に 銀の櫂 月夜の海に 浮べれば」とは最高の教育を最善の環境で保証することだ。

 遅刻三回で自主退学させ(後の山に棄て)たり、茶髪の生徒を追い返し(小薮に埋け)たり、些細なことで体罰を受け(鞭でぶっ)たりを、人間の学校は何十年やり続けてきたのか、いつまで続けるのだろうか。少年法体系は厳罰化が止まらないし、投資教育で資本の餌食にされるのを自己責任や契約と呼ぶ始末だ。諦めを弱者の新しい道徳と言うつもりか。強い者への規制は取り払われる。

 泥の船に 氷の櫂 吹雪の闇夜に 働く者を流しているのが日本。象牙の船に 銀の櫂で 月夜の海に宴をはるのは
嘘で政権を握るものたちだ。
  最高の教育を最善の環境で、唄を忘れた子どもに保証するにとは、すべての特権を公教育から排除しなければならない。これが民主主義の前提の筈。


   1918年(大正7年)は祖父母たちが、父や母を産み育てた頃だ。母や叔母の小学校時代の写真は「赤い鳥」の表紙そっくり。色褪せた児童雑誌「赤い鳥」もSP判レコード「かなりや」が戦後も残っていた。
  学校が少年たちに、現人神のため命を捨てることを「名誉」と考えさせるようになるのに僅か20年。
 今日本は原爆を落とした国の言わば「奴隷」、自立した国家としての誇りを捨てている。

怒りを忘れた日本の青少年は正体不明の恐怖に立ち竦んでいる。

  気になる。21世紀になったばかりの頃の日記に授業の記録。

 誰もが、ハンバーガーやフリースは幾らでも安いほうが良いと言う。だが幾ら金が要っても、娘やお爺さんを捨てようとはしない、何故か。(先生、姥捨て山はと声が飛ぶ、いいね、ヤジが飛ぶ)

 お金は使うのに料理が不味いお母さんを捨てたりクビにしたりはしない。安いのが良ければ捨てた方が良い筈なのに。ああ母さん疲れているなと思いやる。何故僕たちはそう考えるのか。

 現代を『「もの」と「人間」の関係が切断された』状態と捉えることが出来る。僕たちは買い物をする時、それをどんな人が作り彼がどんな生活をしているか知らない。ものとそれを作った人の関係が見えない。経済圏が村の中に殆ど限定できた時代は、誰が何をどんな状態で作ったかみんなが知っていた。(共同体と板書)

 もっと具体的に『「もの」と「人間」の関係が切断される』状態を考えてみよう。「もの」がお母さんのまずいご飯、「人間」がお母さんだとしょう。この場合君たちには、「もの」と「人間」の関係が細かい事情や心まで見える。

 まずいご飯だけど、君達のためなら命を捨てかねないお母さんが作ったという関係が見えるから、君達はそれを受け入れる。しかし 「もの」がマクドのハンバーガーで、「人間」がそれを作っている労働者だとしょう。 

 先ず君達は誰がそれを作ったか知らない。 『「もの」と「人間」の関係が切断され』ている。安いハンバーガーのために時給を下げられた店員が、娘を退学させる羽目になっても、君達はそれを知る事はない。遠い世界の事だからだ。

 だからもっと安くなれなどと平気で言える。ユニクロのおかげで首を吊った繊維工場の経営者を知らないから、どんなに安くなっても平気。

 だがここで 「もの」に労働者の労働力、「人間」に経営者を入れてみよう。君が経営者で労働者が幼馴染みや兄弟だとしたら、儲けのためにクビに出来るだろうか。会社が潰れるまで一緒にやるだろう。

 日産のゴーンはそうした柵がないから平気でクビを切れる。

 今度は労働者に君達を入れてみよう。中国人やインド人の方が学歴も実力もはるかに高いのに給料はやたらに安い。経営者は君達を交換可能なただの労働者としか考えないから、どんどん安く働く彼らに置き換える。だんだん仕事がきつくなって給料も減らされそうな時、「もっと安くして」という客に、「俺の生活も判ってくれ」と言いたくなる。

 君達がユニクロで自殺した人を知ろうとしなかったように、誰も君の苦しさに関心を持たない。

 もし安いから当たり前じゃんと言うのなら、君達は君達をクビにして安く働く人を雇う経営者を非難できない。論理的一貫性とはそういうことだ。

 この会社のものを買う人も ユニクロや マクドのハンバーガーを買う時の君達と同じように、安けりゃ・・・で思考を止めている。人と人の関係が切断されているからだ。これを「疎外」という。(疎外と板書する)

  でも給料が安くて生活が苦しいから、どうしても安いものしか買えない。給料の文句を言えばクビになるかも知れない。ではどうすればいいんだ。


 日本だけが、未だにこの問いから抜け出せないでいる。「クールジャパン」騒ぎも止まない。アジア近隣諸国を蔑視する言説に引き寄せられる。どうして日本の青少年は事態を正視して怒らないのだ。

 怒れないのか、考えることすら怖いのか。正体不明の恐怖に立ち竦んでいる。怒る方法、「異議申し立て」の思想から教室が隔離されたままだ。

「異議申し立て」の方法や思想を新たに

  アガサ・クリスティの作品や「シャーロック・ホームズ」を読めば、作品中に貧しい労働者が主人公として描かれることはない。貴族や名士と植民地での怪しげな略奪で財をなした者たちの相続を巡る殺人事件が描かれる。

 物語の遺産の殆どすべては、帝国植民地からの暴力的略奪による。貴族や名士たちの身分は、その略奪の巧みさによっている。「略奪」された植民地側の抗議=異議申し立てには、ポアロの灰色の脳細胞やワトソンのpenも弱々しくほぼ無関心。


    事件解明の主題は「植民地での帝国の怪しげで暴力的略奪」ではない。略奪され側の怒りや涙も描かれない、英国市民の誰がもっともらしい相続人なのかだけが問われる。豪華な列車や客船もホテルも登場人物の華麗な生活を飾る舞台装置でしかない。それらの費用の源泉や労働の担い手が考察されはしない。古代遺跡発掘を巡る利権争い殺人でも、埋蔵文化財の所有権関心が向くことはない。正当な所有権を持つ植民地政府は宗主国家の傀儡でしかなく、所有者たる民衆は怪しい言葉の発掘労働者や偽物を略奪国家英国人に売りつける無頼な輩としてしか設定されない。

 アガサ・クリスティの作品や「シャーロック・ホームズ」が絶大な人気を保ち続けるのは、大英帝国への「異議申し立て」そのものが存在しないかのような世界観で成り立っているからだ。

 我々が日本や米英のマスコミ報道を手放しで肯定するのは、我々の世界観が歪んでいるからでは無いか。異議申し立て不要の同調圧力に屈しているからではないか。人も組織も己のやましさを隠そうと正義面して、殊更他者の悪をあげつらう傾向がある。


 第三世界の地下資源は誰のものか、水は誰のものか、森林は誰のもの現地現地国民共有であり不可侵ではないのか。ところが国有化を宣言した国は悉く米や英や仏に国家転覆の攻撃をかけられている。キューバ・ベネズエラ・チリ・シリア・イラン・パナマ・ベトナム・・・枚挙に暇がない。対してこれらを専有する「法人」の所有権は、その株主の特権とともに幾重にも守られているのだ。


 ウクライナ攻撃のロシアに対する経済制裁を正式に「拒否」した国は・インド ・中国 ・メキシコ ・サウジアラビア・アラブ首長国連邦 ・ベネズエラ ・トルコ・エジプト・イラン・ドイツ・ハンガリー・セルビア・アルゼンチン・ボリビア・エルサルバドル・ウルグアイ・・・

 ウォールストリート・ジャーナルによれば、サウジアラビアは、「アメリカ大統領からの電話を受けるのさえ拒否した」と伝えている。

 アラビア半島の国々は、パレスチナに限らず英国の「三枚舌外交」で煮え湯を飲まされている。対ロシア経済制裁を懇願する米大統領の電話さえ断った気持ちはよくわかる。

 対して対ロシア制裁に加わっている国は・アメリカ・欧州連合・スイス・イギリス・カナダ・チェコ共和国・オーストラリア・ニュージーランド・日本・韓国・台湾

  米英仏+NATOとウクライナが孤立しているのだ。

 ベトナムが北爆と枯れ葉剤で攻撃されているとき、チリのアジェンデ政権がciaとピノチェト将軍の大量虐殺と専制支配に泣いている時、パナマ運河の国有化を阻止するために米軍がこの小さな国を爆撃した時、辺野古の埋め立て地に新たな基地建設が詐欺的手法でされている強行されている今、一体どの国のTVや新聞が連日数時間おきに報道したか、しているか。

 かつて米国支配下の米州機構で、キューバは徹底的に孤立していた。しかし今、米州機構内では米国が完全に孤立している。


   ロシアに対する「異議申し立て」には、莫大な資金と国家・国際機関が動員される。ベトナムやチリなどが米国の攻撃を受けているとき、国際機関は機能しなかった。抗議は弾圧下の絶望的環境の中で行わざるを得なかった。我々が知るべきは、報道から隠された部分である。よってたかって繰り返しTVに登場する事柄こそ疑わねばならぬ。

  「異議申し立て」を禁じられた部分の再現こそ、世界の総体的理解に欠かせない。

 イラク・マアルーマ通信は「アサイブ・アフロルハック(正義の連合)」の政治局員Saad Al-Saadi氏が、演説の中でウクライナ戦争をめぐる国際社会、中でも国連や安保理の態度について言及し、「ウクライナに対する国際社会の態度は、イラクが米国により占領されてインフラや安全保障システム、あらゆる経済活動を崩壊させられた時にとられた態度とは、完全に異なっている」・・・「この態度の違いは、国連や安保理が国際社会の一員たる諸国に対し、同一の基準で対応していないことを証明するものである」・・・「安保理は、イラクの旧バアス党政権が1991年にクウェートに侵攻した後、イラクに対して、520億ドル以上の賠償金を国民の糧食となるべき国の資産から支払うことを強いた。国際社会はこのことから、イラクのインフラを荒廃・崩壊させた理由で米国に制裁を課し、全ての者に同一の基準で対応を取るべきである」と述べたと伝えている。

  イラクにはいかなる大量破壊兵器もなかった。従って米英のイラク侵攻は恐る大量大量殺人・国土破壊・文明破壊であり、殺人罪と賠償と経済制裁の対象である。彼らは自らの犯罪を、まず総括しなければならない。そんな国に他国を非難し、異議申し立てする資格は無い。


  さてここからが本題。少し前僕は荒れる高校生を擁護して、「荒れ」は授業を忘れた学校管理体制への「異議申し立て」であると書いた。誇り高い高校生たちは、ガミガミ叱られるだけの些末な取り締まりに反発する。負けたくないからツッパル。高校生が突っぱれば突っほど、教師の取り締まりはエスカレートして、授業は忘れられた。

 今ツッパル高校生は殆ど姿を消した。しかし学校は授業に回帰しない。新たな取り締まりを頭髪や下着の色に見いだしたからだ。それも無くなれば授業に専心するだろうか。ことをことを許すような管理体制では無い。学校の偏差値を上げる企てを管理職や教委に上申するのに鎬を削らされる。部活と受験対策と行事に忙殺されて過労死に向かっている、相も変わらず学校は授業に回帰しない。「異議申し立て」はかくも無力なのか。秩序への従順さを受け入れさせる管理技術だけが高度化し続ける。

  「異議申し立て」の方法や思想を新たにしなければならない。いつまでも学校は授業に回帰しない。教師は忙殺され続けるのだ。

 教師自身が、授業を求めて「異議申し立て」に向けて自己組織しなければ教育が死ぬ。学校は既に死んでいる。

若者を貧困と無知から解放すべし

    「病気の原因は社会の貧困と無知からくる。」「だがこれまで政治が貧困と無知に対してなにかしたことがあるか。人間を貧困と無知のままにしては置いてはならないという法令が出たことがあるか」   黒澤明は『赤ひげ』で新出去定に怒りを込めてこう言わせている。             ...