不定期、日程時程なし、総括なし / 予定表からの解放 / 同人誌『山脈』の世界

集会は会議室でなくてもやれる、いつでもどこでも
   日本各地に散らばる教師が、不定期刊行に徹した同人誌『山脈』に集ったことがある。主催したのは白鳥邦夫。旨いものが採れる季節になれば、酒持参しての集会を呼びかけた。

 多様で厄介な生徒たちを相手に、七転八倒しながら授業した記録(どんなに短くてもいい)を、持参することを条件にする研究会をやりたい。研究者編集者の類いが参加を希望すれば、彼らにも
にも七転八倒の実践報告を求める。
 田舎屋敷の一室に車座になり、司会も置かず人が集まれば自然に始まる。時程や日程がなければ不安という脅迫観念から先ず自由になる必要がある。参加者が多くなったら、庭や浜に分散して話を続ける。時間無制限。
 宿の手配も、床を延べるのも、食事の支度も自分でやる。掃除も片付けも。
  議論を滑らかにするために酒はいい、手作りの菓子や茶受けも歓迎する。酔っ払ったら迷惑、自ら退場する。分散会の交流は昼休みや、夕食後に自然に開かれるだろう。討論が終わらないところもあるだろう。近所の農夫や子どもが覗き込むようになればしめたもの。
 まとめや総括の類いはない、終わった途端の総括に碌なものはない。ひとり一人が話し合いの中身を咀嚼し、胸に刻むことが重要なのだ。数ヶ月して自分なりの総括が出来たら、不定期刊行の雑誌に送る。そうすることで、自他の違いが際立つだろう。それが、又あの人たちと語り合いたいという気持ちに繋がる。
 こうした会は、絶対不定期でなければ成立しない。最初の言い出しっぺは必要だが、次からは誰かが言い出すのを待つ。自然消滅も悪くない、継続は力などという呪文に縛られていては、国家の消滅も展望できない。組織は発展継続するだけではない、生成と消滅を繰り返すことも多い。生成と消滅の間には発展も停滞もある。停滞は腐敗さえなければ安定でもある。

 表現企画したいという少年たちの意欲を、一斉の日程に合わせることなどそもそも無理な話ではないか。文化祭や体育祭は、少年たちの表現を組織するのではなく、組織のスケジュール表に少年たちの成長を閉じ込める。

 戦前戦中の体験に懲りて、青少年の成長を組織の都合や利益に合わせるのはいい加減にしたのではなかったか。
 先ず教員自身が、スケジュールから自由に行動する必要がある。その自由を模索する少数の教師が、七転八倒している筈である。それが見えてこない、余程少数なのか。


   であれば、学校の日程や教師の管理から自由になることを青少年が恐れず実行することが先だ。自由は君の目の前にある、それを君が掴めないのは管理が厳しいからではない。君が臆病だからだ。教師は君より臆病なのだ、君たちが彼らを解放するのだ。

疑うことを知らず、それを教えてくれる人もいなかった

戦時下、中学生の身長は6㎝縮んだ。勝てるわけがない
 「わたし(結城昌治)が生まれたのは昭和二年(1927)です。昭和六年に満州事変が始まって、それが日本や侵略戦争の初めだったと思いますが、このとき、ぼくは四歳だったわけです。それから昭和十二年に支那事変が始まって、支那事変はいま日中戦争とよばれておりますが、そのときは小学生です。それから昭和十六年に真珠湾攻撃、これが太平洋戦争の勃発でしたけれども」中学二年生のときで、まだ世の中のことはわからなかった。
 その間の教育というものは、いわゆる軍国主義教育で、滅私奉公とか尽忠報国、皇軍不敗というようなことで、国のために、天皇陛下のために死ぬのが、即ち生きるごとであると…・‥死ぬことが生きることであるというのは、いまの若い人たちにはわからないかも知れませんが、ぼくだって本当にわかってたわけではないけれども、そんなように納得したところがありまして、頭からそう教育されてきました。それは太平洋戦争が始まってからも同じで、わたしが入学したのは、東京・高輪の泉岳寺の隣りにある、あまり出来のよくないのが入る中学で、校長はえらそうなひげを生やした退役の陸軍大佐で、、もちろんばりばりの軍国主義者でした。年中、国のために死ね、天皇陛下のために死ねといわれつづけてきたんです。また、わたしの周囲を見まわしても、それに反対する意見というものはまったく耳に入ってきませんでした。・・・字引をひいても、基本的人権などという言葉はないし・・・デモクラシーのデの字も耳にしたことはありません。・・・いわゆる神州不滅ということ、皇国日本という教育だけをうけて、疑うということを知らなかったし、疑うことを教えてくれる人もいなかったんです
」    (日本戦没学生記念会講演「英霊もしくは死せる虫たち」1972年)

 結城昌治は、死に場所を求めるように特別幹部練習生を志願。朝から晩まで「大東亜戦争勝ち抜き棒」を振り回す下士官に殴られた挙げ句肺病で除隊。敗戦時18歳の彼は、「殆ど無知に近」い状態で焼け野原に投げ出される。


 少年や若者たちの現在と結城昌治らの青春が、瓜二つに見えてならない。低賃金とパワハラの末に過労死に追い込まれながら、対米従属のサムライジャパン精神に酔い疑うことを知らない。日本経済不滅を信じて近隣諸国への蔑視に身を委ね、労働三権や基本的人権に背を向けるのだ。全てが大きな破綻に向かって、抵抗するどころか加担して破綻を糊塗している。

   まるで現実を忘れるために、土日も正月もなく「部活」にのめり込む高校生の姿は、軍国主義教育下の結城昌治とどこが違うのだろうか。スマホを持っていることか。
 だがスマホは少年たちを些かも解放しない。スマホから目を離すと何か大事なことを見逃すのではないかという脅迫観念が、青春を組織に縛り付け個人としての判断を奪っている。

 八王子の女子中学生が、夏休み中の家族旅行を上級生のSNSで咎められ虐めに発展、不登校と転校の末自殺した。
 元気で天気がいい時に休むのが、休暇である。辺野古の座り込みや国会前集会に学校を休んで参加するのは、主権者の権利である。病気で休むのは病欠、悪天候や交通機関のストで休むのは事故欠 であり何ら問題ない。それをスマホは瞬時に奪う。決してsocial media ではない、社会的関係を断ち切る民営公安mediaなのだ。

 教師は、休むとは一体どんなことなのか考え教えているのか。咎めた生徒も自殺した生徒も、病気や怪我でもしない限り休むのはいけないと思い込んでいる。家族の誕生祝いのために早退したり休んだりを当たり前にするのが、文明化というものではないか。  戦中でもないのに、何故教師たちは辺野古の現実を授業で取り上げることに躊躇しているのか。若者の労働条件のために闘うことを何故ためらうのだ。自らも過労死の縁にあると言うのに。
 1980年代、僅か29分の職場集会にさえ「生徒に迷惑をかけない」といって逃げる風潮が拡大した。鉄道労働者のストライキを迷惑視する「良心的」教師も増えていた。

 一体「生徒に迷惑」とは何か。三年生の1/3から1/2が、来年には非正規労働に就かざるを得ない現実ではないのか。 「明日の朝練は中止」と告げて職場集会する理由を語ることを何故しなかったのか。組合員であること、闘うことは隠さねばならぬことなのか。

 結城昌治は地検保護課で働いていたとき、1952年の片面講和条約締結に伴う講和恩赦に関わり、外地の軍法会議判決を読む機会があった。「その軍法会議の記録を読んだときに、初めて軍隊というのはこんなひどいものだったのか、大変なところだったんだな、とびっくりしたんです。たとえば、小説に書きましたけれども、戦闘で傷を負って意識不明になって敵の捕虜になります。しかし、捕虜に.なってもなんとか脱走して原隊へ帰りたいと、スキをうかがって逃げてきた。その兵隊を、「お前は敵前逃亡である」といって死刑にしてしまう。そういう例がいくらもありましてしかも、罰せられているのはほとんど下士官か兵隊で、不思議に思ったのです。なぜ将校は軍法会議にかからないのか

  「あの戦争にいちばん大きな責任がある者ほど、戦争が負けたのにたくきんもらっています。これはいったいどういうわけなのでしょうか。職業軍人というものは、たとえるなら戦争に負けたら会社が倒産したと同じで、恩給などもらえる義理じゃないはずです。会社が倒産すればその首脳部は、借金を背負って、家を売りとばしても返済しなければならない。ところが日本の場合は、国が負けたら率先して責任のある連中が軍人恩給をもらっています。多くの部下を死なせた当時の将官、佐官などがのうのうと年金をもらっています。一兵卒などほ雀の涙です
 
 結城昌治も戦艦大和からの少年復員兵渡辺清←クリック も、「天皇陛下のために死ぬのが、即ち生きるごとである」と思い定める「殆ど無知に近い」18歳であった。結城は肺病に冒され四年間の入院生活を送り、渡辺は呆然自失して実家で農作業した。 二人が戦争犯罪について批判的に考えることが出来たのは、無為な日々のあればこそだ。暇がなければ、疑うことも出来ない。

 疑う者が、軍国主義にとって最も憎むべき敵=非国民であった。

いい授業とは何か Ⅰ

誇れないことを自ら誇る醜さ
 だいぶ前から「おいしい○×屋さん」とか「日本一旨い△◇屋」などと看板を掲げる店が増えた。近寄りたくない程の違和感を覚える。自ら「ブランド化」を画策する生産者団体や企業もある。「天才的外科医」とか「美人講師の塾」などという看板や名刺が流行るのも時間の問題かも知れない。「主任教諭」や「指導教諭」の肩書きを、名刺や自己紹介に印刷したがっているのだから。更に出身校名を入れたくてウズウズする向きもある。  学校が校舎に「△×部関東大会優勝」などと垂れ幕をぶら下げるのが当たり前というならば、自宅に「次男 ×□高校合格」だの「夫 教頭試験合格」の垂れ幕も可笑しくなくなるかも知れない。
 マスメディアや政府が「ニッポン金メダル○個」だの「日本人連続ノーベル賞」と驚喜する、見苦しい光景である。賞賛さるべきは当の個人であり、賞賛する側も個人でなければならない。なぜなら、あらゆる賞には国家的企みが隠されていて、その企みに振り回されるのは全体主義を誘発して危険かつ愚かだからである。集団で浮かれたあげく誇大に自賛して、他国と自国の優劣の比較に用いるのは筋が違う。個人の手柄に集団が乗り移るのは、素朴な手前味噌を越えて国家主義の響きがある。オリンピックのメダル数もノーベル賞受賞数も、人口あたりに換算すれば、騒ぐほどの数ではない。

生産力の分析もなしに、軍艦の数を誇り、不遜な思い込みを高じさせて日中戦争から太平洋戦争に踏み込んだ苦い経験を忘れている。

 ブランド品という特権的名称は、その商品生産者が自ら付与するものなのか。販売と消費の長い実績があって自然に湧き出す品質への評価が「ブランド」と呼ばれ定着するのではないか。広告代理店を使った販売戦略や、タレントによる宣伝でなんとかなる筋合いではない。金さえ出せば、他人任せで済む安易なものではない。長い歳月と汗が染みこんて初めて獲得できるはずのものだった。
 だが金と権力で希な成果を挙げた例が、注目され産業化されるようになる。1970年代の新設都立高校の中には、じもとの中学関係者や塾と結託して初めから偏差値の高い生徒を集めることに成功した例が複数存在している。教育委員会が入試制度を弄んで、中高校生や教員を翻弄したことも度々ある。
 ユーゴスラビアにおける戦争広告代理店の爛れた「成功」は、評価の光景を一変させた。アイドルは、広告代理店によって「プロデュース」されるものとなった。地道に努力した者の多くは振り向きもされない。金と権力による破廉恥な恫喝が詐欺師や窃盗犯を真面目な努力者のように見せる。しかも押しつけがましさを感じさせないような巧妙さがある。極悪人を正義の味方や「圧政の善良な犠牲者」に仕立てるのはお手のもの。しかし偽造には違いない。

 「いい授業」を構想することは、「いい人間」を定義するのと同じ危険を伴う。近くは「管理主義教育」で遠くは天皇制教育やヒトラー青年団による洗脳で散々懲りた筈ではないのか。
 「いい・・・」は「良くない・・・」の排除から始まる。授業に力を入れるのではなく、成績が悪く教室の秩序を乱す生徒を先ず排除するのである。マッカーシーの非米活動委員会がいい例だ。手っ取り早いく分かりやすいからだ。「良くない・・・」の排除は、次第に同調しない者への非難・攻撃を含むようになる。遂には集団の最も優れた知性を追放して、大きな損害をもたらす。

 
 人の生涯や、時代の趨勢を左右しかねない問題が、拙速では取り返しがつかない。判断を誤った場合、頼りになるのは反対派=「良くない」連中である。彼らを排除してはならない。「手っ取り早い」判断が重宝され始めたのは、株式市場が短期的利益を求めて博打化するようになってからである。
 偶に「良くない・・・」の中から「いい・・・」が発見されても、「いい」が多様になることはない。「良くない」部分を徹底的に取り去ることが「いい」ものになる条件だからだ。「いい」の定義は、「いい」と「良くない」の両極がが際立つて来る。「良くない」少年たちは凝縮されて、底辺校が自然現象のように形成される。
 効率や生産性の観点から「何の取り柄もない、危険」な存在と見做された者たちが濃縮される。これは隔離である。

 様々な哲学や思想・教育方法を持った教師が、民主的自治集団を形成する。それが学校と教師が、社会全体を代表して少年たちの教育を条件である。そこに現れるのは、特定のmethodに基づく「いい授業」ではない。平凡で多様な授業である。

追記 はじめ東大卒業生に特権はなかった。←クリック  だから慶應義塾、東京商業学校など実学的教育を施す学校に学生が集まった。国会開設に備え人材を育成する
東京専門学校も、伊藤博文内閣を悩ませた。
 伊藤は、手っ取り早く東大に特権を与え他校を出し抜くことにした。工部省工部大学校、司法省法学校を東京大学に吸収して東京帝国大学と改称。法学部を卒業すれば、高等試験を受けずに高級官吏になり、医学部を卒業すれば無試験で医者になり、教員免状も無試験。この大学を卒業しさえすれば、進路はひらけ、俸給も飛び抜けて高くなるよう仕組んだ。この特権を恥じることもなく大学「紛争」を収束させた東大「確認書」を僕は全く評価しない。
 三菱などの財閥も、官営工場の破格の好条件による払い下げなど、特権に塗れて成立している。日本の近代化を振り返ると、我々は特権を非難する振りをしながら、実はお上によるブランドに依存・期待しているのである。天皇制がなくならないわけだ。

生が終われば死も終わる

岡倉天心の墓は、森の中の簡素な土饅頭
 ある状況についての幻想を捨てたいという願いは、幻想を必要とする状況を捨てたいという願いでなければならない。  マルクス

 生が終われば死も終わる。山口由美子さんは「生と死は比べられない」と書いている。「死は生の次の世界だ」というわけだ。だが、「死は生の次の世界」ではない。 死は、生きている人間の中のイメージでしかないのである。他人の死は「物体」であり「数」である。だけど自分の死はけっして手でさわることはできない。生が終われば、いっしょに死も終わるのである。
 淵上毛銭が書いている。
じつは大きな声では言えないが過去の長さと未来の長さとは同じなんだ、死んでごらんよくわかる
              寺山修司    「時速100キロの人生相談」
 

   寺山に人生相談したのは高校生である。死についての幻想は、若者をも捉えて放さない粘着性の頑固さがある。幻想を必要とする状況を捨てることは、若々しいほど難しいのだろうか。
 幻想から逃れるのが怖ければ、せめて死後ぐらいは平等を実現したらどうだと思う。
 組織宗教は、予め不安と恐怖を流布して置いてしかる後に勿体を付けて「安らぎ」や「愛」を説く。曾て「マッチポンプ」を得意とする政治屋が暗躍したことがある。死後の不安に商機を見出す寺院や宗教団体は、永遠の「マッチポンプ」の観がある。お寺の敷地内に墓石屋が事務所を置き、タレントによるTV宣伝も欠かさない、古い墓石を更新しながら無縁墓石を整理して、詰まらない石を不当な高値で売りつける。時期が来れば又新しい材料やデザインで、「ご先祖様」を出しにして立て替えを促す。
  宗教団体が直轄で広大な墓地を販売すれば、数百億円単位の利益が無税で転がり込む。森林は剥がされ災害を誘発させかねない。


 西武が造成した55万㎡の鎌倉霊園には、一段高い所がある。天皇陵や徳川家墓所を除けば希有の広さを持つ提康次郎の墓である。かつては毎年元旦には、2代目がヘリコプターで乗りつけグループ幹部500人が墓前に手を合わせた。「感謝と奉仕」と称して「奉仕当番」制度もあった。西武グループ内各社社員2名が毎日手弁当で墓地に泊り込み、朝夕の「鐘つき」や清掃などの墓守りをした。まるでヤクザ一家の如き時代錯誤振り。「感謝と奉仕」が提一家の標語であったが、とっておきの場所を自分に確保して置いて、残りを小さく刻んで売り捌き客を睥睨するとはたいした神経であった。「感謝と奉仕」は提義明が顧客にするものではなく、自分がされるものであったのだ。
 寺院はたいてい、一等地を宗祖や代々住職らの大きな墓が恥ずかしげもなく占めている。提一家と同じ構図がある。
 

 2004年、西武鉄道株虚偽記載事件で西武鉄道は上場廃止、提義明は逮捕された。提一家の支配を断ち切った新執行部は「西武はもはや堤家のものではないのだから、そういう人の墓がグループ企業の霊園にあるというのは、会社のコンプライアンス上おかしい」と初代の墓の撤去を通告した。対して西武一家は「墓を撤去するなんて、眠っている人に大変失礼・・・」だと怒り心頭だったと当時の週刊誌は伝えている。どっちが失礼かも分からなくするのが、宗教の効用で
ある。

 

 生物は生を終えれば、全てを森や海に戻し、この惑星の循環の一部となった。
 食物連鎖の頂点にあった人間も、髪の毛から内臓に至るまで、動物と植物の滋養となる。

 その自然の掟を破っているのは鳥葬を除けば人間だけである。
 位牌も墓も戒名も七日毎の法事も、一切根拠はない。位牌は儒教からの借り物。戒名は受戒した者、つまり仏弟子になった証であり死んでから金で買うものではない。初七日から始まる無限に続く法要も、幕藩体制下で増加を遂げた寺院と僧侶の飯の種として考案されたに過ぎない。全てが金銭欲の道連れになっている。
 そんな詰まらぬ仕来りに時と金を浪費するから、ありもしない地獄を格差に満ちた世界に描いて恐怖するのだ。


 一方に堤家の広大豪勢な墓があり、他方に猫の額のような憐れな墓もある。その猫の額ほどの墓も買えなくて、うろたえる人が少なくない。生きれば格差に苦しめられ泣き、死んでも格差を思い知らされる。
 国や自治体が、芝を張った大きな土饅頭を中心にした簡素な霊園を整備し、誰でもそこに平等に祭られるようにしたい。海縁に海葬のための公園を作るのもいい。そのためには、法律を整備する必要もある。

 人々の不安につけこんで怪しい商売が勃興する。いずれ世界的に墓地は足りなくなる。東京都が多磨霊園に共同墓地を構想したが、潰れてしまった。怪しい勢力の暗躍が感じられる。僕は森や海に捨てて腐るに任せて貰いたいが、法が許さない。

 今のところさっぱりしているのは、献体による始末の付け方である。健康な臓器は移植に役立てることも出来る。


 
天皇家は巨大な墓を各地に持っている。提家の比ではない。天皇制を肯定する者は、日本各地の天皇陵に合葬することを政治的要求としてかかげたら良い。巨大な墓地公園になる。僕はそんなところに入れられるのは、まっぴらゴメンだが。
 それで戦争責任や「天皇メッセージ」の歴史的大罪が消えるわけではない。
 

 淵上毛銭は病を得て若くして死んだ。「柱時計」という作品がある。

ぼくが / 死んでからでも/ 十二時がきたら / 十二鳴るのかい / 苦労するなあ / まあいいや / しつかり鳴って / おくれ

勤評闘争か作った「留置場の教師に教え子たちの声援」

教師の勤評への姿勢が少年たちの世界観に影響を与えている
 東京医大の点数加算や減点による不正は、今に始まったことではない。半世紀前の小学校にもあった。
 僕は長く、クラ
ス同窓会に出ていない。出たくないのである。四谷四丁目の小学校では、長屋暮らしの洟垂れから
豪邸住まいの坊ちゃんまでが同じクラス、落語家の子どもも頭取の孫も机を並べて、敗戦後の混乱と多様性を象徴する学校だった。一学年4学級、6年間クラス替えはなかった。それだけではない、この区立小学校には、幼稚園が併設され、クラスの殆ど全員が幼稚園でも同じクラスだった。仲がいいわけだ。毎年、担任を囲んでクラス会を開いている。僕はそこに小4の夏休み明けに転校してきた。
 酒宴が盛り上がると、決まって軍歌が出る。「同期の桜」である。「咲いた花なら散るのは覚悟」という箇所では涙とともに絶叫するという話を聞いた。それを制止しようとせず唱和する担任に呆れ、ますますクラス会に出るのが嫌になった。

 特攻隊の若者は、人生に花を咲かせることなど出来なかった。恋愛も結婚も思いもよらなかった。少年兵に至っては蕾になる前に死んだ。
 第4航空軍司令官富永恭次は、特攻隊員に「諸君はすでに神である。君らだけを行かせはしない。最後の一戦で本官も特攻する」と訓示して隊員をことごとく死に追いやった。しかし富永は逃げ続け、敗戦後も恩給を受け取り生き延びた。敵前逃亡罪にも問われていない。司令官なら見事に「咲いた花」だ。そんな男が部下を死に追いり勲章と恩給を増やたのである。

 教師なら、少年を兵器に仕立てる発想はいかに生まれたのか、そのとき英米はどのような思想で武器をつくっていたのか史実に基づいて教えなければならない。何故イギリスでは戦後、「ゆりかごから墓場まで」の福祉社会が可能だったのか。戦争でイギリスも疲弊していたのである。しっかり教える必要がある。裏切って逃亡した司令官の名を脳裏に焼き付けなければならない、富永恭次だけではない。

 平和教育や生活指導教育の研究会発表に余念のない若い教師が、数年で受験名門校に消える。それを栄達・出世と見て、憧れ評価追従する向きもある。そうした行動言説が、生徒たちにどう受け止められているか、想像を逞しくするする必要がある。

 「偉そうなことを言ってたが、結局俺たちを踏み台にして裏切りやがった」そう言い、裏切った教師個人だけではなく、その属性をも憎むようになる。教師個人を揶揄するのではなく、その教師の属する集団を憎んでしまう。特に当該教師が組合員であった場合は激しい。これが教師がやった実践へのお返しである。
 問題行動が生徒個人によるにもかかわらず、生徒全体に網を掛けて規制したことの皮肉な効果である。
 裏切った教師は異動すればもうそこに存在しないから、生徒の怨嗟の声が届く筈がない。特攻兵の怒りを帯びた叫びが、逃亡した司令官に届かなかったように。
 その属性は同様の例が累積する度に、平和と民主と団結が好きな教師と類型化されて頭に叩き込まれる。民主主義や平和に背中を向ける傾向は、その筋の教師によって作られるから厄介なのだ。
  どこか戦前の「転向」に似ている。個人というものがない。思想が生き方のレベルに達していない。

  僕のクラスは8年間も同じ学級にいたのだから、嫌な思い出がただ一つを除いてない。だから毎年
担任を招待して楽しかった思い出に浸り、高額のお土産を贈り散会する。
 5年に進級した時だ。突然クラスの中が、成績別に4つに分けられた。成績のいい男女は廊下側の二列に、次の男女は窓側に二列、と言う具合に成績の良し悪しが一目瞭然となってしまったのである。
 「あれは、嫌だったね」「たった一つの汚点ね」と皆が言う。あたかも避けて通れない自然災害のように「あの嫌なこと」を言い、急いで記憶の奥にたたみ込むのである。
 あれは、避けるべき教育政策=「勤務評定」が日本の教室を暗くしたのであり、抵抗する教師を政府は徹底的に弾圧した。
 同級生たちは塾に通いはじめ、受験参考書「自由自在」をランドセルに入れて登校するようになった。僕にカンニングをせがむ同級生も現れた。算数や国語の授業は、業者テストの時間であった。教室で実施したテストは、業者に送り採点されて戻ってきた。点数とともに、1000人中何位かが書き込まれていた。これは6年になっても続いた。クラスを暗く重い雰囲気が覆っていた。
  測定可能な成果を出すことを教師が競い始めた。僕らのクラスでは受験体制が強制されたわけだ。その成果は、私立中学進学者の多さとなって現れ、担任への盆暮れの届け物は、子どもの耳に達するまでになった。
  そんな雰囲気が面白い訳がない。6年3学期、クラスのお別れ会をやろうと担任が言い出した。出し物をグループ毎に工夫するのだ。僕は、手を挙げて反対した。担任は激怒した。よい子の筈の学級委員がたった一人で反乱したからだ。担任は言った。
 「このクラスがつまらなかったと言うのか」
 「つまりませんでした」
 「反対してるのはお前一人だけだ」小学生をお前呼ばわりしての異常な罵倒。
 「僕はやりたくありません。やりたい人は勝手にやれば良い。僕は出ません。卒業式にも」と言い切ってしまった。
 一時間近くを一人で反対した。終わると数人が飛んできて
 「ごめんな、おれも反対なんだよ」

 「怖くて手を挙げられなかった」
 「怖かったよ、あんな担任初めて見た」 僕は、一人位は味方がいるだろうと思っていたが、後の祭りだ。
 「もう終わったよ」
 「たわし、おまえ卒業証書いらないのか」
 「式に出なくても呉れるよ」

 翌日は、母までが担任に呼び出され、僕の非協調性を難詰したという。僕の母は、担任に贈り物をしない数少ない保護者の一人だった。母がある日
 「どのうちも先生に付け届けをしてるそうよ。うちもそうした方がいいかしら」と僕に言ったとき
 「止めて」と告げて咄嗟に家出、一日隠れてしまった。うちに帰ったとき母は、オロオロして
 「分かったよ、付け届けはしないよ」と約束した。僕はこの頃から頑固者だった。

  情けないことにこの後、僕は級友たちに「お前が出ないと詰まんないよ」と泣き付かれ、卒業式に出てしまった。後悔した。
 
 このときクラスを暗くしたのが「勤評」であることは、高校生になるまで知らなかった。しかし担任や学校のやり口には腹が立った。私立中学受験生に「5」を多く付けるために、通信簿の操作が行われたことも知った。私立を受験した同級生の通信簿と、僕のそれを比較する機会があって判明したのである。卒業から50年を経てからのことだ。あまりの改竄に同級生も開いた口が塞がらなかった。
 勤評は確かに教育と教師に対する未曾有の攻撃であった。しかし、迫り来る勤評体制に反対するどころか、積極的に適応して学級を競争の場として再編したことに、僕は怒っている。


 高校の担任となってから、僕は成績操作された内申書をいくつか発見した。非常に利発な生徒の内申書が非常に悪いので、呼んで中学校での成績を聞くと、仰天するほどの改竄操作が見つかる。貧困が理由で高卒で就職を決意した優等生の「5」や「4」が、進学校を目指す者に回されるのだ。

 成績別の並び方、「あれは、嫌だったね」「たった一つの汚点ね」としみじみ振り返る同級生はかなりいる。「受益者」である成績の良かった連中や私立進学者たちは、あっさり忘れている。
  我々は、何故憎むべき対象を正視しないのか。戦争犯罪者として最も大きな責任を負うべき者を告発もせず、新憲法下で同じ地位を続けて保証し、その彼が彼の地位を保証した憲法を無視して沖縄を基地として米軍に提供した男の歴史的犯罪を直視しようとはしないのだ。辺野古の大問題も「天皇メッセージ」というスキャンダルの上にあることを確認しなければ始まらない。

  宇高先生は、中野教組委員長として「勤評」体制と闘い逮捕・収監された。先生が収監されたのは中野署、先生が勤務していた中野中央中の隣だった。生徒たちは休み時間になる度、獄窓に向かって「先生、頑張れ」と叫んだ。←クリック  

 クラス会の度に軍歌を教え子と歌うクラスと、獄中の先生に声援が届く学校。勤評に対する教師の姿勢がその違いを生んでいる。

 1966年ILOとユネスコは「教員の地位に関する勧告」出し、教育の目的で最も重要なものは「平和のために貢献をすること」と指摘した上で、「教員の正当な地位」の重要性を強調した。日本政府は 国連中心主義を標榜しながら、未だにこの勧告を無視している。

恩着せがましさへの嫌悪感

 「一番許しがたい嫌悪感は何か」と、聞かれて五木寛之が応えている。
1965年夏、モスクワの「愚連隊」と語り合っていた

五木 ぼくは図式的に分けて、保守と革新という形、あるいは反動と進歩派というか、その革新の側における、自分は未来のため人民のために働いているんだから、正しいことをしているんだという思い上がり、たとえば選挙があって、革新陣営から推薦人になってくれという依頼があったり、励ます会をやるから発起人になってくれないかといったり、こういうことをやるからカンパをお願いしますといってきたり、そういう場合の頼み万……ぼくはエチケットをいってるんじゃない。自分らはこういう正しいことをしているんだから、当然あんたたちはこれに協賛すべきだという、あたかも昔の白樺派の文人たちに対して、あんた方は流行作家でうんと稼いでいるんだから、こういうことがあったら喜んで免罪符をもらうだろうという感じでの思い上がりが許せない。それはぼくは一番腹が立つんだ。つまり世のため、人のためであろうと、あるいは飯も食わずにやっているのであろうと、それは好きでやっていると思わなきゃいけないですよ。たとえば原爆禁止、あるいは戦争を廃止するための力になっているとしても、あんたたちのやるべきことをおれたちがかわってやってやってるんだというふうな思い上がりは許せない。それがものすごく嫌いだ。青の洞門だってシュヴァイツァーだって好きでやったんだ。少なくとも本人はそう思ってなけりゃ困る。
 昔のやくざというか、股旅とか、旅芸人とか、そういう連中がちょっと身をすくめて軒下をちょろちょろ走るところがあったでしょう。そういう心情がどっかにない、聖職意識でイバリ返ってる革新運動はダメだと思いますね。

                                          「五木寛之・野坂昭如 対論」講談社

 五木寛之は「赤旗」にも度々登場する。その彼の厳しい指摘である。「あんたたちのやるべきことをおれたちがかわってやってやってるんだというふうな思い上がりは許せない。それがものすごく嫌いだ」と言う五木寛之の父は、将来を嘱望された青年皇道哲学者で、軍人の出入りも多かった。子どもにもやたら厳しく、何かと言うと「斬る」が口癖。それが敗戦と母の死によって一気に崩壊。親戚からも見放され闇ブローカーをしたが、アル中になり競輪場で吐血、結核療養所で死んだ。その父の戦中の生き方を、五木寛之は嫌った。しかし敗戦とともに、五木寛之が父を説教するようになる。そして父に初めて友情を感じるようになったという。
  彼の革新勢力の「思い上がり」に対する嫌悪はここから生まれている。新日本文学会を脱退したとき、志賀直哉が中野重治に宛てた書簡にも流れる感情である。

 今「赤旗」は、五木寛之の説教を受け容れる老父のようである。悪くない。

  「青の洞門だってシュヴァイツァーだって好きでやったんだ。少なくとも本人はそう思ってなけりゃ困る」のだが、過労死に追い込まれる程の労働強化の中で、教師たちはその「好きでやっている」実感を持てないでいる
 
 「好きでやっている」実感がなければ、疲れは怒りに転化しやすく「こんなに頑張っているのに」という不満は行政に向かう冷静さを失い生徒たちと保護者に向けられる。
 組合運動にも、好きで走り回る意識が薄れて、「自分らはこういう正しいことをしているんだから」と「聖職意識でイバリ返」る官僚意識が滞積する。それは容易に権力的志向を帯びかねない。シュヴァイツァーのように神の啓示に依存することさえする。

 戦前・戦中の左翼活動家には、「股旅とか、旅芸人とか、そういう連中がちょっと身をすくめて軒下を走る」風情があった。そうしなければ、弾圧が激しくメーデー集会にもたどり着けなかった。哲学者の出隆が党員になり、志賀直哉が中野重治を「世界」の編集委員に推挙したのは、「身をすくめて軒下を走る」姿に打たれたからだと思う。

「便所掃除」/ 働く者の誇り / 「闘い」

Fraternitéは倫理的なスローガンである
 左の写真は人種差別に抗議する子どもたちの行動である。「No child is free until ALL are free」こういう類いのプラカードを東京の高校生が掲げて、辺野古の闘いを支援する光景を見ることが出来るだろうか。
 偏差値別に隔離された高校生たちが、連帯して「皆が平等になるまで、誰も平等にはなれない」と偏差値体制に抗議して座り込むことがありうるだろうか。
 土曜日曜も正月も部活に励む少年たちが、「僕らの先生に休みを」と横断幕を掲げて新宿や銀座をデモ行進することはどうか。
 又教師たちが、卒業する生徒たちの雇用と奨学制度を巡ってストをうち、ハンストを事態改善まで実行し続けるのはただの夢想だろうか。

  「自由・平等・友愛」は「Liberté, Égalité, Fraternité 」の訳。ポール・チボーによれば、Fraternitéは倫理的なスローガンである。つまり、友愛とは他者に対する親愛の念というだけではない。社会・共同体への義務・奉仕を意味するのである。
  選別によって隔離され底辺へ位置づけられたものは、自己肯定感を持つことが常に極めて難しい。何時までも、社会の「損な役回り」をあてがわれ続ける。まるで囚人のように、誰もやりたがらない仕事を驚くべきべき低賃金で、誰も知らない場所で、誰もいない時にやらされる。
 だが、ここに誰もやりたがらない仕事を通して、誇り高い労働と職場を作り上げた闘う鉄道員の詩がある。

        便所掃除    濱口國雄


扉をあけます / 頭のしんまでくさくなります / まともに見ることが出来ません / 神経までしびれる悲しいよごしかたです / 澄んだ夜明けの空気もくさくします / 掃除がいっペんにいやになります / むかつくようなババ糞がかけてあります

どうして落着いてしてくれないのでしょう / けつの穴でも曲がっているのでしょう / それともよっぽどあわてたのでしょう / おこったところで美しくなりません / 美しくするのが僕らの務めです / 美しい世の中も こんな処から出発するのでしょう

くちびるを噛みしめ 戸のさんに足をかけます / 静かに水を流します / ババ糞に おそるおそる箒をあてます / ポトン ポトン 便壷に落ちます / ガス弾が 鼻の頭で破裂したほど 苦しい空気が発散します / 心臓 爪の先までくさくします / 落とすたびに糞がはね上がって弱ります

かわいた糞はなかなかとれません / たわしに砂をつけます / 手を突き入れて磨きます / 汚水が顔にかかります / くちびるにもつきます / そんな事にかまっていられません / ゴリゴリ美しくするのが目的です / その手でエロ文 ぬりつけた糞も落とします / 大きな性器も落します

朝風が壺から顔をなぜ上げます / 心も糞になれて来ます / 水を流します / 心に しみた臭みを流すほど 流します
雑巾でふきます / キンカクシのうらまで丁寧にふきます / 社会悪をふきとる思いでカいっぱいふきます

もう一度水をかけます / 雑巾で仕上げをいたします / クレゾール液をまきます / 白い乳液から新鮮な一瞬が流れます
 / 静かな うれしい気持ですわっています / 朝の光が便器に反射します / クレゾール液が 糞壷の中から七色の光で照らします /
便所を美しくする娘は / 美しい子供をうむ といった母を思い出します / 僕は男です / 美しい妻に会えるかも知れません

                     1956年 「便所掃除」で国鉄詩人賞を受賞

 濱口國雄は国鉄職員だった。彼とその仲間は臭くて汚い便所掃除を通して、誇りある職場を築き挙げた。それが世界で最も時間に正確で事故の少ない乗り心地の良い鉄道を作り上げた。その誇りが合唱団や文学サークルなどの芸術に結実した。

 文化的歴史的遺産と言うべき、それらの積み重ねをぶち壊したのは、先ずGHQであった。松川事件・三鷹事件・下山事件によって強引な人員整理を強制したが、濱口國雄は詩を作り仲間を励まし闘い続けた。1973年には『闘う国鉄労働者 : 反合理化・スト権奪還の旗手』(共著)を書き上げている。1987年の国鉄民営化は、便所掃除を見せしめの「罰」にして労働を侮辱する「日勤教育」を拡大、その結果は107名の死者を出す福知山線脱線事故となって現れた。資本への隷属は、働く者から誇りを奪い友愛の精神を根絶やしにしたのだ。

 少年たちは、大人の動向に鋭敏である。例えば、父親が銀行の管理職の子どもは、小学校で「お前なんかバツバツだ」と叫んで級友虐めに加わった。家庭で父親が、勤務査定の内実を口走るのを聞いて真似るのだ。大人が競争に目の色を変え、他人を蹴落とすことに喜びを隠しきれない時、少年に正義と連帯を説くことが出来るわけがない。その間隙を縫うように始まるのが、教科「道徳」である。しかし、労働から誇りを奪った今、どんな教訓的美談があると言うのだ。

 誇り高く働き生きた記憶を身体に強く留める老人たちが、辺野古で座り込み、国会前で迫り来る戦争に抗議の声を挙げているとき、青少年はスポーツの深く長い酔いから未だ覚めない。

   僕が下町の工高で政治・経済を受け持っていたとき、修学旅行中の私服着用を求めて三年生ほぼ全員が、整然と中庭に円陣を組んで座り込んだことがある。教師代表との交渉が受け容れられると、三年生は会場を体育館に移動することを求めた。1・2 年生の授業を妨害したくないと言うのだ。移動するとき、彼らは周りのゴミを拾い始めた。自分たちが捨てたものも前からあったものも拾って、いつもよりすっかり綺麗になってしまった。要求を掲げて闘う過程で生まれる倫理。その底にあったのは、自他の人格の自覚である。これこそ自由である。彼らはこの座り込みの準備に一週間をかけていた。もちろん要求は実現した。見事な結束であった。

ゴリラの群れの中に寝ころぶ / アフガンで完全非武装を貫く

アフガン和平は、非武装のみが実現する
山極寿一 私はゴリラの群れのなかに寝ころんで、彼らが自由に振る舞うところを近くで観察したわけです。そこまで行かないと、実際の観察はできません。そのとき、自分で身を投げ出すわけですね。
 向こう側に、生の体を入れてしまう。そういうことにはかなり度胸が要ります。私もニホンザルに囲まれてどうしようかと思ったことがあります。ニホンザルはイヌと違って三次元で攻めてくるのです。三頭いたらとても対処できません。それで恐怖のどん底に突き落とされるのですが、そこではかえってなせばなるような感じになるのです。メスのゴリラに前後を挟まれて、一頭のメスは私の頭を囓り、もう一頭のメスは私の足を囓って、大怪我をしたことがあります。そのとき、もう抵抗しょうという感じはなくなっていました。しゃあないな、やつらがなすがままに任せておこう、と思うと、恐怖が消えるのです。そうすると、お互いを隔てていた壁がどこかで一か所抜けるのです。向こうの態度も変わるし、こちらも精神的にスッと幕が上がる感じがある。そういう感覚を覚えると、すんなり向こうの側から世界が眺められるようになります。これは体験してみないとわからないことかもしれませんが。
 ・・・それはまさにコミュニケーションです。そういう感覚を、言葉によるコミュニケーションだけに重きを置くばかりに忘れがちになってしまっているのです。
 だからこそ、冷房のなかにいて、それが人間に快適さをもたらすものだとばかり思ってやっていると、人間の身体のフレキシビリティがどこかで崩壊してしまって、逆に不健康になってしまう。人間はつねに外部とコミュニケーションをとっていて、・・・外部を抱え込んでいるわけです。
 人間の身体が気づかないうちに腸内細菌が反応しているということもあるわけですし。今西さんが言っていることですが、腸や胃などの管は、外部が人間の体のなかに陥入している状態なのだと。すなわちそこは外部であるということですね。あの時代にそれに気がついているのはすごいと思います。外部が人間の身体と同化しっつやりとりをしているのであって、まさにそういうところでいろいろな
 ・・・いろいろなつながりを感じながら、そのつながりを網の目の一つとして働いている、頭のなかでは意識できない人間の身体があるのだということです。言葉が通じない動物とどこかで了解しあえる経験をすると、それに気がつかされるのです。
 面白いことに、動物園の飼育係はみんなそれに気がついています。ただ、人間は生まれつき言葉を使ってコミュニケーションをするようにできているから、彼らはあえて言葉で語りかけるわけです。もちろんヒツジだろうがゾウだろうが、言葉は聞いていません。・・・
 
 だからこそわかるのです。われわれが言葉でしゃべっているとき、一番嘘偽りのない人間の身体の動きができていて、その体中から発散されるいろいろなタイプのコミュニケーションを、動物たちはそれぞれが持っているコミュニケーション能力で感じ取っているわけです。だから、彼らにはわかるのです。あたかも人間の言葉を聞いているかのように見える。だけど、われわれ自身が彼らのコミュニケーションの仕方を感じ取る能力をどこかへやってしまったから、彼らが言っていることはわからない。こういう事態に今、陥っているのです。つまり、向こう側に行けない。それはやはり対象科学が発達したせいです。つまり、理解ということが、論理的に、あるいは物象・現象として理解できないと、理解にならないという思い込みです。

 私がゴリラや自然との付き合いで学んだのは、曖味なものは暖味なままにしておこうということです。・・・つまり、正解を求めないということです。人間の頭で考えた論理的正解を追求しない。それが生き物との付き合いだと思います。他のところで了解しあっているかもしれないし、それに自分は気がついていないだけかもしれない。しかしそこでは身体が反応しあっているから、向こうは了解してくれる。ただ了解点を感知することが重要であって、理解を深めることが重要なのではありません。  (「現代思想」2018年9月号・中沢新一との対談)

 

   教員は、少年時代の記憶を捨ててしまう職業である。わざわざ勿体ないことをするのは、その方が都合がいいからだ。教え方や生活への介入について自分自身が感じた理不尽をありありと思い出したら、今度は自分自身が現在少年たちに加えている理不尽を正当化出来ない。
 しかし、少年時代の記憶をとどめる教師は幸福だと思う。山極寿一がゴリラの群れの中に寝転んで経験した「お互いを隔てていた壁がどこかで一か所抜けるのです。向こうの態度も変わるし、こちらも精神的にスッと幕が上がる感じがある。そういう感覚を覚えると、すんなり向こうの側から世界」を見ることが出来るからである。そうであってこそ授業は可能になる。
 教師は、その恣意を生徒に「理解」させることを厚かましくも「指導」とよんでいる。その際我々は、成績や校則によって精一杯武装している。生徒の側は非武装である。ゴリラの群れに
自然体で寝転んだ山際寿一とは大きく異なっている。 
 教師が生徒に囲まれて頭や腕を囓られたことがあるか。教室でタバコを吸ったり制服を着なかったりがせいぜいだ。対して少年たちは、生意気と言いがかりをつけられ体罰で殺され、僅かの遅刻で校門に挟まれ殺されているのだ。
  寿一と同じ立場に立つならば、教師は一切の優位性を捨て,同時に生徒の権利を明示しなければならない。つまり我々教師が先ず、武装を解除して、壁を壊す必要がある。そうして初めて、青少年たちは教師とのあいだの壁を消しコミュニケーション可能な存在として立ち上がってくる。
 多くの体罰教師を排出するある体育大学は、教師になる学生に「舐められるな」と訓示し秘訣を伝授すると聞いた。ゴリラの中に入るのに、甲冑で身を固め武器を携帯するようなものだ。

 
 思えば僕の「教育実習」の第一歩は、小中学校の同級生が対象だった。優位性も義務も一切ない。互いに自由勝手で、詰まらなかったり分からなかったりすればそこでお終い。第二歩目は、高校や大学で教室を巡ってのアジテーションであった。こちらに優位性の類いは一切ない。授業前の教室でビラを配りながらアジる。最大の課題はベトナム反戦だった。詰まらなければ忽ち怒号が飛び追い出される。アジテーションの意図が伝われば拍手が湧き、入り口で眺めていた教授に「続けたまえ」と言われることもあった。僕の通っていた大学では、セクト間対立は激しく殺人沙汰もあり暴力や脅迫は日常的であった。
 だから、荒廃が頂点に達していた時期の工業高校も、紛争中の大学に比べればお花畑であった。

 刃物を手にしたヤクザを前にしても不思議に落ち着いていたのには、自分自身も驚いた。そのせいか、「あいつはヒョロヒョロだけど、空手有段者で警察に登録されているらしい」という噂が生徒たちの間に広がったことがある。

 少年たちの中で働く者は、
寿一の方法を学ぶ必要がある。少年もゴリラも尊厳と知性に満ちた存在だ。
 

 紛争の現場に赴く「専門家」は、もっと寿一に学ぶ必要がある。非武装だけがコミュニケーションを可能にすることを肝に銘じなければならない。
 中村哲医師の手作り水路による灌漑は、アフガン和平を実現出来るのは非武装だけであることを証明して見せた。ノーベル平和賞プラス医学賞の1世紀分に値する壮挙だ。それ以上に、ノーベル財団にとって中村医師に賞を受け取って貰うことは、政治的汚濁に塗れた平和賞を過去の柵みから解放する唯一の方法だと思う。そうでもしなければ、ノーベル賞は戦争政策の現状肯定でしかない。
 

単一耕作化する教員の知的世界

飢饉は先ず生産地を襲い、飢えた農民は都へ押し寄せた 
 中世日本の飢餓状況を調べると、奇妙な事実に突き当たる。飢餓が、食料生産地であるはずの農村で先行しているのだ。大消費地である都周辺の農村が、都会に住まう貴族や商人たちの必要に合わせて地域ごとに生産物を特化させていたことが判る。そのほうが効率的で儲かるからだ。だが消費地に従属するという致命的危険を抱え込む。漬物用の大根ばかりを作付けしては、米や魚は買わねばならない。大根だけで生き延びるのは難しいからだ。飢餓地獄で生産地の農民が食料を求めて、消費地の都へ押し掛ける奇妙な現象はこうして起こる。単一耕作がもたらした悲劇中の悲劇である。

  「会議をあまり多くの分科会に分散しないよう、くれぐれもご注意いたしたいと存じます。それぞれの専門家にとっては、いうまでもなくその専門事項が一番重要に思れるのですから、他の犠牲にして特にその専門事項を強調し勝ちなものであります。どうもわたくしには、今からしてすでに、あまりにも強いこのような傾向が起りそうであるか、 ないしはそれがもう見られるように思われるのであります。・・・ だがこのような専門家にとってこそ、日頃あまりにもかたよった仕事をしているのですから、こんな機会に全般的研究と自己の専門領域との関係を知ることは特に価値があるわけです。と申しますのは生ある有機体におきましては、個々の部分が相互に不可分に関連しているからであり、また多くの専門研究家は殆ど効果を予期しなかったような方面から、しばしば最大の成果を得ているからです
 これはお雇い外国人医師ベルツが、帰国するにあたって
日本医学界で講演した記録からとった。単一耕作的医学研究に苦言を呈している。 

 高校教師も専門教科以外に関心を持つ者は希になった。政治や経済が得意だとしても、物理や人類学にも歴史や哲学にも関心を持たずにはおれないのでなければならない。そうでなければ「現代」も「社会」把握できないし解釈も出来ない。そもそも、我々が働きかける少年たちは「生ある有機体」であって、「個々の部分が相互に不可分に関連している」のである。
 「生ある有機体におきましては、個々の部分が相互に不可分に関連しているからであり、また多くの専門研究家は殆ど効果を予期しなかったような方面から、しばしば最大の成果を得ている」 
 かっては昼休みの木陰で専門外の論文を英語で読む教師を見かけた。古い漢文の文献に食い入る教師、絵を描く体育教師、部活の顧問としてではなく個人的にスポーツに励む数学教師・・・。今高校教師は自分の専門分野にさえ時間を割けない。
 昔はどこの学校にも出入りの書店があって、図書館の蔵書や教科書を扱う一方、教師個人の図書購入にも割引サービスを行っていたが、相次いで打ち切り始めた。教師の図書購入が減り始めたからだ。専門書や「世界」などの総合誌・教育誌を注文しなくなった。教師向けの月刊誌も相次いで廃刊するようになった。他方、手軽で軽薄なhow toものの教師向け小冊子がいくつか創刊され、やがてそれも消えた。職員室の机の上には、通達や会議資料を閉じたバインダーと部活や行事のヒント集が並ぶようになった。少年の学ぶ意欲を高める筈の教師が、学ぶ意欲を失い始めたのである。 上昇志向の強い教師の関心は、管理職試験と教職大学院に向かう。そんな風潮に乗って、自らの商品価値を高めるために手軽な単一耕作的教育分野・・・開発教育、キャリア教育、環境教育、法教育、模擬投票、シチズンシップ教育、投資教育、it教育、アクチブラーニング・・・が目まぐるしく勃興した。これら狭い分野の地位「生産性」は高く、原稿の需要もあったからだ。なぜなら、政治権力や経済界との関係は深かった。政治的傾向さえ問題視されなければ、大学に移り易い分野でもあった。しかし権力や業界に迎合する必要がある。それだけの見返りもあった。だが、教師として市民としての自由は放棄せざるを得ない。
 これは所詮教育のプランテーション化であった。メロンやサクランボ専業農家は、都市消費網に組み入れられれ当たれば、膨大な収入が見込める。しかし市場の嗜好を読み間違えれば、積み上がる商品は日を追って腐敗。現金収入が絶たれて、農家であるにも拘わらず食料を手にすることが出来ない。
 自らの専門分野をプランテーション化して、運良く大学に逃げ込むことに成功すれば、たとえば開発教育の専門家やキャリア教育専門家として食える。しかし失敗した者は、高校や小中学校の授業でで一年中それをやるわけにはゆかない。多くの授業は、教科書と指導書に依存した貧相なものとなり、生徒を飽きさせる。ますます、授業と生徒から逃避して、管理職試験に励むことになる。


 キャリア教育、模擬投票、シチズンシップ教育、投資教育、it教育、アクチブラーニング、・・・にはもう一つ大きな陥穽がある。「陳腐化」である、元々深い関心や分析によって湧いて出た分野ではない、思いつきや古い概念の言い換えにすぎない。だから陳腐化は必然、その度に、「専門」を乗り換えねばならないのだ。教育の単一耕作化、これはチャンスではない。知的貧困化の端緒なのだ。


追記 スマートフォンやカメラなどは、その機能が短期間に陳腐化するように設計されている。機能や外観を僅かに変え、あなたの使っている商品は遅れているから買い換えろと誘導する。きちんと設計すれば長持ちし、壊れても部品交換で済むものを計画的に劣化を早め、部品交換がきかないようにして買い換えを煽る。計画的陳腐化という戦略である。フランスなどでは、抗議運動がおき訴訟もあって、企業の戦略としての陳腐化が非難された。我が国では、僅かな機能追加や外観の変化に惑わされて、販売店に行列を作る始末だ。自分が飛びついた専攻分野が陳腐化しても、元が安易だから「先端でない」と言われれば、嬉々として乗り換える。素早く乗り換える自分に安心するのだ。
 

社会的共通資本としての静寂や景観

静寂は万人の基本的権利
 NHKに「駅ピアノ」という番組がある。ヨーロッパや北米の鉄道駅や空港に置かれたピアノに小型カメラを設置して、通りすがりの老若男女が気ままに演奏する様を撮ったものだ。政権の御用聞きになり下がり、広告代理店や芸能プロダクション絡みの軽薄な番組だらけになったNHKらしくない。
  僕はNHKTVのチャンネルの一つは、一日中「駅ピアノ」でいいとさえ思う。視聴料金を納めない米軍のためとしか思えない米プロスポーツ中継専門nhkチャンネルは、即時中止でいい。
「駅ピアノ」は、いろいろなことを考えさせる教養番組である。
  
 第一は欧米の駅空間の美しさと静けさである。公共空間とは何かを考えずにはいられない。終着駅のホームに近い場所に置かれたピアノの演奏を邪魔する放送がない。日本なら、「エキナカ」の派手派手しい売店に埋め尽くされるような場所にピアノが置かれているのだ。
 旅行途中の高校生、残業帰りの保母、友達の結婚式帰りの若者、通勤客、引率中の教師、仕事に向かう職人、離婚したばかりの演劇家、・・・様々な人が立ち寄り、曲を奏でる。ホームレス風のうらぶれた人がピアノに向かう姿は、背筋は伸び、指は鍵盤を踊り、顔は歌い出さんばかりで感動的であった。刑務所でピアノを覚えた元受刑者は、駅ピアノを演奏中声をかけてきた女性と結婚した。一人で即興曲を弾いていて、いつの間にか連弾になることもあった。親方を兼ねる建設労働者が、ピアノを弾いた後語った言葉が印象的。「ピアノは磁石のようなもの、人と人を結ぶのです」
 二つ目は、芸術教育の厚さが根本的に違うことだ。ヨーロッパの高等学校の中には午後の授業がないところは少なくない。校内のここかしこから小編成の弦楽合奏が、静寂に溶け込むように流れてくる。卒業までに、少なくとも二つの楽器は演奏できるようにするところもある。だからいろいろな階層の人が音楽を嗜むのだ。駅にピアノを置けば、いろいろな人が演奏する。
 三つ目は、ピアノに向かう人も行き交う人も短パンにTシャツなどの軽装。それでいて、歴史的重みを滲ませる終着駅の雰囲気に違和感なく溶け込んでいる。徹底的に私人であることが、主権者としての市民を形成している。それが「公」である。東京駅や新宿駅なら、急ぎ足のダークスーツを着た勤め人や制服姿の学生が映り込む。そこにいるのは、市民ではなく従属した「社員」や隔離された「生徒」でしかない。

 部活のブラバンがメダルやランキングを競い、喧噪の中で青春を浪費するのとは大いに異なる。日本のブラバンは放課後になれば、楽器毎に学校中の部屋を占領する。喧しいこと限りない、他者の静寂への配慮は欠けらもない。活気だと勘違いしている。学校の中のどこにいても、読書会や実験や討論・相談など望むべくもない。


 弦楽四重奏は、指揮者もなく演奏者個人は常に全体と関わり部分となりきることはない。読書したり実験する仲間の邪魔をすることもない。これが、少なければ3年、長ければ10年続けば、個人の文化的素養は決定的な差をみせるに違いない。
 
 世界で最も多くピアノが家庭に置かれているのは、日本である。ピアノの大量生産大量消費には貢献をするが、音楽文化が生活に生きることはない。ピアノは駅に置かれれる前に喧噪とともに粗大ゴミとなる。
 新宿歌舞伎町界隈は、通行しながら会話することも出来ない。店頭や有線放送から吐き出される音の暴力。それを行政は賑やかさだと嘯いている。車の爆音、下水から立ち上る悪臭、目を眩ますような調和を欠いた色彩の宣伝で、まるで全感覚を苛み尽くす地獄の光景である。我々の生活で静寂に包まれる至福のひとときがどこにあろうか。葬式でさえ、葬祭業者のマイクが煩いのだから。日本に生まれたことの不幸を強く感じる。

 静寂や景観までが排他的に私有化されるこの国で、残る社会的共通資本は何か。医療も福祉も私有化され、次の葱鴨はどこだと鵜の目鷹の目で狙いを付けている。日本なら水か、海か、種子か、遺伝子か、宇宙か、天国と地獄か。現世の宗教は既に私有化されている。貧乏人は、恐怖におののき見るも憐れなな小墓に詰め込まれ、富と身分を持った者は豪奢な墓陵を作り他を睥睨する。こんな不条理を、許すものは宗教家ではない、神でもない。
 学校の休み時間の静寂を打ち破る教師による生徒呼び出しの放送も、公共空間を私物化するものであることを知らねばならぬ。僕が現役教師であれば、教科「公共」でこのことを論じてみよう。公共空間や公共資源がいかにして、私有化・私物化されるかを。

就職する前に社畜化して、嘔吐する前に過労死する我々の尊厳もどき

やけっぱちな気分が、私には似合っていた
 「六〇年代の、あのやけっぱちな気分が、私には似合っていた。なぜ?と問うことが出会いのはじまりとなる状況、「私」という制度への疑いが、そのまま政治的体制への疑問と釣り合う時代。私は、生きることにも心急ぎ、感じることも、急がるるという日々をすごしていたのである。
 いまは、嘔吐しようと口をひらくと、笑い声がこぼれてしまう。何ともしまりのない時代になってしまったものだ
」      1981年10月 寺山修司

  嘗て高校生達が教室で廊下で迫ってきたのも、「私」という制度への疑問だった。その多くは迫りつつある「進路」を巡る自己への嫌悪であった。進路こそは最初の政治体制・経済体制との対決であり、妥協であった。しかし今学生は、「私」という制度を、体制の部分として発見することで安寧を得ようと死にものぐるいだ。就職する前に社畜化する。嘔吐する前に「喜んで」過労死するのである。

  仔牛は生まれてひと月もすると、飼い主に向かってきてぐいぐい押して来る。

 高校生にとって尊厳とはなんだろうか。かわいい制服か、大会勝利の実績か、東大合格数か。個人の尊厳なんてどこにもない。尊厳までが偏差値別に分配されて、その結果を受け入れている。勉強もスポーツも容姿や家柄もいいところは、あらかた「名門」にさらわれ、その事実を肯定している。なぜなら彼等も成績や部活に到るまで推薦の種に、少しでも他人を出し抜くことに精を出した後ろ暗さがあるからである。勝ち組になるために一生懸命だった者が、負け組になったことを自然な成り行きと見なすのはあたりまえ。アフリカから拉致された世代のドレイは黒人であることの誇りを強烈に持っていたが、三代目になるにつれて、美しさや強さも含めて全ての価値は白人にあるとの世界観を受け入れてしまったという。尊厳の意識を持ったままではとても生きてはいられない日常であったのだ。
 若者も労働者もディオゲネスや狩野亨吉のような自足は思いもよらず、日々ますます消費地獄に生き埋めされる快感に歓喜する始末。高校生がそういう意識の入り口にあるという危機感を教師は持たねばならないのに、主幹主任教諭試験如きに目がくらんでいる。

 あのころ教師は何をしていたのか。一つ確かなことは、教師達の意識も勤務校の偏差値を上げることに向かい始め、進学説明会や中学校巡りをノルマ化したこと。つまり目の前の生徒達を置き去りにし始めたのである。教師は受験生に学校の誇大宣伝を、受験生は面接で自己美化を図る。その嘘に莫大な費用と膨大な時間を浪費する。教える側も教わる側も実態がない。実態のない世界に、友情も信頼もありはしない。ただ競争だけがある。生徒・教師双方とも感情は荒廃して批判精神は疲弊する。集団が競争して「尊厳」もどきが生まれると、個人の尊厳は次第に消滅する。

  締め切り前に仕事を始めないことは、この時代にあっては英断である。明日出来ることを、今日してはならない。一旦やってしまえば、あさってのことも来月のことも来年のことも、あの世のこともやりかねないのだ。生徒は文化祭の計画を一学期に提出し、教師は一年前に日程を教委に文書で届け出なければならない。家を建てればローンが払い終わらないうちにリストラされる。長生きすれば達者なうちに、「終活」を迫られる。この国の真面目なヒトは、自分の滅亡を怒りとして表せず美化して涙する。総玉砕の思想に幻惑されやすい。僅かな退職金やしみったれた年金さえ受け取る前に過労死してゆく。

『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』は、思考に「キックを入れる」

マルクスは私たちの思考に「キックを入れる」
 歴史主義とは、「今生きているこの社会は、始まりがあった以上、いずれ終わりが来る」という考え方である。「今ある社会がこれからもずっと続く」と思っている人間よりも、社会が変動期に入ったときに慌てない確率が高い。
 歴史主義は私たちに「ここより他の場所」「今とは違う時間」「私たちのものとは違う社会」についての想像のドアを「開放」にしておくことを要請する。
 だが歴史主義には欠点もある。つい「歴史を貫く鉄の法則性」を探して、「だから来るべき社会はこのようなものである」というような遂行的予言を行い、その予言を実現させるためにあれこれ余計なことをしてしまう。 社会は変化し、それはそれなりの必然性があるのは後になるとわかるが、どういうふうに変化するのか予見することはきわめて困難である・・・という身の程をわきまえた、消えゆく「歴史主義」があれば、ずいぶんと気分のよい思想であろうと思うが、残念ながら、人類はそのようなものをこれまで所有したことがない。
 「世の中、確実なものは何もありません」という涼しい達観に手が届きそうなものだが、全然そうならない

 レヴィ=ストロースは論文を書き始める前には『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』に目を通すという。マルクスを数頁読むと、がぜん頭の回転がよろしくなり、筆が走り出す。マルクスは私たちの思考に「キックを入れる」と彼は言うのだ。

 僕が高校に入って、初めて最期まで読み通した文庫本だ。
取り壊し寸前の木造校舎に集まって、卒業生をチューターに数ヶ月かけて読み議論した。疲れると卒業生は、たばこ代わりにチョコレートを配り、僕らは破れた天井から星空を見ていた。中学までの僕には、歴史は偶然の連続でしかなかったが、その偶然の中に繋がりと発展を見出すのが歴史だと知った。思考に「キックを入れる」とはそのことだ。

   高校生は80年代頃までは、偏差値選別体制を嫌悪し高校三原則を強く支持していた。それは過去の教育政策と現在の情勢の繋がりを掴んでいたからだ。誰が三原則を潰したかを知れば、自ずと選別体制の本質は分かってくる。
 だがいつの間にか、体制への憎しみが偏差値の低い学校に対する「ヘイトスピーチ」に変わるようになった。高体連の各競技大会では偏見に満ちたヤジがとぶ。例えば「落ちこぼれ!転べ!」・・・。これは僕が、高体連スキー部東京大会で聞いた言葉だ。偏差値が接近すればするほどつまらないことで蔑みあう。
 彼等がすでに40歳台である。「自由・平等・友愛」を生きた思想の地位から、穴埋め問題用の暗記単語に引きずり落ちたのである。 考える「授業」、あるいは「考えさせない」授業はそのようにして、授業外の生活の中でで実行される。

 ある夜明け前、僕は妻に叩き起こされた。東北東の空が「浮世絵のように美しい」と。漆黒の森影を前に地平に広がる透き通った茜色の空、その上に輝く天色、吸い込まれるような紺、絶妙の階調。夕べの強風がもたらした束の間の景色。やがて太陽が昇り全てが単調な色合い飲み込まれてしまった。値千金の数分。
 五月の明るい空の眩しさと照り映える新緑に感嘆していたのが、退屈な明るさに思える。
 高校の教室、廊下、通学路・・・にはこうした値千金の一瞬が散りばめられている。明るさと暗さ、幸福と悲劇、希望と絶望、信頼と嫌悪、未完成の美しさと大胆な明晰性・・・それらの狭間に潜む束の間の青春。アランが大学に赴任することを拒んだのは、それが大学生になると色あせてくるからだった。高校教師には、地位や収入には無縁のこうした「特権」がある。しかし多くは、愚かにもそれに気付かず見逃し続けている。

 ある日体育教師が「登校中の数人が数学の定理を巡って言い合いをしていた」と、輪番制で発行する日刊職場新聞に書いた。僕はそういう教師が現れたことが嬉しかった。生徒たちは、いつも誰かがそういう話をしているのだ。それに気付くことが、教える資格である。行政は教師のこういう資質を憎み破壊している。なぜなら、互いの尊厳の発見は、双方の権利の自覚に繋がるからだ。
  ヨーロッパの教師達には様々な休暇の権利がある、経験に応じて一ヶ月、三ヶ月、半年、一年だったり、無給なら無期限の休暇を保証している国もある。僕は都高教青年部合宿で「もう賃金はいい、研究と長期休暇の権利に取り組め」と主張したことがある。対立する双方の派閥から猛攻撃をくらった。お陰で僕は、どの党派からもうろんな敵と指弾されるようになった。

日本の学校には「完璧な」自治組織擬はあるが、自治そのものはない

 日本には全員加盟制学生自治会や生徒会があり、会費は学校がまとめて徴収する。こんな手厚い保護を青少年組織に保証する国はどこにもない。ソビエトさえ任意加盟を崩せなかった。フランスの高校生は、いくつかの「全学連」の機関紙を買うことで、それぞれの支持を表明する。だからこそ、フランスの全学連各派は主張を明白にしつつ、常に共同行動をとれるのである。日本の青少年は、完璧な制度に眠り転け決意する時はない。制度を困難の最中から立ち上げ、自力で工夫運営する経験が永久になさそうだ。分割隔離されたまま、監視制御され続ける。
 従って、日本の学生が「生活賃金運動」を起こす気配はあり得ない。「生活賃金運動」を必要としているのは、構内の清掃などの労働者ばかりではない。日本の大学では、教員までが自立した生活を営めない非正規労働者化しているのだ。
 高校生が過酷で無意味な入試制度や冷酷な雇用政策を巡って、政府と対決することも考えられない。高校生が数十万のデモを組織することもあり得ない。学生自治会や生徒会という制度は完備しているが、自立した自治がないのだ。
 九条があっても米軍が駐留し空母やミサイルを持つ自衛隊がある。憲法があっても、九十九条を政府が最高裁が教師が無視する。この不可思議な現象の根底には、何があるのだろうか。

 「自由には義務が・・・」と言う学生は少なくない。自由と自由権について思考することもないのか。スト権ストという不思議な闘争形態があったのか知ることもないだろう。

 憲法教育の盲点である。
 なぜ彼らは自由を義務で裏打ちしたがるのだろうか。自由が自由権でなく、権力者達の特権であった頃の想像から抜け出せないからではないか。それは特権者がいつまでも自由の排他的独占に酔いしれているからだ。彼らは自由は好きだが、自由権が嫌いなのだ。劣った者に人権としての自由を承認したくない。
 多分、特権者や権力者に管理される二次的特権の心地よさは堪らなさを感じている。むき出しの自由は、どっちを向いても怖いから。庇護された帰属意識的感覚が、名門校の世界観にはつきまとっているという偏見が僕にはある。

 「学校は出会いね
と言い切った生徒がいる。彼女は感傷的な意味を込めてそう言ったのではない。教育してやろうとする僕らを諌めるかのように。視点をずらすことをすすめるヘーゲルのように。出会いは、互いの異質性の認識と関係であり時には危険でもあることを言ったのだ。一方的指導関係ではなく、対等な対決であることを言葉によって示すのだ。 
 小さな違いが大きな違い。ここに、ややこしい事態を打開する手掛かりがある。「出会いとは、関係であり対決でもある、一方的指導ではなく、対等であることを言葉によって示す」必要がある。
 日本の組織は予定調和を好んで、問題を直視する事を避ける。弱い側が我慢することで対立がなかったかのように、双方が振る舞う。大戦の戦争犯罪の法廷を国民の手で開けず、一億総懺悔に流れるのだ。いつまでも責任を追及すれば、非国民扱いされてしまう。同調しない者は常に敵なのだ。
 人は、誰もが異質であり対立する利害があるという事実から出発しなければならない。仲の良いことではなく、憎み合う関係の中に、成長の芽を見出し尊厳の発見に至る道が開ける。恋愛が反発の中から生まれるように。
 予定調和は、強者の極楽であり弱者少数者の地獄でしかない。しかし企業も学校も住宅地も互いに細かく隔離されて、互いの違いの中身と謂われを見つめ合うことすらないのだ。従ってその中に潜む矛盾を捉えることも、分析することも対策に知恵を出し合うこともない。偏差値による選別体制は、社会を停滞に追い込み、古い勢力を温存してしまう。社会の近代化を阻害する巨大な壁である。

教員も宗教者も集団化すれば、堕落する

 「迷悟一如」。迷いと悟りはひとつのことだ、と道元は言った。そして、迷うのも悟りの一つであり、悟るのもまた迷いの一つなのだと。だから,迷いと悟りはまったく同じものなのた、というのである。
 日本宗教界の戦争責任についての声明は、滅法遅かった。大方は50 年以上たってからのことだ。なんという迷いだ。 戦争被害者面して、50年以上も沈黙を守ったのは、もはや迷いとは言えない。悟りの境地か。これを「迷悟一如」と言いたい。
 それでも例えば、道元の曹洞宗は1992年「懺謝文」を出して 「曹洞宗が一九八〇年に出版した『曹洞宗海外開教伝道史』が、過去の過ちに対して反省を欠いたまま発刊され、しかも同書の本文中において過去の過ちを肯定したのみならず、時には美化し賛嘆して表現し、被害を受けたアジア地域の人々の痛みになんら配慮するところがなかった。かかる出版が歴史を語る形で、しかも過去の亡霊のごとき、そして近代日本の汚辱ともいうべき皇国史観を肯定するような視点で執筆し出版したことを恥と感じる」と言い切って、「悟り」の境地を見せた。
 だが、辺野古に教団は姿を見せない。宗教者個人は来ている。情勢が転じれば、たちまち「迷悟一如」だ。集団化して駄目になるのは、教員も宗教者も同じだ。パルチザンが形成されないわけだ。

 「毅然とした指導」という言葉が呪いのように、学校を駆け巡った時期がある。70年代都立高校で、服装規制が「基本的生活習慣」の確立を旗印に流行り始めた頃だ。これを主導する教員の多くが、自らを「民主的」と強く自認していた。あたかも乱世に生きる禅僧のように、悟り切り自信に満ち胸を張って職場を仕切っていた。しかしその中身は、多数決による「管理強化」にすぎなかった。 
 「外見の自由は基本的人権であり、個人に属する。特定の高校に属することを理由に一律に奪うことは出来ない、名門校や難関校だけが自由服として残れば、服装は特権になるのではないか」大学を出て間もない僕は、彼らに噛み付いた。
 直ちに反論された。「今の生徒たちの基本的生活習慣の乱れは目に余る、何らかの規制がなければ秩序が保てない。緊急避難だ」大学で共に活動した教員仲間にも同じことを言い出す者があり、中にはこともあろうに「特別権力関係論」をもち出す者まであった。とても正気の沙汰とは思えなかった。
 全国的に高校が荒れ、特に工業高校の荒廃の凄まじさが、マスコミを賑わさない日は希だった。工高に赴任してまもなく退職する若い教師も少なくなかった。「荒れ」現象の凄まじさ惑わされて、実態や本質をつかめない不安が教師の中にあった。「基本的生活習慣」という言葉が、すべてを説明し混迷する事態を解決する呪いのように思えたのだ。
 だが実態不明の「基本的生活習慣」が、なぜ服装如きで身に付くのか。何一つ自力で具体的に思考したものではなかった。
 「学校が毅然として一致して生徒に迫るためには、目に見える目安が必要、心の乱れは服装の乱れとして現れる」と支離滅裂なことだけが罷り通った。
 ではいつになれば解除するのかと僕は食い下がった。「4・5年」という。自由を奪われたまま卒業する生徒たちが続出するのではないかと切り返すと「 2・3年」と言った。
 こうして学校は、生徒の外見に気を取られ、授業の充実から逃避し始めた。教研に集まる教師の「実践レポート」から授業に関するものが目立って減り始めたのである。
 もうあれから50年弱。一体どこの学校が服装や頭髪などの規制を解除したのか。これは迷いか悟りか。ただの無知蒙昧の結果としての過ちか。生徒の生活の乱れを規制しているつもりが、いつの間にか教師の内面を権力が規制し始めても、抵抗を自粛する有様だ。そして、九条に関心を持ち行動する高校生も大学生も若い労働者も減っている。

 管理強化が生徒と学校のためになるのか、という疑問や不安はどの教師にもあったのだと思う。だから高生研の合宿や指導の手引き書が流行った。「迷い」が教師の学習を促し、「悟り」を注入した。しかし自ら悟る事は少しも出来なかった。「生活の乱れる」生徒への言葉は、冷静さを欠くものになり体罰を伴うようになったからだ。

 教員は起立・礼や前へならへに中毒している。それが無ければ不安で禁断症状も出る。そんなに「前へならへ」が好きなら、食堂や駅で勝手に大声を張り上げて一人でやればいいではないかといつも思う。「気をつけ」「起立・礼」が必要と思うなら、家庭や銭湯で、一人で毅然としてやったら良いだろう。君が代が素晴らしいと考えるなら、自宅でカラオケで原っぱで、思う存分歌え。止めないよ、だが他人に強制するな。迷いを隠すために、人は毅然を装う。

   大雪が降れば雪掻きをする。だが元気な小学生も中学生は出てこない、体力の有り余る高校生や大学生も出てこない。スコップを握るのは、足もとの覚束ない年寄りと長時間労働の疲れが溜まる中年ばかりだ。去年も一昨年もその前もそうだった。評価に結びつかぬことには見向きもしない、強制的ボランティア教育の見事な成果である。震災のようにマスコミが騒げば動く、政府が指図すれば動く、動員されれば動く。自分で判断せずに指図にだけ反応する。なるほど「迷い」はない。
 校庭やグランドで野球やサッカーをやっていた健康な連中は、雪の日に何をしているのだろうか。あちらこちらの雪掻きをして歩かないのか。大会目指してスポーツする若者が、年寄りや親に雪をかかせて、本人は炬燵でゲームに興じる。そして「健全な魂は健全な肉体に・・・」を座右の銘にする。なるほど、迷いがない。校庭や体育館では、立ち止まってお辞儀する。なるほど、悟りの境地か。絶対にデモにはゆかない、絶対迷いはない。

文人も教師も調子を合わせるべきではない

文人は調子を合わせることのできないものでもある
 しかし私はここで、文人は傲慢であるべきだ、或いは倣慢であってもよいと主張しているわけではない。
ただ、文人は調子を合わせるべきではないと言いたいだけである。そして、文人は調子を合わせることのできないものでもある。調子を合せることのできるのは、とりもち役だけだ。しかしまた、この調子を合わせないということは、決して廻避することではない。ただ是とする所を歌い、愛する所を頒え、そして非とする所、憎む所のものにかかり合わない。彼は是とする所のものを熱烈に主張するのと同じように、非とする所のものを熱烈に攻撃し、愛する所のものを熱烈に抱擁するのと同じように、憎む所のものを更に熱烈に抱擁しなければならない。あたかもヘラクレスが巨人アンタイオスを、その肋骨をへし折るために、かたく抱きしめたように。
  魯迅「二たび「文人相軽んず」を論ず」


 文人も教師も、人に指針を示すことを期待される。指針が情勢や政権を忖度していては、指針としての価値はない。文人が「調子を合わせるべきではない」なら、教師はもっとそうであり、そもそも「調子を合わせることのできないものでもある」と言うべきである。なぜなら文人が大人を相手にするのに対して、教師は少年を教え導く事で食っているからだ。指導要領が変わるたびに、調子を合わせ注釈書を読まずにいられないのは、少年たちを導くための自前の羅針盤がないと言うことだ。

 そんな者は、ただの伝声管になればいい。伝声管には自分の主張も意見も要らない、ただ言われたとおりに伝えればいい。ある校長は、「私は行政の末端です」と胸を張った。僕は聞き間違えかと思った。「私は行政の末端です」といい、打ち萎れるなら筋が通る。続けて「上から、授業を禁じられている」と言ったのには文字通り開いた口が閉まらなかった。それ以前にも似た事を言う管理職はいたが、恥ずかしげに言ったものだ。彼は堂々と胸を張ったのである。
 

 かつて裁判官は、裁判所長をボーイ長と呼び蔑んでいた。裁判に専念できず雑務に翻弄される立場は、まさにホテルや船のボーイ長。政権に忖度して所長になる裁判官を誰が尊敬するか。裁判官は法の番人であって、政権の「とりもち役」ではない。
 
 若い時には、授業や生徒との関わりに夢を描いていた教師も、夢破れて授業は行き詰まり生徒や保護者との関係も閉塞する。事務に逃げ込み校長と呼ばれるのは、彼には救いなのかも知れない。

 とりもち役になることが自慢すべき事に当たるという神経は、「中央との太いパイプ役」と自分を売り込む地方議員にはもともとあった。しかし恥ずかしい生き方である。学校では校長が退職するたびに、○○先生を囲む会が作られる。これは、教委など業界への「とりもち役」を退職校長に期待しているからである。親戚や同窓生には顔が立ち、時期が来れば勲章が待っているのだ。

 少年たちの成長のために「是とする所のものを熱烈に主張するのと同じように、非とする所のものを熱烈に攻撃」しなければ、生きた教師ではない、なんのとりえもない物質=伝声管に過ぎない。「立ってください」「口を開けなさい」「これは職務命令です」と言うのを誇らしく感じる人間がいるのだと言うことを知って情けなくなった。伝声管に過ぎないのに、その声の主の代理人になった気の幼稚な夢想家である。江戸時代にも、将軍や藩主の書き付けに頭を下げさせ「上意」と叫ぶ者があった。それを真似て得意になれる神経を嗤う。

古在由重「わたしの先生たち」

党派を裏切るか友だちを裏切るか、二つに一つ
 十数年の戦争がおわって、一年後か二年後のことだった。ある日、駿河台の明治大学の講堂で講演会が開かれ、わたしも講師のひとりだった。おそらくその主題はながい暗黒時代のこと、そして希望にみちた今後のあたらしい展望ということだったようにおぼえている。聴衆はいっぱいだった。最後の請演者として、わたしは話をおわって、講堂を出ようとした。その瞬間、ドアの所にたちどまっているひとりの老紳士と顔をあわせた。60歳ぐらいの、スマートな服装の人である。
 「わしがわかるか」という声に、すぐ「中村先生じゃないですか」とこたえた。「そうじゃよ」という返事。「ああ、やっぱりそうですね。奥さんもお丈夫ですか」。「妻(さい)も元気じゃ」という言葉が返ってきた。ほんのしばらくの立ち話によって、三十年あまり昔の小学校時代のこの先生も、いまは教師をやめて千葉県の市川で歯医者をしているとのことだった。その途端に、おたしは主催者の側から急に別室に呼び出されて、「それでは、いずれゆっくり」といったままわかれてしまった。まったくうっかりというほかないが、正確に住所すらたずねるのも忘れて。ただ、「君も苦労したのう」という身にしむねぎらいの言葉が耳に残っている。おもえば、これが最後の再会となった。
 村の小学校の・・・六年生のわたし(わたしたち)がその魅力に全身ひきつけられたこと、当時はまだめずらしかった女教師のひとりとの恋愛によって双方が首を切られ、これに抗議したわたしたち六年生が三日間ほどの授業放棄をしたことだけをつけくわえておく。「妻(さい)」というのはそのときの女の先生である。この中村常蔵先生は、なみなみならぬ硬骨漢だった。わたしとしては、「人生は努力じゃ」ということを先生の実生活と教室での話から胸にたたきこまれた。あの暗黒の時代のわたしのことについても、気にかけて承知しておられた様子だったのに。

 幾何学の秋山武太郎先生。京北中学の三年生になったとき、この先生によってわたしは幾何学と数学一般に異常な興味をおぼえ、日曜日などにはたびたび先生の家をたずねた。いまおもえば、旧制中学の三、四年生のときに、すでにかなり高級なことを教室で教えられ、ときにはカジョーリの英語の数学史のページをめって、少年パスカルが円錐曲線についての定理を発見したときの、父のおどろきの光景を読みあげた。「ザ・ファーザー・ウォズ・サープライズド」という先生の音声などはいまでも耳にのこっている。そのほかフォイエルバハの九点円の定理、円に外接する六角形の対角線が一点に会するというブリアンションの定理なども、記憶にあざやかである。 
  「民主主義教育」1980年冬号

 人が学校の思い出に式や行事の涙を書くのが、僕には不快である。特に教師や文化人がそう書くのをみると身の毛がよだつ。

 古在由重は、小学校の中村先生の硬骨漢ぶりと旧制中学の秋山先生の授業を書いている。印象深かっただけではなく、哲学者古在由重の生き方に強い影響をもたらしている。
 僕は行事と式が、小学校入学から嫌いだった。準備は手伝っても当日はサボった。日常が浮き上がった雰囲気が軽薄に感じられたのだ。だから中学校以後、自分の卒業式に出た事はない。結婚式もやらなかった。賞の授与式にも行かなかった。式という式はできる限り回避した。その分自分の日常を楽しみたかった。
 式や行事が感動的であればあるほど個人の尊厳が、集団に埋め込まれるような不快感が漂うのだ。仮令小さくとも独立した全体である個人が、大きく感動的な行事や式の部分となることに僕は組みしたくない。どんなに運営が「民主的」であっても、歯車となって筋書き通りに動く自分自身を体験したくはない。

 中村先生の硬骨漢ぶりと秋山先生の鮮やかな授業は、古在由重少年の日常と人格に影響して、彼の尊厳を揺籃している。日常とは、ここでは時代の空気に忖度せず節を曲げない生き方であり、興味溢れる学びの時空である。たとえそれが後の暗い時代の過酷な運命に繋がっていたとしても。
 だから中村先生は、暗い時代の古在由重を思い「君も苦労したのう」と身にしむねぎらいの声をかけることが出来たのだ。「君も」には、中村先生の「苦労」が下敷きになって万感の思いが込められている。誰もが言え、誰もの身にしむ台詞ではない。

 中村先生の授業のどこにも「アクチブ」な装いはない。国家や民族の軛を越えた定理の美しさを淡々と教えて、中身が濃く充実している。こうして感動は、一人の独立した教師とと、自立した若者の間に形成され、時に応じて思い出されるのである。

 世界大恐慌の1929年、古在由重は東大総長の次男であり政治的に無色なことを買われて「思想善導」の教官として東京女子大で「倫理学」を教える事になる。
 この頃、優秀な青年たちが大学でマルクス主義を知り実践に飛び込んでいた。文部省は、対策として旧制高校や大学に「思想善導」の教官と講義を置いた。哲学倫理を正しく教育すれば、学生がアカになるのを防げると権力は考えた。
 皮肉な事に、古在由重は吉田先生譲りの頑固で善良な教育者であったが故に、講義を受けたモップル(国際赤色救援会)の女学生のオルグに共感し、「理論と実践の統一」へと人生の決断をする。ここには、定理や理論の美しさを少年古在由重にたたき込んだ秋山先生の薫陶も見える。
 世間は、東大総長の息子がアカになったと色めき立った。新聞沙汰の大事件となり、1933年に逮捕されている。
 これが、「君も苦労したのう」の一言に込められているのである。
 感動的な行事と式は、所詮人工の産物である。そこに時代に抗して闘う個人の出会いが作る、深みは生まれない。

 学校から行事とその膨大な準備を追放するだけで、学校の抱える諸問題は大方軽くなる。部活を軽く柔らく短くすれば、少年たちは社会に興味を持ち始めるに違いない。

追記 モップル(国際赤色救援会)は、このとき資本主義諸国の個人会員129万人、団体会員202万人。ソ連支部の会員823万人。会員の42%は非党員であったと言われている。現在の日本国民救援会。この組織以前の日本には、解放運動犠牲者救援会があった。

増え続ける「多数派・派」がヘイトスピーチや自発的従属を生む

鶴橋大虐殺を叫ぶ女子中学生の動画から
 エドゥアルド・ウヘス・ガレアーノ(1940~2015)はその代表作『収奪された大地 -ラテンアメリカ五百年』(1971年刊)で、ラテンアメリカの富がいかに奪われたかを、丁寧に余さず描いて「われわれラテンアメリカ人が貧しいのは、われわれの踏んでいる大地が豊かだからだ」と証明した。ガレアーノは14歳の時、自らの評論をウルグアイ社会党に売り込んでいる。1973年には、軍部クーデターにより逮捕投獄されアルゼンチンに亡命。アルゼンチンでもクーデターが勃発、死を宣告されスペインへ再亡命した。1985年帰国。

 スペイン人たちのインディアスに於ける虐殺があまりにも凄絶なので、金・銀強奪が目当てなのだということが霞む程だ。植民地における富の略奪の内実を、ガレアーノは無数の例を引いて語る。
 驚くべきは、インディアスからスペイン人が奪った金・銀はスペイン王国を潤すことはなかったという報告。当時のスペインはバブルに浮かれていたが、実際は莫大な負債がヨーロッパ各国にあり、インディアス強奪した金・銀はその返済にまわったのだ。その「三分の一近くはオランダ人とフランドル人の手にあり、四分の一はフランス人が握り、ジェノヴァ人が20%、イギリス人が10%、ドイツ人が10%弱を牛耳っていた」 

  イエズス会とスペイン軍は、祖国にさえ恩恵をもたらしていない。負債を返却するために大量虐殺と窃盗に励んだのだ。金銀の工芸品も跡形を残さず、全て鋳つぶして負債の支払いに充てたのである。
 インディオ虐殺も桁が外れている。インディオのせいでスペイン人一人が死ねば、それは大抵正当防衛であったが、インディオ100名を殺害するとの掟をもうけ、その決まりに従って秩序正しく殺戮を実行した。100万を越える人口が数百人に激減したり絶滅したりは、日常茶飯事の正義となった。インディオの神殿を打ち壊した石材はイエズス会の教会に使われ、インディアスは人命も、労働も、文化も、つまり歴史の全てを抹殺されたのである。そんな修道士や兵士が聖人や英雄と呼ばれ、勲章と爵位の山を築いた。修道士たちの中には、ラス・カサスのように「インディアスの破壊についての簡潔な報告」を教皇宛てに書き告発した者もあったが、教皇は報告を棚晒しにしてしまう。
  
 「上司から会社のためにはなるが、自分の良心に反する手段で仕事を進めるように指示されました。このときあなたはどのように行動しますか」

 これは日本生産性本部が、毎年新入社員に実施する調査の一項目である。 

                            2018   2017 2016        男    女
1.指示の通り行動する  36.8   39.2 45.2    40.1 29.5
2.指示に従わない    14.4   13.1 10.6    14.5 14.2
3.わからない     48.8   47.7  44.2   45.4 56.3

 2016年度が「自分の良心に反」していても指示の通り行動する新入社員のピークであった。日本の集団では「わからない」は、多数に流されるということだから9割が、「従う」のである。そうでなければ、昇降口で洗髪させるなどと言う常軌を逸した頭髪指導が罷り通る訳がない。非正規労働者に対する冷酷さが放置され続ける訳がない。ヘイトスビーチを繰り返す議員が当選する筈はない、沖縄米軍基地を擁護する政権の無理無体が通る筈がない。
 反対する者を罵り押し黙らせるのは、判断保留の多さなのだ。自身の選択は放棄して、常に多数に付こうとする「わからない」の連中を、僕は「多数派・派」と呼ぶ。戦争に敗北した途端、民主主義者に変身して少年たちの怒りと軽蔑の対象になったのは、この「多数派・派」なのだ。状況が厳しくなると、急激に増える。
 良心に反しても「指示の通り行動する」割合が減少し「指示に従わない」が増えているとしても、「わからない」の多数派・派は増え続けて、自発的従属へとなだれ込む。報道や学者も労組活動家や学生まで卑屈にするは、この
自発的従属である。
 ラス・カサスの時代と異なって現代は宗教による支配からも、軍隊による強制からも自由な筈だが、このざまだ。

鈴木 2013年夏、・・・日本外国特派員協会に呼ばれたんですよ。日本の排外主義のデモについて話しました。外国人の記者がいっぱい来ていたんですが、その中でびっくりしたのが、あるアメリカ人記者の質問です。
 「3・11以降、世界中が日本に同情し、尊敬していた。ところが、今年二月、大阪・鶴橋で行なわれたヘイトスピーチの集まりでの女子中学生の発言が、世界中の日本に対する見方を変えた」と言うんです。「それ以来、日本に批判的になった」と。
 そのときまで僕はその中学生の発言を知らなかったんです。特派員協会での会見のあと映像を見ました。
坂本 僕も見ました。ひどいものですね。

鈴木 女子中学生が拡声器で
   「鶴橋にいる在日の人たちが憎いです。みんな殺したいです。南京大虐殺があったんだから、鶴橋大虐殺をやります。それが嫌だったら、日本から出てってください」ということを言ぅ。普通だったら、誰かが止めるじゃないですか。それを止めないで、周りにいる人たちは「やれやれ」みたいな感じで。僕たちが「日本ではこれは例外的だ」と思っても、世界に流れたら、事実なんです。
    

坂本 龍一/鈴木 邦男対談  『愛国者の憂鬱』金曜日(2014)

  「止めないで、周りにいる人たちは「やれやれ」みたいな感じ」それが、多数派・派の機能である。ラス・カサスやイエズス会修道士たちも、軍隊の狼藉は止めないで「やれやれ」と傍観していた。そればかりではない、軍隊と植民者たちが入り込み支配しやすいように、事前の宣撫工作に励むのが彼らの任務だった。

 だから、僕は生徒会活動や学級活動が「多数決」形成に流れ、政治教育が模擬投票ごっこに溺れるを正視出来ない。教師が
「多数派・派」に逃げ込めば、少年が明晰な決意や行動をする「恐れ」は小さくなる。それが政権の狙いでもある。
  エドゥアルド・ウヘス・ガレアーノもホセ・ムヒカも
「多数派・派」から最も遠い位置にいた。

追記 女子中学生がヘイトスピーチする動画は、youtubeにもある。警官隊が彼女を守っているのも印象的だ。
 

「第一線の研究者」とは何か / 批評は誰が誰にすべきか

斎藤喜博は校長になっても教室に押しかけ授業した
生徒の批評は辛らつであったが、それが喜博の楽しみだった
 「法隆寺には鬼がいる」と言われたことがある。宮大工の西岡常一である。法輪寺三重塔に鉄骨補強をしろという学者にかみついて「そんなことしたら、ヒノキが泣きよります」 (「斑鳩の匠 宮大工三代」 平凡社) と反論したのである。もちろん今、三重の塔にも五重の塔にも鉄筋は施されていない。それが我々の誇りになっている。
  「学者は様式論です。・・・あんたら理屈言うてなはれ。仕事はわしや。・・・学者は学者同士喧嘩させとけ。こっちはこっちの思うようにする・・・結局は大工の造った後の者を系統的に並べて学問としてるだけのことで、大工の弟子以下ということです」(「木のこころ・仏のこころ」春秋社)
 自分で鋸や鉋を握って建物を作ったこともない者が、千年の経験を蓄積した棟梁を差し置いてものを言うのに西岡常一は我慢がならなかった。
 青少年を相手にろくな授業をしたことのない学者や、生徒と教室から逃走した者が「研究者」顔して、「大工の弟子以下」の講評をたれるのを「現場の教師」たちはどうして有り難く拝聴するのか。何故、「現場」の鬼になって噛み付かないのか。

  「・・・○×科教育学会に行ってきました。一線の研究者に自分の授業を批判してもらえるのは、よい機会でした・・・」若い教師からの便りにあった。仮に彼をT君と呼ぼう。
  T君によれば、小中高教員言うところの「一線の研究者」すなわち大学教員は、学校で教える教師を「現場の教師」と言うらしい。自分たち大学研究者を「一線」と自認しておいて、それとは異なる「現場」で教える教師があると言うわけだ。
 第一線とは、つまりfrontである。では一体何に対して前線なのか。全ての教育関係者にとって、frontは日常の教室でなければならない。それは国民の教育権の主体が、先ず何を置いても生徒自身であることから自明のことだ。だとしたら、「現場」から離れた研究者こそその論考を、「現場」教師から批評されねばならぬ。しかしそうなら、研究室はなぜ問題が長年にわたって多発する学校にないのだ。なるほど教員養成系の大学は、多くの付属校を擁している。しかしどこに偏差値の底辺に位置する付属校を抱える大学があるか。

 そんなことを試みたのは、林竹二だけだ。だが個人であって、組織ではないから持続性はない。○×△☆科教育学会が、独自に困難高の中に、研究室を置こうとした気配すらない。一線とは、問題を抱えた学校から「遠く離れている」とういことに過ぎないのか。有能な一線の研究者が、自ら望んで底辺高に赴任して戻らないという話もない。それどころか、論文や研究発表好きの「現場」教師たちは、ことあるごとに問題を抱えた学校から離れて「栄転」するのだ。まるで逆転防止装置付きのネジ回しのようだ。
 もし本当の「一線の研究者」が実在するならば、自分の研究に対する「現場教師」に批評を乞い、困難と烙印される現象のただ中に身を置くに違いない。かつて島小の校長斎藤喜博は授業中の教室に入り、求めて「僕ならこうやる」と授業をやって見せたという。生徒たちが「校長先生の方がわかりにくい」と言うことも屡々だったという。それを楽しんでこそ「第一線の研究者」である

 問題を抱えた底辺から「遠く離れ」てネクタイを締め革の鞄を抱えるのが「一線の研究者」ならば、問題に翻弄されて過労気味の「現場教師」は、土人と言うことになる。そんな現場教師は、論文を書く暇も、学会に出る暇もない。日々消耗するのだが、磨きをかければ玉のような輝きに満ちた体験、第一線の研究者が思いもよらないような体験を内に秘めている。秘めていて本人は気付きもしない。そこに「第一線」の研究者は、足繁く通い詰めなければならないのに、そっぽを向いて去って行く。

 選別体制の極まった日本の教育を総体的に捉えるためには、付属学校や教委の指導重点校など粒のきれいにそろった集団を相手にして埒があくわけがない。
 生活にも学力にも問題を抱えた多様な生徒が内部矛盾を引き起こし、それを自ら克服する過程にこそ「アクチブ」な教育のヒントがある。

 もし第一線が「学会」での論文数や発表実績による地位や評価を意味するとすれば、例えば医学のfrontは病床や手術室にはないことになる。なるほど「白い巨頭」で描かれた教授回診が横行すれば、frontは教授会ボスにある。しかし現実の病床や手術室、そこには絶えず生死をかけた問いが渦巻き、定石や権威が通用しない、何が起きるか予測がつかない、緊張がある。町医者がそこに目を向けないで、「一線」の権威の批評を有り難がるとしたら患者は去る。権威の後ろに付いて歩く医者に信頼は置けない。                           
 教員が第一線の研究者の言葉を有難く拝聴するとしたら、それは教師が「第一線の研究者」の後ろに並んでいると言うことだ。研究者の前や横や後ろには、文科省や教委の肝煎りがいるかも知れない。

 教室が怖くて校長室に逃げ込んだ管理職も、定年退職して大学に迎えられれば「現場での経験を買われてその地位に就いた」と紹介されるから厄介である。しかしここでは「現場」と言う言葉は、授業も生徒も怖かった素性を糊塗する隠れ蓑として機能するのである。二重に「現場」を愚弄している。

  T先生、「一線」の研究者に君の教室で授業をさせ、批評してやるといい。何人が手を上げるだろうか。うち何人がT先生の勤務校を聴いても手を上げたままだろうか。返事は聴かずとも分かる。先ずこう言うのだ。「イヤー先生たちの苦労には平素敬意を抱いております」と持ち上げておいて、そして「とても私のような非力な人間に出来る仕事ではありません」と逃げるのである。


 この問題にどうしても欠かせない厄介がある。それは、「教科教育法」という分野の人気のなさである。大学生で「教科教育法」に積極的に興味を持ち大学院で専攻しようとするものがあるだろうか。実に面白さに欠ける、特に社会科教育法には魅力がない。その分野に多くの現職教員や研究者が集まるのは、積極的な探求の対象として「社会科教育法」が注目を集めるのではなく、学校という現場からの逃避の手段になっているからではないか。そうでなければ、この分野の「学会」員たちの、自発的従属性を説明できない。
 
追記
 僕の父は酒癖が悪かったが、戦後の大規模橋梁や鉄道建設の構造計算と設計には大方携わった。始まりは洞海湾をまたぐ若戸大橋だった。新幹線トンネル、駅舎、橋梁の構造計算をするとき、手回し計算機が何十台も事務所でうるさかった。トラス構造各部分にかかる力を計算するのは特に厄介で、数学の得意だった父は数値を求める近似式を作り促されて特許を取った。数学に特許があると聞いてびっくりしたものだ。この種の設計では盛んに使われ、作業を大幅に簡略化した。が、父は特許使用料を取ったことがない、取るのを潔しとしなかった。小学生だった僕は、なんて勿体ないと思ったものだ。そのせいか、父を破格の給与で雇うという巨大コンサルタントが現れ、父の事務所は大荒れに荒れた。父と数人の友人で立ち上げた事務所だ。仕事の殆どは父に来ていた。父が抜ければ事務所は潰れ、数十人が路頭に迷うかもしれない。それから数週間、毎晩事務所の社員が入れ替わり立ち替わりやってきて夜遅くまで、父に嘆願を繰り返した。お陰でうちの所得は上がらなかった。別荘・運転手付きの生活の夢は瞬く間に消えた。僕が中学生になると、父に博士号を取れと勧める人たちが現れた。その頃、父は土木学会の理事も務めて、大きな土木プロジェクトには大抵拘わって論文もたくさん書いていた。父は、それも固辞し続けた。終いには土木学会の重鎮も登場して、論文は今まで発表したものでいい。外国語による抄訳もこちらで準備すると申し出た。それでも父は首を縦に振らなかった。最期のプロジェクトは瀬戸大橋だった。
 何故酒癖の悪い父は、旨い話を断ったのか長く疑問だった。だが、西岡常一の一件でようやく納得出来るようになった。父が巨大プロジェクトで接するのは、父を除けば国鉄や公団の課長たちだった。彼らの肩書きは立派だったが、仕事は父に投げられた。それが国鉄や公団の仕事となって、父の事務所に下請けに出された。実力を伴わない肩書きに怒りを持っていたのだ。父の特許を指定して、父に仕事を頼む会社もあったが、それが目の前のうらぶれた父であることを知るものはなかった。
 西岡常一の生活は貧しかった。宮大工は神社仏閣以外の仕事はしないというしきたりに忠実な頑固者だったからだ。父も頑固だった。鹿児島に帰るたび、叔父や叔母がその頑固さで僕たち家族がいかに窮したかを話してくれたものだ。米を買えないどころか、税務署の差し押さえは二度もあった。電球にまで札が貼られたのを覚えている。夜逃げという言葉を4歳にならぬうちに知った。 頑固者は酒に溺れ貧乏を家族に強いるが、外から見れば世の中を痛快に見せる効用があるのかも知れない。   

無政府主義は無秩序ではない。権力によらない秩序、すなわち自治である。何故、残留孤児は拾われたのか。

尊厳は自と他の間に生まれる。
 黒沢明の「羅生門」の終わりに、赤ん坊が登場する。鳴き声を聞きつけた下人が抱きかかえてくるが、
 「どっちみちこの着物は誰かが剥いでいくにきまっている。俺がもっていくのが、何が悪い。俺が鬼なら、こいつの親はなんだ。てめぇ勝手が何が悪い。人間が犬を羨ましがる世の中だ。てめぇ勝手じゃなきゃ、生きていけねぇ世の中だ」と言い捨てて、赤ん坊を包んでいた物を剥いで消え去る。
 雨の羅生門に、途方に暮れる僧侶と木こりと産着の赤ん坊が残る。しばらくして木こりが赤ん坊を抱き、
 「うちには6人子がある。6人も7人も苦労は同じじゃ」と目を細めて言う。それを聴いて僧侶は
 「ありがたいことだ。お主のおかげで、私は、人を信じていくことができそうだ」と手を合わせる。雨が上がり、木こりは宝を抱えるようにして家路につく。

 僕は、中国に残された孤児たちを引き取った中国人たちを考えるとき、志村喬が演じた子だくさんの
貧しい木こりを想う。下人のように身ぐるみ剥ぎ、扱き使った者もあったかも知れないとしても。
 方正県の松花江沿いの村に泊まったことがある。そこでも、孤児を巡る話は聞こえてきた。

 女と子どもだけで逃げ惑ったことに、悲劇の最大の要素がある。残留子女たちが共通して言うのは、「軍隊は国民を守らない」である。関東軍当局は、保護すべき満州開拓民を徴兵、ソ連に対する防壁として国境に動員して、自分たちはいち早く逃げ去ってしまった。悲劇は、戦争に伴う自然現象ではない。日本軍の作為の結果なのだ。

 実に様々の動機が、孤児を貰う側にも、預ける側にも、捨てる者にもあった。
 無一物の捨て子に木こりや満州の中国人が見たのは、人間の「尊厳」そのものだった。財産も家柄もない、放置すれば確実に死が襲いかかる。判断を促すのは、尊厳だけだ。

 中国革命には、無政府主義の影が濃い。毛沢東にそれがあると言うばかりではない。幾たびもの長い革命を経る度に、人々は権力によらない秩序を作り上げてきたのだ。無政府主義は無秩序ではない。自治である。
 江戸では孤児が出ると、長屋の大家が知恵を絞った。しかしこれは自治ではない。幕府の命令・指示が町年寄を通して降りてきたものである。指示を待ち伺いを立てる性癖からは、尊厳は導き出せない。

 西安を東西に貫く大通りの夏の昼下がり、年寄りたちが
突然座り込んだのに出くわしたことがある。30年も昔だ。瞬く間に交通は渋滞し、警察もやってくる。しかし、年寄りたちは動じる様子もない、小さな椅子を持ってその数は増える一方だ。僕は路線バスの真ん前でこれを見ていた。どうなるのかどうするのか、興味が湧いて暫くは高見の見物と決め込んだ。10分もしただろうか、頬杖をついて座り込みを眺めていたバス運転手が、意を決したように大型バスを歩道に乗り上げ、裏道に出て現場を大きく迂回した。驚いた。日本の路線バスは、停留所を僅かに移動させるにも数ヶ月前に申請して当局の許認可を得なければならないからだ。中国で路線バスが、迂回する場面にはよく出くわす。
 数時間後用を終えて、同じ現場を歩きながら通りかかると、座り込みは依然として続いていた。警察は話を聞いてはいるが、年寄りを排除はしなかった。TVカメラもやってきていた。夕方の番組と翌朝の新聞によれば、再開発に対する異議申し立てであった。市民も鉄道のストライキに出くわした日本人のように、「迷惑だ」などとは言わない。この点では、中国の方がヨーロッパに近い。


 この一件でこの国に対する僕の印象は大きく変わった。八路軍が階級を廃止した歴史的決断も、すんなりと理解できるようになった。「農民の物は針一本取ってはならない」と言う徹底した倫理性は、人間そのものへの尊厳の観念と一体である。

 
 中国のホテルも鉄道も食堂も、実に幅広く素早い臨機応変の対応をする。上の判断をいちいち仰ぐことがない、現場・個人の判断が明確で速い。夜行列車で暗いうちにホテルに着いても、部屋の様子を確かめるとすぐに入れてくれる。すぐに風呂を浴び一眠りして、街に出て朝飯を食べて近所を一巡りしてきても、午前中だ。始め僕はてっきり午前中の使用分は一泊として請求されるとていたが、「不要」と笑顔で言う。これはどの街に行っても、最近になっても変わらない。日本の宿は、何があろうと3時にならないと入れない。時間前に着いた客がロビーに溢れてもだ。

 人間そのものに尊厳を認めない。決まりが絶対であって、決定権は人間にないのだ。僕らのこの社会は、家柄や財産に、学歴に、組織に尊厳を見出す。だから茶髪を禁じるなどと言う理不尽が通るのだ。教科書をつくる権利や職員会議で採決する権利を奪われた我々は、生徒が服装や頭髪を決定する権利を奪い「憂さ」を晴らしているかのようだ。

   中国社会の深くに、自治を促す無政府性の秩序がある。違いを前提とした日常的揉めごとが多発してこそ、公=publicの概念は成立する。それなくして巨大な国土と人口を維持出来ないだろう。残留日本人孤児の引き取りも、その中では、自然な流れだった。何しろ多民族国家でもある。
 羅生門の木こりが生き生きとしているのは、赤ん坊と自身の尊厳を守る決定権を手放さないからである。尊厳は自と他の間に生まれる。

 
追記 1957年、積極的に日中国交正常化をはかる石橋湛山首相が僅か65日で退く。替わって日米安保成立を目指す岸信介が就任。日本の対中政策は一転。台湾国民政府の大陸回復支持を表明、日中関係は悪化する。1958年に集団引揚は打ち切られる。翌1959年、日本は戦時死亡宣告制度を導入。たとえ中国で生存している可能性が高い者であっても、在日親族の同意さえ得られれば、戸籍から抹消しても構わないことになった。悲劇が政府によって加速するのがこの国だ。
 

シモーヌ・ヴェーユもソクラテスもいた教室

 一年前、このブログに「私がビリでもいいでしょう」を書いた。部分を再録する。

 「二年生「現代社会」の自習課題に「欲しいものを一つ書きなさい」と出した。
 悦ちゃんのこたえ

     「トビキリ美人のお姉ちゃんが欲しい。私にはお兄ちゃんがいるけど、威張って命令ばかりしている。だからお兄ちゃんはいらない。お下がりをくれたりする優しいお姉ちゃんが欲しい。でも私には弟がいる、よく考えれば弟から見れば私はお姉ちゃんだ。トビキリ美人というのは無理だけど、それ以外で優等お姉ちゃんになれるように頑張ろう」

 悦ちゃんは成績会議の常連だった。
 「誰かがビリにならなきゃいけないんだったら、私がビリになってもいいでしょう」と微笑むさまは爽やかだった。頑張るという言葉が、彼女の前ではあっさりズレた響きを持つのだ。クラスの誰もが、彼女を悦ちゃんと呼んでしまうのも不思議だった。
 このこたえを、すべてのクラスで読んで一時間話した。・・・

 僕は美人とは彼女のことだと思う。素樸で何一つ付け加える必要がないが、妙な癖があった。緊張するとしゃっくりが始まるのだ


  シモーヌ・ヴェイユを再読して、僕は悦ちゃんを思い出した。 シモーヌ・ヴェイユについては、「不満が改革や革命ではなく「破局」に行きつくのはなぜか・2 」←クリックに書いた。

  直接の要点だけを抜き書きする。
 
シモーヌ・ヴェイユは「物質的条件だけでは、仕事の単調さ、非人間性、不幸を打ち破ることはできないと結論付けた。そうしてたどり着いたのは、単調さに耐える一つの力としての「美」。生活の中の光としての美または詩である。シモーヌ・ヴェイユはその根源を神に求めた」     

 夏目漱石は、シモーヌ・ヴェイユのように「神」を通してではないが、同じことを「草枕」の冒頭で言っていた。
・・・智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
 住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。
 人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。
 越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊とい

 我々はこれを理解しているとは言いがたいが、なんとなく口ずさむことが出来る。

  シモーヌ・ヴェイユも夏目漱石も、生きにくさに耐える手掛かりを、「美 」に求めている。

 悦ちゃんは、逃れられぬ日常に「美」を見出している。彼女はシモーヌ・ヴェイユが、高等師範で得た教授資格を放棄して工場に女工として飛び込み、思索を重ねてようやく辿り着いた結論にいとも簡単に立っていたのだ。
 あの時悦ちゃんは、高二だった。高校二年生は、少年が青年になる。知的に飛躍を遂げる一瞬を内包した、かけがえのない時期だ。

 まだ30代だった僕は、悦ちゃんの決意を美しいとは思った。だがその深い思想性までは至らなかった。
 「誰かがビリにならなきゃいけないんだったら、私がビリになってもいいでしょう」と屈託なく微笑むさまを、今もありありと思い浮かべることが出来る。観音菩薩が笑えば、こんな風だろうと思える穏やかな雰囲気があった。

 僕らは高校生に教えることに意識をとられ、彼らから学ぶ力を捨てている。一体何人の
シモーヌ・ヴェイユやソクラテスを捉え損なったのだろうか。悔やみきれない。

追記 シモーヌ・ヴェイユが女工となったのは、職業選択の自由の行使の結果だろうか。彼女は職業選択の自由を放棄して、自由を得たのではないだろうか。

IT革命賛美と市場原理一辺倒の新教科「公共」指導要領を嗤う

「市場理論で人間関係は解けない」
 自由主義経済理論の開祖・ハイエクに求められ今西錦司が対談したことがある。この対談でハイエクは、今西錦司に全く歯が立たなかったのだが、対談そのものは長い記録となって残っている(自然・人類・文明NHKブックス)それを受けて中沢新一と山極寿一が『現代思想』2018年9月号で議論している。テーマは「生きられた世界を復元できるか」。
 
 新教科「公共」指導要領を批判するのに、教育や社会科学以外の論客を引用するのは、所詮教養というものは、「事柄をずらす」ところからしか始まらないからである。教育も経済も、競争と効率から抜け出そうとしない。

中沢新一 ・・・現在のわれわれの世界は、ITとマーケットでもって決定されています。政治家の決定などは、二次的・三次的な茶番みたいなものです。実際はマーケット上での覇権をどう調整していくかということをもとに動いていて、政治家の言語はその上で一種の茶番のようにして展開しています。そしてその根幹にあるマーケット原理でこの地球をすべて運営していこうとしているのです。それを円滑に動かそうとしているのがAIという技術です。そういう地球に対して、ハイエク的な市場世界に対して、今西さんはノーと言っているわけです。
山極寿一 よくわかります。今西さんの考えの根幹になるのは、実体あるものはすべて界面を持っている、つまり個体性を持っている、ということです。そして、界面のないものは言語がつくり出した幻想だと。そうなると、コミュニティもマーケットもすべて幻想です。
かたや、生物にしろ石にしろ、実体のあるものはすべて界面を介して関係性が生じる。人間あるいは生物の社会も、そういう個体性を介して成り立っているわけであって、それを計算できるわけがないということになりますね。それはおそらくレンマとも通じると思います。
 ハイエク的経済の思想は、個の決定権が外から見える、あるいは操作できるというものです。マーケットとはそういう話ですよね。
だからこそAIが登場できるわけです。AIは自律的なものではなく、外から操作可能なものですから。人間個体あるいは生物個体それぞれの、ある政治的な決定の瞬間を見れば、票として数えることができる。あるいは、ゼロサムとして、分布として、考えることができる。そういうふうに落とし込んでいかないと、計算できないからです。あるいは、分布を政治空間のなかに固定してしまって、それが別の空間にどう移り変わっていくかという微分積分の話をしてもよいのですが、とにかくそういうふうに数式化しないと、経済として予測ができない。
 しかし、個がゼロサムでもなければ独立しているものでもなく、なおかつ価値を中心に捉えることもできないものだとすればどうでしょう。今の幸福論によれば、お金を持っているから幸せというわけではなく、あるいは物質的なものたちに囲まれているから裕福と感じるわけではなく、人間自身がどういう条件が幸福であると考えるかはそれぞれで違っています。いわば、いろいろなコミュニケーションを経て人間が決定した結果は揺れ動いているのです。ですから、マーケット理論では人間関係は解けないのです。AIでも解けない。そこに思いを馳せないと、人間の社会がどうなっていくかとか、個人個人がどういうふうになっていくかということは予想できないのではないでしょうか。
 今よく言われているのは、かつて人間は社会に生きていた、今は経済に生きている、ということですが、それは経済が社会を豊かにする、経済こそが社会の根底に座っていて、社会は経済によってよくも悪くもなる、と思っているからです。しかし、そもそもは逆だったはずです。経済は社会を豊かにする方法の一つにすぎなかったはずなのに、経済指標を目標に掲げ、「右肩上がりの経済」とどこの国でも言っている。そして政治家はみんな経済を気にする。それはまさに資本主義と現代科学が手を取りあった結果です。そういう社会の見方は根本から改めないといけない。
もう限界に来ているのですから。


  「政治家の決定などは、二次的・三次的な茶番」であれば、新教科「公共」の論旨は五番煎じの後の出がらしにもならない。
 文部科学省による「高等学校学習指導要領解説 公民編」2018 を見て驚くのは、その量だ。pdfファイルにして173ページもあることだけだ。
 その中で「労働基本権」はたった一カ所、次のように触れられるのみ。
 「このような現状を踏まえて、それぞれの事情に応じた多様な働き方・生き方を選択できる社会の在り方について、労働保護立法の策定や労働組合の果たす役割、労使協調などにより雇用の安定を確保するという考え方と、規制緩和による就業形態の更なる多様化、成果主義に基づく賃金体系、労使の新しい関係などにより労働力を効率的に活用するという考え方とを対照させ、年齢で区分せずに能力や意思があれば働き続けられる雇用環境の整備、さらに仕事と生活の調和の観点などから探究できるようにする。
その際、例えば、勤労の権利と義務、労働基本権の保障、労働組合の役割などを基に、正規・非正規雇用の不合理な処遇の差や長時間労働などの問題、派遣労働者やパートタイマーなど非正規労働者、女性や若年者、高齢者、障害者などの雇用・労働問題、失業問題、外国人労働者問題など具体的な事例を取り上げて自分の考えを説明、論述できるようにすることが考えられる」
 「ILO」「カルテル」「談合」「不当労働行為」に至っては全く言及がない。このことだけでも「公民」「公共」の正体は知れる。

 経済分野について解説は次のように書いている。

 職業選択、雇用と労働問題、財政及び租税の役割、少子高齢社会における社会保障の充実・安定化、市場経済の機能と限界、金融の働き、経済のグローバル化と相互依存関係の深まりなどに関わる現実社会の事柄や課題を基に、公正かつ自由な経済活動を行うことを通して資源の効率的な配分が図られること、市場経済システムを機能させたり国民福祉の向上に寄与したりする役割を政府などが担っていること及びより活発な経済活動と個人の尊重とを共に成り立たせることが必要であることについて理解すること。

 「職業選択」については、産業構造の変化やその中での起業についての理解を深めることができるようにすること。「雇用と労働問題」については、仕事と生活の調和という観点から労働保護立法についても扱うこと。「財政及び租税の役割、少子高齢社会における社会保障の充実・安定化」については関連させて取り扱い、国際比較の観点から、我が国の財政の現状や少子高齢社会など、現代社会の特色を踏まえて財政の持続可能性と関連付けて扱うこと。「金融の働き」については、金融とは経済主体間の資金の融通であることの理解を基に、金融を通した経済活動の活性化についても触れること。「経済のグローバル化と相互依存関係の深まり」については、文化や宗教の多様性についても触れ、自他の文化などを尊重する相互理解と寛容の態度を養うことができるよう留意して指導すること。

 公正で自由な経済活動を通して市場が効率的な資源配分を実現できるのはなぜか、市場経済において政府はどのような経済的役割を果たしているか、活発な経済活動と個人の尊重をともに成り立たせるにはどうしたらよいかなどの問いを設け、他者と協働して主題を追究したり解決したりする活動を通して、「公正かつ自由な経済活動を行うことを通して資源の効率的な配分が図られること、市場経済システムを機能させたり国民福祉の向上に寄与したりする役割を政府などが担っていること及びより活発な経済活動と個人の尊重とを共に成り立たせることが必要であることについて理解」できるようにすることを主なねらいとしている

 職業選択については、現代社会の特質や社会生活の変化との関わりの中で職業生活を捉え、望ましい勤労観・職業観や勤労を尊ぶ精神を身に付けるとともに、今後新たな発想や構想に基づいて財やサービスを創造することの必要性が一層生じることが予想される中で、自己の個性を発揮しながら新たな価値を創造しようとする精神を大切にし、自らの幸福の実現と人生の充実という観点から、職業選択の意義について理解できるようにする。
その際、「産業構造の変化やその中での起業についての理解を深めることができるようにすること」(内容の取扱い)が必要であり、グローバル化や人工知能の進化などの社会の急速な変化が職業選択に及ぼす影響を理解できるようにするとともに、新たな発想に基づいて財やサービスを創造する必要が予想される中で、社会に必要な起業によって、革新的な技術などが市場に持ち込まれ経済成長が促進されるとともに、新たな雇用を創出するなど経済的に大きな役割を果たしている企業もあることを理解できるようにすることが考えられる。
なお、実際に職業を選択する前には、特別活動などにおいてインターンシップに参加することなどによって働くことの意義について「具体的な体験を伴う学習」を通して考察することが考えられる。その際、「この科目においては、教科目標の実現を見通した上で、キャリア教育の充実の観点から、特別活動などと連携し、自立した主体として社会に参画する力を育む中核的機能を担うことが求められることに留意すること」が必要であり、企業についての情報を十分に集めるなどの事前の準備が大切であること、また、インターンシップへの参加によってどのように職業観が変わったかなどについて振り返る活動が必要であることに留意する必要がある。
 職業選択...に関わる具体的な主題とは、例えば、人工知能の進化によって、労働市場にはどのような影響があるか、技術革新や産業構造の変化によって、働き手に求められる能力はどのように変わるか、といった、具体的な問いを設け主題を追究したり解決したりするための題材となるものである。
その際、例えば、働くことには賃金を得るだけではなく、自己の能力を発揮し、社会に参加するなどの意義があること、職業を選択するには各自の興味や適性、能力を知る必要があるが、これらは経験を積み、学習を深めることにより変化すること、などの観点から多面的・多角的に考察、構想し、表現できるようにすることが考えられる。

 
 文体そのものが、人に読んで貰うことを前提としていない、一方的に周知させたいことのみを、だらだらと羅列する。「指導要領」の「指導」が戦前の「戦争指導大綱」や「戦争指導要領」で使用した「指導」の範疇を一歩も出ていない。この言葉を唾棄しなかったことも、敗戦に伴う痛恨の極みとしなければならない。

  「労働基本権」の代わりに多用される言葉が「職業選択」であることが分かる。あたかも選択が自由を保障しているかのような気分にさせる狙いが潜んでいる。選択が「自由」の範疇であれば、死刑囚にも無限の自由があることになる。なぜならば、刑執行前の何時舌を噛み切って死のうが、絶食して死のうが無限の選択肢があることになるからだ。
 労働者はここでは、「グローバル化や人工知能の進化による労働市場や技術革新や産業構造の変化」に応じて「選択」迫られる受け身の存在になる。それをあたかも自然現象であるかのように、「公正で自由な経済活動を通して市場が効率的な資源配分を実現できる自由な市場経済」を説明し理解させようとしている。


追記 対談の中で「レンマ」という用語が使われている。言葉だけではとらえきれない多次元的で複雑な世界を、直感的に把握する「とる」「受け取る」というギリシャ哲学や仏教の方法をさす。
 分析的手法で読み込めば、そのたびに欠落するものがある。迎合する者や忖度する者がやれば尚更のことだ。要素に分解して分析したものから全体を再生させることは出来ない。分解して再構成したものからは、技術しか出てこない。戦後、膨大な教育技術がこれ見よがしに提唱されたが、その殆どは消えた。それは分析によって、人間と教育の全体性を見失ったからである。   

黒人霊歌 

黒人霊歌
 

この美しい歌が生まれるために
 

多くの 悪徳と 汚辱があった
 

何もなかったほうがほんとにましだ   
            
     長島愛生園の詩人志樹逸馬


     志樹逸馬は 旧制中学1年でハンセン病を得て、全生病院に入院、1933年長島愛生園に移り多くの詩を作り、1959年42歳で生涯を終えた。彼が詩を作り始めるのは、タゴールを知りその詩集を書写してからである。
 タゴールがノーベル賞を受けると日本にタゴール人気が高まり、1916年に来日している。しかし日本の帝国主義を批判したため、タゴール熱は急激に冷めた。その風潮の中で、志樹逸馬はタゴールの詩を学んだ。

「啐啄の機」と平和教育

  「啐啄の機」←クリックの続き

 吉野源三郎が、戦後の平和教育は「啐啄の機」を見ることを怠ったと苦言を呈したことがある。
  私は、逆説的かもしれませんけれど、戦争体験をもった人びとは、その体験を自分の心の中に大切にしておいて、あまり人にしゃべらないほうがいい、と考えています。 
 わかってもらおうとして、しゃべればしゃべるほど体験が磨滅していって、体験の表皮だけが言葉になって残るという結果になりかねないからです。 
 逆に経験した事実についてならば、あまり深刻にならないで、自分のことでも客観的に語ってゆくようなゆとりをもって、人に話したほうがいいと思います。どこまでが経験で、どこからが体験か、その間に明確な線はひけませんから、私のいっていることも相対的な区別にすぎませんけれど、そういう気持で経験を話すほうが正確に多くのことが相手に伝わると思います。 
 そして、体験のほうはソッとしておくことです。このように、自分の体験をウソなしに語ることがむずかしいということを心得て、口に出さず、じっと心の奥に持ちこたえているならば、かえってあるキッカケで、パッと相手に通じるという結果を生む場合もあるのです。 
 たとえば、空襲で焼け死んだ人びとの死骸処理をやった人が、そのときの思いをじっと心にひそめていて、あるとき、空襲について軽薄な調子で人びとがおしゃべりをしているのを耳にし、我慢ができなくなって「バカ、そんなもんじゃないぞ」と一言いったとします。その二言の中に、その人のそれまで口に出してはいえなかった気持がこめられていたら、一座のおしゃべりは、その一言でしゅんとしてしまうでしょう。 
 厳粛な事実の厳粛さは、それだけで相手に通じるのです。総じて、客観的な事実や科学的夷理は言葉で語って伝えることができますけれど、まるごとの真実というものは、わかりあえる条件が熟さないと、伝えようとしても伝えられない、というのが本当のところだと思います。 
 禅宗では啐啄の機といって、卵の中のひよ子が育って外に出ようとするのと、親が外から殻をつき破るのとが、機をあやまたず一致するように、弟子が悟りに近づいて熟してきたときに、師が機をあやまたずに適切な導きを与えるという、そのかねあいの重要さを説いていますが、たしかに、事柄によっては、受けとる者と伝える者と、双方に条件が熟したときに、はじめてわかると言うものがあるのですね。いろいろ価値の中には、そのようにしてはじめてわかる価値もあると思います。 
 平和運動というような大衆運動の中では、なかなか、そんなことはいっていられないでしょうが平和運動を人びとの魂の中に定着させてゆくためには、やはり、運動を進めてゆく人の一人ひとりの中に、こういう内面性はあったほうがいいのではありませんか。小学校の先生の場合でも、同じだろうと思います」 (1972年『科学と思想』春季号)


 よいこと、必要なこと、疑う余地のないことと言いながら、教育の機微を無視したスケジュール消化的押しつけが罷り通る。平和を巡って、教える側・学ぶ側・伝える側の内的「機」の成熟を準備し、それを鋭く感知する能力こそが望まれている。それは、平和教育にとどまらない、自治教育、憲法教育・・・教育のあらゆる分野に要請されている。それ故、教案の画一的強制は愚の骨頂である。「啐啄の機」には、生徒の成長を敏感に捉える「余裕」が欠かせない。余裕は、先ずは時間と存在の尊厳である。生徒や地域の生活を共感的に受け容れるということだ。そのためには自治体が小さいことは必須の条件だ。地域を知ることが、そのまま保護者の労働と生活を知ることであり、家庭を知ることに繋がる。「啐啄の機」はそこに潜んでいる筈だ。大きいことばかりに振り回される東京では至難のことだ。

 ある学校のある教科で、恒例の学年末教員旅行があった。幹事教師による修学旅行並みの見学予定が示され、学習ポイント・地図・旅館の由緒など情報満載の小冊子までがつくられたという。お土産を買う店・記念写真撮影ポイント・トイレ休憩・コーヒータイム・・・それが分単位で事細かに書かれていた。
 何のための旅なのか、お行儀よい強制移動ではないか。ここに人生の一コマは生まれない、浪費そのものである。自律性も固有の実体もない。大人に対して無礼だとは誰も思わなかったのか。いや子どもに対しても失敬だ。
 これをつくった教師は鼻高々、周りもさすがと賞賛した。次の年はさらに細かくなるだろう。宿の歴史や夕ご飯の紹介・旅館での禁止事項・所持品チェック表・・・。「よいこと」だから恒例だからこうなる。僕なら参加しない、家族と風呂にゆく。
  

選別体制下のアクティブ・ラーニング / 教科「公共」

「公共」の指導要領は新語法で書かれている
 アクティブラーニングに、政府が言及したのは、2012年8月の中央教育審議会答申である。生徒が能動的に学ぶ授業が期待されていると、色めきだった教師は少なくない。生徒が、体験学習やグループ・ディスカッション、ディベート、グループ・ワークなどで「能動的」に学べば「認知的、倫理的、社会的能力、教養、知識、経験を含めた汎用的能力の育成を図る」ことが出来るとうたったのである。   
  笑止千万である。一切の自由を縛り上げられた教師が、一体どうやって生徒を能動的に出来るというのだ。Freedom is  slavery. そのものではないか。横文字を使えば恐れ入るだろうとの軽薄さに満ちている。

 
 元々アクティブ・ラーニングは大学で展開されていた。教師自体が組織からも政府からも自立し、教科書も学習内容も方法も自由に構成できる環境にあって初めて実現出来る方法である。それでも上手くいってはいない。

 検閲した教科書をあてがわれ、挙動を日常的に監視され、過労死するほどの多忙な勤務の中で、何が出来るのだ。居眠りも出来ない。たとえどんなに忙しくとも、優れたマニュアルに基づいて人工知能を活用すれば、厳しい管理と規律によって実現出来ると考えたのであろうか。まるで生徒は兵隊、教師は下士官、管理職が将校のようである。まさに「汎用的能力の育成を図る」普通科連隊の訓練である。人工知能を活用する産業戦士育成を視野に据えている。戦士とはおとなしく戦死する者たちのことだ。人工知能革命のその先には大量人員整理が待っている。

 さすがに恥ずかしくなったのか2018年指導要領では、アクティブラーニングの語は消えて「主体的・対話的で深い学び」と言い直されている。僕はTVバラエティ番組の「人生が変わる1分間の深イイ話」というタイトルを思った。一分間にまとめられる軽薄な話を、壇上に並んだ芸能人たちに聞かせて頷く様子を画面に入れる。
  ここに文教族たちの思惑がある。かつて国民共有の財産を外資に明け渡して、「感動した」を連発したライオン髪首相がいた。国民が求める詳しい報告と熟議をせせら笑うように繰り出した、単語の連発をマスコミは歓迎したのである。紙面が節約でき、調査報道が省けるからだ。調査報道を省いた紙面や画面に現れるのは、現状を自然現象のように肯定する傾向である。9.11も3.11も永い歴史的経過が省かれ、衝撃的な現象の「鑑賞」から一歩も出ない。そこから始まったのは、ブッシュの嘘を真に受けての、主権国家イラクへの徹底的攻撃であり、その裏で蠢動する民営化した戦争の実態と本質は省かれた。3.11も対米従属下の核政策を押し流すように津波の映像が繰り返され、莫大な復興予算を浪費する災害資本の暗躍が碌な議会審議も経ぬまま黙認されたのである。国民は「食べて応援」の短いフレーズにここでも思考を断ち切られている。

  はじめから破綻は見えていた。アクティブラーニングが鳴り物入りで喧伝されたのは、裕福な家庭の偏差値の高い良い子たちが集まる学校だけだ。謂わば陸海軍幼年学校で、趣味的に取り組まれたに過ぎない。何を教えても教えなくても、万事そつなくこなす連中だけを集めて「教育」である筈がない。
 雑多な階層の多様な「物騒な」生徒たちもお坊ちゃんも集う学校で、緊張に満ちて取り組まれないで何がアクティブか。アクティブとは、粒ぞろいの居心地の良い教室でお行儀良く取り組まれるものであってはならない。授業後、直ちに街に出て行動する青年になるのでなければ、浮き輪抱えた畳の上の水練に過ぎない。
 it革命で首を切る側になる階層の子弟と首を切られる側になる階層の子弟が、互いに隔離されて展開されるアクティブラーニングは、全てよそ事として構成される。社会の矛盾がそのまま反映される教室を、政界も財界も恐れている。
 
 新教科「公共」には、2006年の「新」教育基本法の意図が思い通りには浸透しない文教族のイライラが結晶している。新教科指導要領を「精査」して解説した本が幾つも出ている。何故わざわざ解説して展開例を書かねばならないのか。それは指導要領が、分けても新教科「公共」 指導要領が、『1984』並の新語法に満ちているからだ。
 日本国憲法や旧教育基本法が、そのまま読まれたような「明晰」さはあり得ない。上意下達の通達が明晰であるとすれば、国民が新語法にすっかり馴染んだ時である。


    教科書調査官だった「学者」などが加わった解説書に共通することがもう一つ。それは、遡及的思考が無いことだある。コナンドイルは、ホームズに『緋色の研究』でワトソンに向かってこう言わせている。
 「うまく説明できないものはたいていの場合障害物ではなく、手がかりなのだ。この種の問題を解くときにたいせつなことは遡及的に推理するということだ。・・・仮に君が一連の出来事を物語ったとすると、多くの人はそれはどのような結果をもたらすだろうと考える。それらの出来事を心の中で配列して、そこから次に何が起こるかを推理する。けれども中に少数ではあるが、ある出来事があったことを教えると、そこから出発して、その結果に至るまでにどのようなさまざまな前段があったのかを、独特の精神のはたらきを通じて案出することのできる者がいる。この力のことを私は『遡及的に推理する』とか、『分析的に推理する』というふうに君に言ったのだよ」

  僕は9.11事件を授業で扱う時必ず使った映像がある。Occupation: A Film about the Harvard Living Wage Sit-In on Vimeo   この映像を使ったnhk海外ドキュメントもある。こちらは日本語である。
 2001年春、つまり9.11事件の半年前のアメリカの雰囲気が分かる。2000年にはワシントンで反グローバリゼーションの大規模デモが行われいた。そして 世界の「テロ」件数が急速に増加し、多くが中東か南アジアで発生するようになったのは、2004年頃からである。つまり9.11以前の世界は、相対的に穏やかであった。我々の多くは、事件の報道が衝撃的であったために、事件以前を忘れたのである。そこにイスラムのテロ組織の残虐性と中東世界の不安定性が書き込まれ、記憶と化したのである。それ故、ブッシュがイランに大量破壊兵器があると言えば「さもありなん」と受け容れてしまったのである。『遡及的に推理』したり、『分析的に推理する』ことで我々は、より実態に迫ることが出来るはずである。
 非正規労働を扱った学習プランを見れば、非正規労働が増え始めたのは何時で、それ以前の労働はどうであったかは考察されない。あたかも自然現象であるかのように、非正規と正規を選択の対象として選ばせようとしている。福祉であれ外交であれ、これからどうするのかだけを問う。政権の課題を浸透させる構図となっている。


 
 

李白が詩を作り、アインシュタインはバイオリンを嗜んだように

  無知とは知識の欠如ではなく、知識に飽和されているせいで未知のものを受け容れることが出来なくなった状態。という見解がある。驚くほどものをよく知っていて、お喋りだが全く対話できない。そんな少年について書いたことがある。←クリック  文字通り苦い記憶である。

  専門家の無知について、原発事故は我々に数多くの実例を曝した。しかしそれを社会は、認識しているだろうか。もし認識していれば、彼らの多くは刑務所にいるはずだし、誰も責任をっていない。
 ハンセン病の場合、専門家の組織である「日本ライ学会」が自らの無知を自己批判するまで、絶対隔離からほぼ一世紀を要している。
 

 「収容乞う癩患者を赤穂海岸へ遺棄 鮮人身の振り方を赤穂署へ泣つく 長島愛生園へ抗議」の見出しが新聞に現われたのは1935年10月10日。(山陽新聞の前身『中国民報』)
 大学病院でハンセン病と診断された患者自ら愛生園に出向くが満員と断られ、盥回しされた大島療養所も受け入れ拒否、愛生園に戻ると船に乗せられ無人の海岸に打ち捨てられた事件である。愛生園は職員談話で、軽症で伝染の恐れも少ないから帰した、従来も軽症者は努めて帰ってもらっていると逃げた。おかしいではないか、ハンセン病の慈父として後に文化勲章を受ける光田健輔は愛生園園長であり、ハンセン病をペスト並の恐ろしい病気と言いつのり絶対隔離を立案したのである。

 京大病院で治癒して仕事にも復帰して後遺症もない元患者もあった。彼の場合有無を言わせず愛生園に再収容されたまま隔離され続けた。
 入れるも入れぬも出すも出さぬも、患者に対する恫喝として思いの儘であった。こうした恣意性が、絶対服従を可能にした。基準・根拠ともに不明であるからこそ、恐怖は果て無く募る。根拠さえ手にする事が出来れば、『神聖喜劇』の藤堂二等兵が軍法を逆手にとったように、闘いの道具にすることも出来る。それを恐れて、星塚敬愛園は癩予防法条文そのものを対患者極秘扱いにしたのである。
 収容されてしまえば、治療もあてにならず強制労働で症状は急速に悪化、死んでくれ、首を吊ってくれと迫った家へ帰れる筈はない。戸籍すら消された。大黒柱を奪われ消毒剤と罵詈雑言を浴びた家族も、離散してい故郷には誰もいない。元の職場にも病気は知れ渡っていて戻れない。すっかり根無し草となって、浮浪死は免れない。その恐怖が患者の反抗を沈黙させたのである。
 追放する側は、死後解剖するまで無菌は証明できないと言いながら、「アカ」であることが判れば、いつも無菌を証明してみせた。
 ならば「光田先生、この病気は治癒しないと言うあなたの療養所で、何故アカになると突然無菌になるのですか、こんな不思議はない。御高見を承りたい」と常識で切り出す者やマスコミが必要であったのではないか。
 「知識に飽和されているせいで未知のものを受け容れることが出来なくなった」関係者の無知は恐ろしい程である。

 愛正園初代患者教師吉川先生に関する「思想要注意人退園処分の件」関連文書にも、彼が如何に危険な思想と言動の主かを列挙してはいるが、病状については一切触れていない。ペスト並の病気より、思想が光田には恐ろしかったのである。

 1936年第15回癩学会は『朝日』や『毎日』の報道によって、小笠原説が徹底的に糾弾され絶滅隔離派が圧勝した印象を世間に与えた。しかし地方紙『新愛知』は「・・・論戦を繰展げ・・・伝染はするが決して恐るべきものではないとの妥協点に至り、結局今後の研究にまつことを双方約して二日間に亘る癩論争の幕を閉じた」と報じている。そればかりか、小笠原攻撃の急先鋒の一人外島保養院村田院長も「今頃癩の伝染力をさ程に強いと思つてゐる者はゐない」と論戦の中で言い切っている。又、恵楓園宮崎松記園長も京大に小笠原博士を訪問、「癩ヲ扱フコト結核ヲ扱フ程度ナラシメントストノ意向」を伝えたことも確かめている。これは第15回日本癩学会総会直前である。
 「癩業界」内部では「癩ヲ扱フコト結核ヲ扱フ程度」との見解は寧ろ一般的でった。そうであればこそ、鹿屋の星塚敬愛園が「国立療養所入所規定」第一条で癩はこの規定から除かれることを明示していることを承知で、第七条と八条によって追放(退園)を命じたことに合点がゆく。ハンセン病を入所規定から除いた根拠が存在しないことになるからである。しかしそうなれば、隔離の根拠が無くなる。
 両義足の患者を山中に遺棄したり、博奕で追放したり、思想要注意人物の再収容を阻止したり、彼らにとって何の不都合もない。『癩業界』が外部向けに捏造したハンセン病像に慌てふためいたのは、「癩業界」から隔離された者ばかりであった。
 愛生園の医師二人が追放に立ち会って震えたのは、自分達の行為が国民と歴史と科学を欺く途方も無い犯罪であると知ったからではないか。震えた一人早田皓は、小笠原にわざわざ長文の手紙を送って、絶対隔離を認めるよう迫った男である。来たものは誰であろうとも欺くために、愛生園の予防措置は度外れて厳重を極めていた。
                樋渡直哉著『患者教師・子どもたち・絶滅隔離』から引用加筆した。

  ハンセン病も「らい学会」自己批判や「らい予防法違憲国家賠償請求訴訟」判決でその不当性明らかになったにも拘わらず、関係者の処罰は一切ない。僅かな園職員が転勤したのみである。特定の情報が飽和に達した集団が、生まれ変わるためには飽和状態を一掃する革命が必要なのだ。ハンセン病関係で言えば、
「らい予防法違憲国家賠償請求訴訟」原告の谺雄治さんが国会の議長になり、厚労省大臣に島比呂志が就任して汗を流す体制が少しも過激でない世の中になる必要がある。
 空気が水蒸気で飽和状態になれば雨が降るように、知識の飽和状態も何らかの方法で解消される。丁度コンピューターの中に断片化した情報やゴミが溜まれば、動きは緩慢になる。フラグメントを除去しなければならない。
 官僚李白が詩を作り、アインシュタインはバイオリンを嗜んだように。

 知識の飽和状態を解消して、未知のものを受け容れることが出来る。
 業界人にならないことだ。友達も親も兄弟も配偶者も教師というのは危ない。

若者を貧困と無知から解放すべし

    「病気の原因は社会の貧困と無知からくる。」「だがこれまで政治が貧困と無知に対してなにかしたことがあるか。人間を貧困と無知のままにしては置いてはならないという法令が出たことがあるか」   黒澤明は『赤ひげ』で新出去定に怒りを込めてこう言わせている。             ...