「最適解」

最適解
 知り合いからのmailにある本の紹介があった。
 「子どもの頃、夏休みの宿題を夏休みの後半にしていた労働者は、長時間労働や深夜残業をする傾向が強いという研究もある」   『行動経済学の使い方』(大竹文雄、岩波新書)p.106

 知り合いは、この本を「人をどうしたら動かせるかという、何とも納得いかない研究」と評している。簡明な「批評」だと思う。「批」には、たたく、ただす、主権者が承認する、という意味がある。 「おべっか」と「おちゃらけ」と憎しみに満ちた上目遣いの評価許りを見聞きしていた僕には、久しぶりの涼しい薫風であった。

 小学生のころ隣の席の女の子は、有るとき「あのね、夏休みの宿題を先生はどうするか知ってる? 職員室に積んどいて、スタンプも押さずに燃やすんだよ」と耳打ちして笑った。だから彼女は宿題を殆どやったことがない、夏休みの宿題以外でも。ラジオ体操もサボった。「だつて、後でまとめて叔父さんがスタンプくれるよ」と平然としていた。
 その女の子が国体で活躍し1964年のオリンピック強化訓練に参加するようになるのだから、世の中は分からない。

 僕は夏休みの宿題は、受け取ったその日のうちにやり始めた。宿題が好きだったわけではない、寿司の盛り合わせを前にすると嫌いなものから先に口にする気持ちだった。はじめの数日で大方終わらせたが、どうしても残る。似たようなドリルが続くから見るのも嫌になる。でも宿題が残っている限り、落ち着かない。好きなことに取りかかれない。近所の探検や博物館や図書館に行くのもどこか後ろめたかった。残りが僅かになれば、安心して好きなことが出来る。

 彼女は担任に気に入られ、身近でいろんなことを観察できた。何も知らない僕は、我武者羅になる。
 しかし「長時間労働や深夜残業をする」ようになるのでは堪らない。子どもは大人の行動をよく観察をして、「最適解」を求める必要がある。小学生だった頃の妻が発見したように、「最適解」は意外に手近で手軽である。先ず平然とサボる。
 日本人の宿題漬けは外国から見れば異様である。小学生の頃から宿題に依存する性向を植え付けられた日本人が、世界で突出して働き過ぎ。死に至ってもやめる気配がない。
 会社で無闇に頑張ってはいけない。過労で倒れる前に、財務諸表を読み込み世界情勢を判断し、社内の勢力動向に敏感にならねばならない。あらゆる組織について同じことが言える。

 米国製兵器の爆買いや自衛隊の海外派遣が、日本の平和にとって「最適解」でない許りか、最悪解であることは歴史や世界情勢を観察すれば分かることだ。中村哲医師の生き様がそれを我々に伝えている。
 ブルキナファソのサンカラ、チリのアジェンデ、コンゴのルムンバ・・・最適解を民衆に身を挺して示した指導者は、悉く暗殺されている。
平和と独立を目指したが故に。中村哲医師も惨殺されてしまった、彼の指し示した方向を嫌悪する勢力は余りにも巨大であった。

バイクと高校生と言葉と階級

無知や貧困との闘い
 下町の工高で教えていた頃、夏休みにはバイクの事故で死者や重傷者が相次いだ。教師たちには心安まる暇はなかった。高校生は原付の免許を取るや否や、夜通しで三国峠を目指していた。連続するカーブが彼らを惹き付けた。
 僕のクラスでも免許を取る者が続出した。Tくんは学校近くに住んでいたから、通学には使わない。通学に使う連中は見つかれば停学だから、実にうまく隠す。生徒部が必死になっても捜せない。Tくんの成績は一気に危険地帯に入った。夜間遠出するから遅刻も増える。説教したり脅したりでやめる連中ではない。親も息子に、バイクを取り上げるなら退学すると脅されてお手上げ。事故現場の写真を廊下に貼っても、「先生、俺たちは生の現場を見てるんだぜ」と笑う始末。

 ある初冬の寒い日、Tくんが放課後社会科職員室に来て言う。
 「ちょうどよかった、話したいことがあったんだ」
 「だと思ってた。・・・でもよ先生、おれバイク売っちゃったんだ」
 「分かってたか、何ヶ月乗ってたんだ。思い切りが早いな」
 「二ヶ月、それがさ、雨が降った夜。一回りするつもりで出たんだけどさ、店のガラスに映ってる自分に気付いたのさ。オレ顔がでかくて、ヘルメットがちょこんと乗ってる。おまけに足は短い。それが雨に濡れてゴリラにのってる。格好悪いんだよ、恥ずかしくてうちに帰った。」
 「格好いいつもりだったのか」
 「笑わないでよ」
 「格好いいのはバイクだけか、高校生向けのバイクを売る会社は最悪だと僕は思ってるよ」
 「そんでよ、ここに来たのはさ。先生が教えた『立場』という言葉を思いだしちゃった。自分が見たり思ったりすることと、他人が見たり聞いたりすることが全く違うことがあるってやつ。それが言いたくなった」

 こうして高校生は、苦い失敗を経て「言葉をみつける」。三年になれば『政治経済』で階級の概念に出会う。彼は苦さと共に新たな言葉を獲得する。その時彼は商品としてのバイクから自らを解放する。学ぶとは単語を記憶する事ではない。

 バイクと高校生を巡って、どんなに多くの教師が、一体何度会議を重ねたことか。どんなに多くのレポートが綴られ、本が書かれ番組が作られたことか。すべてが無駄とは言わないが、その思いはある。多かれ少なかれ、それらは高校生に説教や処分を与える根拠となった。
 最大の問題は、バイクの魅力を上回る授業を構想出来ない構造と能力にある。我々とは個人としての教師でもあるが、偏差値の高い学校には重点的に予算と教師を回す行政でもあり、武器と金力に優しい政府でもある。
 黒澤明の『赤ひげ』で新出去定は、貧乏と無知に喘ぐ見捨てられた病人たちにこそ良い医者が必要と言う。「底辺校」にもとびきりの教師が必要なのだ。
 岡場所で心を病んだおとよが養生所に来ても気持ちがすさみ、保本登の差し出す茶碗を払いのけ割る場面がある。保本登は怒りもせず「かわいそうにな」と涙を流す。これが「底辺校」に必要な光景ではないか。匙に注いだ薬湯をおとよが撥ね除けても撥ね除けても、優しい顔して顔に着いた薬を拭いながら匙をおとよの口に運び続ける赤ひげの「強さ」が教師に求められる。毅然たる処分や体罰ではなく。
 御目見得医や金持ちの太鼓持ち医者並の教師が、管理職試験技術ばかりを肥大させて学会や研究会に巣くっている。
 SSH作りには夢中になるのに、その対極の高校生たちには説教と処分と体罰以外の手間をかけない仕組みを呪う。

 僕はおとよと長坊の20年後を思う。貧困と無知にどう立ち向かうのか。
 長坊もおとよも、保本や新出がいなければ札付きの非行少年/少女で終わった。

学級が「home」roomと呼ばれるのは何故か Ⅱ

homeは保守的である
 学級の呼び方には不思議なものがある。最右翼はlong time だろう。毎日の放課前の短い学級活動をshort timeと呼ぶのに対して、週一度の一時間を使ったものをlong timeと呼ぶようになったらしい。何やら風俗産業じみた言葉である。long home roomも落ち着かない。まるで縦が100mの教室を連想させる。
 世界各国の学校でhoom roomは使われているが、中身は大いに異なっている。
 日本の高等学校指導要領には、その意義が「自己の所属する様々な集団に所属感や連帯感をもち,集団生活や社会生活の向上のために進んで力を尽くそうとする態度を養う」と記され、団体行動や協調性が全面に出ている。

 米合州国の高等学校でhoom roomらしいものは、学期に数度の連絡伝達があるだけ。従って多くの生徒が自分のhoom roomメンバーをろくに知らない。授業前後に集まり、学園祭などの行事に取り組んだり、掃除や係の仕事を行う事もない。世界的にはこちらが標準。

 この日本のhoom roomの特異性を生んだ意識が、家庭や企業に於ける個人の位置や関係を著しく異様なものにしている。個人と集団の関係が逆転している。個人を学校や企業などの組織=おおやけに隷属すると考えてしまう。自立した個人が集まり、協議しながら「公=おおやけ」は作られるとは考えられないらしい。


 明治の鹿児島で小学校に通った祖母たちは、子どもは家に属すると考えていた。それ故行事は毎月、どんなに手間をかけても家の行事としておこなった。
 子どもに何かあれば祖母や大叔母たちは、家を代表して直接かつ対等に学校と対していた。決してPTAを通しはしなかった。小学生の僕から何か問題を掴んだ時は、数軒の同級生を回って問題を確かめ、直接学校や町役場と掛け合っていた。予算が必要であれば、町議会にも足を運んだ。


 号令と行進ばかりの「合同体育」が面白くないと不平を僕が言ったときには、「そんた兵隊の訓練じゃ、勉強じゃなか。そげなもんは出んでんよか、日本はもう戦争はせんとじゃ」と怒りを込めて僕を諭し、学校に走った。

 決して主張を曲げない婆さんたちだった。子どもは学校のものではなく、まして新憲法後は国家のものもはなかった。合同体育はいつのまにかなくなった。僕だけが下校していたのかもしれない。整列や行進を止めただけだったかもしれない。組合に勢いがあった時代でもあったから、職員会議で議論になった可能性は高い。志布志には機関区があり国労も自治労と共に意気軒昂だった。
 「あょー、うんだもしたん」と声をあげながら下駄をつっかけて、学校へ走る大叔母を思い出す。 

 「home」は盗んでも咎められず、貢献を強制されない領域である。存在自体が最大の貢献であって、そこから戦場や競争に向けて出撃する基地ではない。たかがタバコや数度の遅刻で目くじらを立てる場などではない。
 学級=home roomは再定義する必要がある。言葉を知ることは意味を発見することであり、思索の始まりである。高校生は言葉から、社会の実態や本質に向かう。

 担任は、クラスや学校への貢献を生徒に求めてはならない。貢献の度合いに応じて特権を付与することを恥じねばならぬ。存在自体を貴しとすべきことに気付かねばならない。担任は自分の学級の処分件数を恥じる必要は無い。 
 

 「国家が各個人にしいている支配服従の縦の人間関係倫理にたいして、家はすくなくとも国家よりは各個人の人間性を大切にするという意味で横の人間関係の倫理の芽ばえをもっていたわけだが、これは普遍的な倫理の形にまで一般化されることがなかった。サークルは、家の中でなりたっている相互扶助をひろげて行く過程で、よこの倫理を自覚的につかむことができるようにする」鶴見俊輔

 国家が、教委が、学校が「個人に強いている支配服従の縦の人間関係」であれば、homeとしての学級と少年/少女の関係は如何にあるべきで、何をなし得るのか。学級担任としての職責は何か。
 出世や受験などの成功を夫や子どもに懇願する家庭の風潮とは一線を画する必要がある。
 進歩的な親や教師すら、部活は少年/少女の権利だと思い込んでいる。入試や就職に有利になるのであれば、それは権利ではなく特権。教育から真っ先に排除すべきは特権である。そこから初めて権利が始まる。
 順位が決まらないと落ち着かず、噛み付くことが習性になったとすれば、ただの愚かな野獣だ。

  冒頭の日本画は、鏑木清方が樋口一葉を描いたものである。僕の記憶の中の祖母は、ランプを除けば髪型・針山付きの裁縫箱・着物や前掛けまで、この絵と何一つ変わらない。最も変わらなかったのは、彼女たちの生き方だった。

 祖母も大叔母も、戦中は将校の妻として国防婦人会で竹槍訓練の先頭に立った。その愚かな苦い経験が「馬鹿の考え、休むに似たり」との口癖となった。

「平凡な自由」は青い鳥ではない

自由は平凡の中にしかない
 引退したはずのイブモンタンらしい男が、フランスの田舎でペタンクをしていた。的の杭目がけて、鉄の球を投げる大人の遊びである。たまたま日本のマスコミ人が現場に居合わせて、『イブモンタンさんですか』と声をかけた。男は不快そうな顔付きになり、怒ったように背中を見せて立ち去った。
 いかにも日本のマスコミらしい無神経さである。誰もがマイクを向けられれば喜ぶと思い込んでいる。肉親を事故で失った悲しみの底にある遺族にも、『お気持ちを、ご感想を』と傍若無人である。

 マスコミの男がペタンクの雰囲気に引き込まれたのならば、「去りがたい光景の中の、日本人旅行者」としての自分を書けば良い。一日中眺めて、ペタンクをやらせて貰えば上出来ではないか。
 

  イブモンタンは歌手としても俳優としても栄華を極めた。毎日がフラッシュとマイクを向けられる日々であった。希代の英雄や苦み走った二枚目を演じても、それは監督や制作者の造った虚像であり、イブモンタン自身ではない。世界の女を痺れされるような歌を歌っても、それは制作者の意図に合わせているだけで、彼自信を表現したものでは無い。彼は、引退して初めて、平凡な日常の中にしか自由はないことを知ったに違いない。
 
 嵐寛寿郎は押しも押されもしない役者で、生涯に300本の映画を撮った。何度も恋愛し結婚離婚を繰り返したが、そのたびに全財産を別れる相手に贈った。銀幕や舞台の嵐寛寿郎は、彼自身ではない。
引退後の彼は、掃除が趣味で他人任せにせず楽しんでいた。とくに拭き掃除は念入りであった。
 前の天皇の末娘が地方公務員と結婚して、下町のマンションに住んだ。商店街での買い物が好きで、買い忘れがあれば何度でも往復した。商店街の女将が「言っていただければ、お届けしますのに」と言うと「とんでもありません、こんなに楽しいこと、何度でも自分でいたします」と、おっとりした口調で答えたと言う。
 
 『平凡な自由』(大月書店)を書いたとき、タイトルが過激だ、皮肉がきついなどと揶揄された。

 我々の自由は、オリンピックを誘致したり、カジノや博覧会建設に浮かれることにはない。毎日の通勤や登校途中に、道ばたの草花にみとれる楽しみの中にある。時折出会う幼児やお年寄りの姿に安堵して挨拶を交わすことにある。勲章やメダルを首にかけたり、天皇の即位パレードに「感激して涙を流す」ことにではなく、長い病みが癒えて木々の香りと暖かい空気包まれる中にある。

 だが中村哲医師が、命を賭けたのは、砂漠化した土地に生きる人々の『平凡な自由』を実現するためであった。それ故彼は殺された。すべてが商品化された社会では、自由も平凡も敵と見なされる。

 中村哲医師がノーベル賞に挙げられなかったのは、所詮ノーベル財団が商品化社会の申し子だからである。 

特権と成功

 或者、子を法師になして、「学問して因果の理をも知り、説経などして世渡るたづきともせよ」と言ひければ、教のまゝに、説経師にならんために、先づ、馬に乗り習ひけり。輿・車は持たぬ身の、導師に請ぜられん時、馬など迎へにおこせたらんに、桃尻にて落ちなんは、心憂かるべしと思ひけり。次に、仏事の後、酒など勧むる事あらんに、法師の無下に能なきは、檀那すさまじく思ふべしとて、早歌といふことを習ひけり。二つのわざ、やうやう境に入りければ、いよいよよくしたく覚えて嗜みけるほどに、説経習うべき隙なくて、年寄りにけり。『徒然草 第百八十八段』

   親の勧めで僧侶になろうとしてある男、「学問して因果の理をも知り、説経などして世渡るたづきともせよ」との言い付けを守った。話を頼まれたとき馬で迎えに来るから、馬から落ちて恥をかぬよう乗馬を習った。また法要が終わった後には酒宴になるからと歌と踊りを習い夢中になる、肝心の経文には身が入らない。そうこうしているうちに歳をとってしまった。


 間の抜けた話だが、よくある。『絞りかすみたいな、いい先生』には、そんな教師を書いた。←クリック

 あの若い国語教師が、なぜ
常軌を逸した生活指導に走ったのか。解せないのは手痛い失敗を経験した後も、更にそれを強化徹底しようとしたことだ。

  吉田兼好も、先に引用した部分の後でこう言っている。

 京に住む人、急ぎて東山に用ありて、既に行き着きたりとも、西山に行きてその益勝るべき事を思ひ得たらば、門より帰りて西山へ行くべきなり。「此所まで来着きぬれば、この事をば先づ言ひてん。日を指さぬ事なれば、西山の事は帰りてまたこそ思ひ立ため」と思ふ故に、一時の懈怠、即ち一生の懈怠となる。これを恐るべし。
 
 馬から落ちて笑われたり、無芸振りを謗られたところで何なのだ。僧侶なら説教に磨きをかければ良い。
 思えば発狂した彼は、長い間採用試験に失敗しつづけた。晴れて合格後、新任教師としてH高校に赴任したとき、生徒にも親にも同僚にも「信頼される教師になりたい」と思った。彼の場合、人一倍その思いが強かった。なまじ生活指導の手立ては、長い非常勤講師時代に見知っていたから「私がやればもっとうまくいく」という実践抜きの自信だけは膨れ上がる。

 実践抜きの自信の悲しさは、失敗できないことだ。 我々は失敗から学ぶことが出来るが、そのためには失敗の事実に向き合わねばならない。失敗が小さなうちに事実を認めねばならない。発狂した教師は、採用試験に失敗している最中は、力の抜けた勉強好きの教師で人気があった。
 待ちに待った嬉しい成功=採用試験合格が、彼を破滅させたのだ。合格しなければ彼は、型にはまらぬ希に見る良い教師になっていた、それは間違いない。非常勤講師だった彼がギター片手に教室に向かう姿を僕は羨ましく思った。教材と関係する歌を教壇で歌ってから授業に入るのだ。僕は根っからの無芸である、真似が出来ない。

 アロンアルフアという画期的瞬間接着剤は、剥がしやすい接着剤開発の失敗の中から出現している。

 しかし成功の願望には、他人の失敗がつきまとうことが多い。知らず知らずのうちに、他人の失敗を喜ばないまでも放置してしまう。

 それは、成功を特権の範疇に入れてしまうからである。成功を「特権」ではなく「権利」の範疇に入れて考える必要がある。発狂した教師を例にとれば、「自分が信頼される教師になる」ことと「みんなが信頼される教師」になることが一致しなれればならない。組合や教研や民間教育団体はそれを目指す組織であった筈だ。それが何時の間にか、自分だけの、抜け駆けの出世と自慢の場になっている。組合や教研や民間教育団体をリードする教師には、自他共に許す「実績」があるように見える。僅かな差に過ぎないが、それを不当拡大する機能が組織にはある。ここに「成功」が特権の範疇に包み込まれる危険性が潜んでいる。これは学校に限ったことでは無い。

 発狂した教師に同僚が声をかけることさえ出来なかったと聞く。悔やまずにはおれない。知らなかったことは言い訳にはならない。彼のいた高校まで駅三つの距離だった。

一攫千金は一人だが、膨大な数の貧困層を前提にしている

何かになるとは別の可能性を潰すこと
前者は困難だが、後者は容易く確実である
 アメリカ映画には、銀行強盗や詐欺を描く「悪巧み」ものがある。例えば『スティング』、『明日に向って撃て!』、『ゲッタウェイ』。観客は、無邪気に 「痛快」 「カッコいい」 「男前」などという感想をもらす。「非常に爽やか」「観終わった後も清々しい」と言う者まである。  ポール・ニューマンやロバート・レッドフォードやスチーブ・マックイーンなど人気俳優を主役にして、いかにも憎々しげで間抜けな「悪役」を相手に、派手な演技で犯罪を魅せる。 
 しかし殺人を伴う犯罪さえも、「痛快」で「清々しい」と思わせて、莫大な入場収入を稼がせてしまうには、何か理由がある。北米合州国建国の歴史自体が、先住民インディオ相手のイカサマと虐殺と略奪の「一攫千金」の欲望に満ちているからだ。イカサマと虐殺と略奪を、痛快で明るいこととして語らなければ、彼らの心は一刻も安まらない。

 真実を知れば、カリフォルニアとニューメキシコをメキシコ合州国に返還し、インディオに不平等交換と詐欺の条約で奪った土地を返還して、大西洋を彷徨う白人になりたくなるだろう。心の奥底にそうした疚しさがあるからこそ、暴力や侵略や詐欺を正義の明るい事業として描かずにはおれないのだ。原爆を落とされ、世界一不利な条件で基地を置かれている日本人が、これらの映画を「痛快」と見なすとは。なんたる奴隷意識。

 しかし日本だって「悪巧み」を美しく描くことにかけては負けてはいない。肉親殺しと陰謀に塗れた皇室を「万世一系」と偽り,軽率な藩主の愚行がもたらした逆恨みのテロを『忠臣蔵』に仕立て上げ、アジア侵略を『八紘一宇』と言い募った神経は、体制の威を借り民百姓を虐げ、インド以下的低賃金と不衛生に目を背けた姿勢と裏腹なのだ。サムライやサクラと武士道は、「悪巧み」による一攫千金を美しく飾り立てる虚構なのだ。それは、美しい桜並木を道路や企業看板のためにいくらでも切り倒す政治に現れている。

 『キューポラのある街』の主人公ジュンの飲んだくれの父親は、工場を指名解雇になったにも拘わらず、妾を囲い贅沢三昧の乱脈経営を続ける経営者に諂い、飲んだくれをのために闘う若者たちに背を向けてこう言うのだ。「妾の一人や二人は男の甲斐性だ。社長とは工場が出来て以来の古い付き合いだ、悪いようにはしないと言ってるんだ。」
  見積もり抜きの言い値で、役立ちもせぬ米国兵器を爆買い、国民の不幸にはいくらでも耐える神経を持つ現政権と瓜二つだ。世界中を爆撃する米国を「それぐらいは大国の甲斐性」と言うに等しい。甲斐性とは一攫千金のことである。
 「一攫千金」は五輪金メダル狂騒で狂い咲きして、日本の政治と経済を覆い尽くしつつある。
   学力テストや身体計測は、無作為抽出で十分であって自治体から一校を、一校から数学級を選べば済む。それを自治体全校全教室で実施するのは、身体計測器関係企業とテスト業者に定期的に「一攫千金」の機会を献上するために他ならない。

 競技playerたちは企業専属契約を結び、自らの身体を広告掲示板化して収入にする。競技団体は競技場まで広告掲示板化、広告の隙間を縫うように、体中に企業名を浮き立たせたplayerが動き回る。それに同化して揃いのユニフォームに身を包みplayerやチームや「サムライjapan」と一体化するのだ。one teamと絶叫する明るく軽快なfasismが、競技団体に放映権料と広告料を莫大な収入となってなだれ込ませる。しかしこのone teamは決して連帯を生まない。常に敵を作ることで形成される「team」に自立性は要らないからだ。連帯に自立は欠かせない。
 中学生や小学生までが一攫千金を夢見て、プロの賞金稼ぎを目指しそれをマスコミは持て囃してしまう。自治体や政府までが、国際的催しやカジノの誘致による一攫千金の幻想に囚われている。災害までが一攫千金亡者に狙われている。復興予算に効果が現れないのはそのためだ。


 一人のイチローを作るために、千万単位の少年がイチローを目指し破綻する。破綻が多いだけ一攫千金の機会は大きくなる。全員が一攫千金を手にするのは不可能だが、全員が破綻することほど容易なことはない。我々はそれれを「生き神の国」日本が二発の原爆で壊滅したことで、痛切に学んだのではないか。
 普通に育てば、バイオリン好きの画家にも数学の得意な卓越した農民にもなる可能性のあった少年が体を壊し、精神を病む。
 普通教育の普通とは、何にでもなれる多様性をさしている。全面的発達とはそういうことである。『普通の学級でいいじゃないか』(地歴社刊)に僕が込めた意味はここにある。 
 イチローのように聡明な男がたった一人の一攫千金男のために、千万単位の少年の健康な可能性を殺していることに気付かない。たった一人のイチローだけでは、一攫千金は成り立たない、幾千万の失敗があって初めて輝くことを知る必要がある。凡庸な「普通」の少年/少女に子どもを育てる勇気を親は持つ必要がある。一攫千金が幻に過ぎないことを、すべての親と子ども覚った時、自由と平等は実現する。

 僕には嫌な予感がある。「大学入学共通テスト」への英語と記述式参入は、一攫千金を目論んでいた業界の受験生を舐め切った姿勢が暴露され失敗した。政治家や官僚に手と金を回していた業界の悔しさは大きいに違いない。彼らは更に大きな「一攫千金」を狙っているはずだ。それは全国の公立学校の定期試験の作成と採点を、ベネッセなどが受注することだ。その際、問題は指導要領に合わせて全国で統一する。学校現場を締め付けて得票を稼ごうとする自治体首長や文科省関係者は驚喜する。教委は世界的に批判を浴びている教師の負担を減らすと言う口実にもなる。しかし公教育は完璧に破壊されるだろう。
 ストライキで教師はこれと戦い、高校生は連帯するだろうか。
 
 かつて砂金掘りや金鉱探しが一攫千金の時代、多くの男が採掘権を買い荒野に虚しく死んだ。成功した僅かな男も、酒と博打に有り金を巻き上げられ失意のうちに死んだ。ゴールドラッシュで一攫千金を目論んだ砂金掘りは成功しなかった。成功したのは彼らにジーパンを売り、酒を飲ませ、疲れが取れると麻薬を売った連中である。
  「一攫千金」幻想で成功するのは、メダルを目指しプロ化するplayer自身ではない。放映権と入場料収入を握る競技団体及び関連商品業界である。利用され尽く疲れ果てたplayerが、メダル騒ぎ現象の実態=スポーツplayerの商品化に過ぎないことを知り、怒り行動するときから健全なスポーツは漸く始まる。

感想がつくる「よい子」は、批判や対話を生まない

権利としての子どものデモが批判精神を育てる
 殺害された中村哲医師の非武装アフガン緑化の授業が繰り広げられ、生徒たちの「いい」感想が集まっている。
 曰く「なぜこのような人が殺されるのかと、理解に苦しむ」「中村さんに、国際社会はなぜノーベル平和賞をと叫ばないのか」「日本のマスコミはこんな尊い行為を取り上げない。なぜ芸能人の馬鹿騒ぎばかりをとりあげるのか」
 これらの「なぜ」が気になる。なぜか、それは僕がひねくれているからか。
 そうではない。ヨーロッパや中南米の高校生たちなら、町に繰り出して怒りの声をあげて政府や社会に迫るに違いない。
 作文に現れる「なぜ」は、探求や行動に向かう「なぜ」ではないからだ。疑問を打ち切る「なぜ」だからだ。昔からそうだったわけではない。60年代の高校生は、ベトナムの現実を知れば、大学生の隊列に続いてデモに参加し、真実を求め集会を組織して教師を苛立たせた。50年代は世の中の不条理と小学生も闘った。「なぜ」を求められた感想の形で書き表すのではなく、社会の秩序に抗して体を使って表現した。歩き、声をあげながら、時には機動隊と揉み合いながら。

  授業で感想を書かせることに実存的意義はない。評価権を持つ者に正直な「感想」が届くわけはない。ここに生まれるのは諂いと迎合であり、対話や批判ではない。

 21世紀になって間もなくのことだった。

  Oさんは、進路指導部の面接指導を受けた。指定校推薦を受ける者は、日時を指定されて「指導」を受ける。担当教師は、予想される大学側の質問を作り答えさせて、彼女の回答の中身に介入した。それではいけないと、意見や見解の修正変更を迫るのだ。それが親切な指導であると担当者は得意だったに違いない。だがOさんは、お辞儀の角度まで指摘されて、これでは私らしい部分が何処にも残らないと喧嘩して飛び出してしまった。
 話を聞いた僕は、この模擬面接の次第をそのまま小論文にまとめて大学に送ることを勧めた。入試面接当日、三人の教員が相手だった。うち二人は、終始声をあげて笑いながらOさんと遣り取りしたが、一人は不機嫌であったという。勿論合格した。賛否半ばしてメリハリある反応を引き出す若者が、混迷停滞する学校を切り開くのである。迎合する者ばかりを集めたのでは、創造的な緊張感は決して生まれない。 先生、私たちのこと好きでしょう』2 

   面接や「小論文」は何のために入試に組み入れられたのだったか。○×や単語穴埋めの筆記テストでは引き出せない生徒たちの知性と本音を読み取る狙いがあったからではないか。
 しかし忽ち、受験産業は小論文や面接までを、対策可能な科目にしてしまった。嘘を平然と言ったり書いたりする訓練を施したのである。
 だから入試に教育的意義はない。どんな工夫も、必ず営利業者の餌食になる。

 「こう書けば、こう喋れば点数がよくなる」といいながら、生徒の表現の自由に介入することの恐ろしさを教師は知らねばならない。
 
 奢る政権や不正企業のtopの常套句『真摯に結果を受け止める』や『丁寧に説明する』が、決して対話に繋がらないように、これらの「なぜ」も、感想として書かれた途端忘れられるのである。行動を伴わないからである。
 2011年春9.11事件の半年前、アメリカHavardの学生たちの 21日間にわたる大学本部占拠闘争は、この国にも生まれるだろうか。彼らは、学内の非正規労働者の待遇改善を求めて立ち上がり、学内を組織し世間に訴え勝利しただけでなく、戦いそのものが全米の大学に広がったのである。
 彼らは大学理事会との対話をもとめて、「違法な占拠」から始めた。行儀のいい紙の上の「なぜ」では事態は変わらない。

 追記 他の国の青年や少年たちのように、自らを組織することにこの国の若者は臆病なのか。それは追って考察する。

学生自治や労働組合を弾圧した結果が現在の「政府による無政府状態」

この時期の大学にもは的緊張があった
/学生の姿勢にそれは現れている
 「大学入学共通テストへの英語民間検定試験導入の延期を巡り、本紙が首都圏の国公立大29校へアンケートを行ったところ、21校が一般選抜で民間試験を「利用しない」と回答した。・・・
 ある大学の関係者は「最初からセンスの悪い政策だと思っていた」と打ち明けた。「民間試験は、推薦など学力試験を課さないタイプの入試では一定の学力のバロメーターとして有効。しかし、五十万人が一度に受ける一般入試に導入するとは、現場を知らない人の思い付きだ」。それでも、大学として拒否できなかったといい「反対の声を上げた高校生たちには本当に頭が下がる。延期になってよかった」と話した」             東京新聞  2019年12月1日 朝刊

 民間検定試験導入について大学は自分たちでは碌な抵抗もせず、「反対の声を上げた高校生たちには本当に頭が下がる」とはむしがよすぎる。今頃になって何を言っているのか。学生運動を排除しなければ学問を守れないとほざいて、機動隊を導入したのは誰だったか。自らは現場にも現れず、警棒や盾が学生の肉を打ち砕く音も血も見なかったのだ。そんなつもりは無かったというのであれば、相当な暗愚である。「反対の声を上げた高校生たちに頭が下がる」のなら、直ちに辞任して後を彼らに委ねるのがいい。

  我々の社会には、negotiationやtalkという社会習慣が永らく無い。交渉・談判・協議 は忌避されて、善意の「対話」や「丁寧な説明」にすり替えられている。敗戦(これは2回あった)後の一時期、短い例外があった。
 外交から日常生活まで交渉し揉めることを嫌がる。bargainingまでが一律の割引であって各人間の交渉ではない。だから国際関係さえ、従属かさもなくば札束による買収。就職までが一律採用の制度をとってしまう。日本人の行事中毒・行事依存の根源はここにあると僕は思う。封建時代から続いている。
  地球上どこでもそうなるわけではない。セレベス島のある民族は、王が農民の利益に反する時王を処刑する。処刑に至るまでには様々な段階があり、談判が可能で平和は揉めることを通して実現されている。我々の「民主主義」よりは数等優れている。

  学生運動が正常な学園運営に不可欠なように、企業活動には労働組合による抑制が無くてはならない。国家が独立を維持するためには反政府勢力が必要なことは言うまでも無い。それらがすべて欠けた無残な姿が、今の従属・格差・貧困の日本である。すべての歯止めを失った国家は、かつての大日本帝国のように原爆が落ちるまで竹槍を握りしめることになる。

   ヴォルテールの「 私は君の意見に反対だ。 しかし、君がそれをいう権利は生命をかけて守って見せる」は
イエーリングの「法の目的は平和である、だがその手段は闘争である」とともに理解しなければならない。
 

 監獄には囚人組合が無ければならない。さもなくば監獄は看守の恣意が支配する無法地帯となり、囚人の更生を妨げ再犯率を高めるからだ。軍隊にも兵士組合が無ければ、いじめと体罰が跋扈し、いざ戦争の時士気は上がらず負けることになる。
 
 学生運動が活発な時代(学生の活動が活発とはセクトの台頭を意味するものでは無い。セクトはしばしば当局以上に学生の思考を凍結するからである)は、同時に大学が知的に緊張していた時期でもある。大学が学問の府でありたければ、批判的学生の台頭を辛抱強く待たねばならない。もう手遅れかもしれない、だとしても身から出た錆だ。
 僕は入試全廃しか方法は無いとみる。国立や公立学校はすべて入試をせず、進級規定を厳しくするだけでよい。卒業生は今より大幅に減るだろう。学生も教師も、愚かしい入試から開放された時、日本の大学は長い暗黒から覚めることになる。

「桜を見る会」の問題は何か、政治家は一切を透明化しなければならない。

世界一貧しい大統領 ムヒカ、車は18万のポンコツ
   賃金、年金、医療、教育など生活に密着した指標が先進国とは言えないレベルに低下し続ける中、ただ一つ先進国を抜いているものがある。「政治家の特権と優遇」である。何でも「日本が一番」を言いたがる政府や「cool japan」がこれについては語ろうとしない。「政治家の特権と優遇」についてまともな言及をしている政党は、日本には一つしか無い。
 
 国会議員には憲法で保障された特権が3つある。1つ目は「不逮捕特権」。2つ目は「免責特権」、議院外では、議院でのスピーチ、討論、表決に関しての責任を問われない。3つ目は「歳費などを受ける権利」。これらは議員が正義の立場から活動する自由を守るために欠かせないものが含まれている。
 特権の他に、さまざまな点で優遇されている。 議員報酬は衆議院議員約1977万円、参議院議員約2031万円、報酬のほかに公的文書の発送費や交通費などの名目で年間1200万円の文書通信交通滞在費。交通費については、ほぼ全線無料で乗れる「JRパス」と「航空券引換証」も支給。航空券引換証で、議員の地元と東京の往復航空券が月4回まで無料。都心の超一等地に立つ議員宿舎は格安。公設議員秘書3人分の人件費として年間約2500万円。

 杉村太蔵は、2005年衆議院議員選挙で自民党比例代表名簿の下位に名を連ねただけで当選。その軽薄ぶりが忽ちマスコミの餌食になった。何の実績も無い彼の当選が晴天の霹靂だったばかりでは無い。国会議員として手にした特権の数々に大喜びしたからだ。当選直後、テレビ番組で「黒塗りのハイヤーに乗って料亭通いしたい」などと発言たり、JRが乗り放題だと浮かれ、「しかもグリーン車ですよ!」とはしゃぐ始末。BMWがこれで買えるかも、とも言った。自民党の議員たちは彼を叱った。彼らの議員活動が、国民の権利擁護拡大より自らの利権構築にある事を覚られない為であった。

 議員の報酬を比較してみる。


国    報酬額(単位ドル)    国民一人当たりGDP    
1    日本      201,800      38,440    
2    米国   174,000        59,501    
3    韓国       105,000        29,891    
4    ドイツ     102,600        44,550    
5    英国      91.200       39,735

  英国下院の議員報酬は2019年度、年収79,468ポンド(約1,060万円)各種手当が加わる。手当に関しては専用インターネット上で詳しく公開される。スタッフ人件費、住居費などの上限が定められている。国民の誰もがどの国会議員がいくら手当をもらっているのか、カテゴリー別に一目瞭然、変な不正や浪費はできない。国会議員一人につき、平均で年間166,000ポンド(約2,200万円)かかっている。イギリスの下院議員の報酬と手当を合計すると一人あたり約3,260万円と、日本の議員の半分。 上院は伝統的に、無報酬制。

  では英国の地方自治体議員の場合はどうか。地方議員も報酬はない。僅かな手当はあるが、人口15万人のオックスフォード市の場合、基礎手当が年間4600ポンド(約60万円)、特別責任手当は1万1503ポンド(約150万円)、世話手当は1時間7・5ポンド(約1000円)にすぎない。そのため昼間働く地方議員も多く、委員会や地方議会も夕方から夜にかけて行われることが多い。従って議会傍聴には労働者や学生も参加できると言う利点もある。

 議員の行動は公費や支援者たちの政治献金に支えられるだけでなく、様々な特権に繫がり不正の温床にもなる。従って金銭の出入りは、一円に至るまで゛主権者に対して公開する必要がある。書類を裁断したなどと言う隠滅は極めて重い罰則を伴う犯罪と心得ねばならない。

 たった一円の領収書不備で、議員資格を失う制度が民主主義を支える。フランスでは閣僚が知人の不動産業者から、よい別荘地の分譲の便宜を受けたと言う疑いをかけられただけで自殺している。
彼は値切ったりなどしていない)
  ヤクザに対立候補の選挙妨害を依頼した日本の首相は、国際的な基準では既に議員でもあり得ない。その男が官僚と公費を乱用し、経費を誤魔化し、証拠隠滅をして平然としていることが仰天すべきスキャンダルなのである。首相が公選法を嘲笑っている。

 議員宿舎は都営住宅の空き室、不満を言えないはず。黒塗りの公用車は即時全廃、通勤は自転車とバスや地下鉄。料亭会食は一切禁止(習近平は高級料亭での接待を徹底的に禁じた、お陰で優秀な料理人とレストランが朝の大衆的飲茶などに使われ、料理の水準が一気に上がり値段は下がった)。グリーン車やビジネスクラス・ファーストクラスは問題外。そうなれば、議員も常に庶民の声や生活の息吹を感じることに喜びを感じない者に議員の資格は無い。。
 ヨーロッパには、手持ちの資金が無いために生活保護を受けながら、地方議員活動に勤しむ政治家もある。清貧とは何かと子どもに聞かれて、誰もが身近な政治家をあげるので無ければならない。


 ホセ・ムヒカはウルグアイ第40代大統領、ゲリラ闘争で4度の逮捕を経験。1972年に逮捕では13年も収監された。当選後も市場原理主義に反対した。だから専用機や運転手付きの専用車もなかった。国際会議の行き帰りに他国要人の飛行機に便乗したことも。

服装には思想がある 制服は道化をつくる

 「日本政府は、燕尾服とシルクハットを新年祝賀の公式礼装に制定することが適当だと考えたのである。かくて喜劇的な点では全く奇想天外ともいうべき姿が首都の街路をうろつくことになった。…それも大人だけではなく、十歳から十二歳の坊やまでがこの道化の犠牲になっている。この街頭風景と謁見控え室の一群を親しく目撃したものでない限りは、その情景を想像することはできない。しかもこれらの人々は自国の式服姿であれば実によく似合い、それどころか時としては、威厳があって気高くすら見えるのだ。」 ベルツの日記
ガンジーが燕尾服を着ていたら、大英帝国と戦えない

 お仕着せというものは誰であれ、似合わない。自らの内面を反映する外見こそが、威厳に満ちている。砂漠や熱帯の貧しい種族も、ヨーロッパ人聖職者のあてがった衣服を脱ぎ捨て、伝統的な衣服になるや輝きを増すのである
 制服を「カッコイイ」「カワイイ」と言う人が少なくないが、まさしく制服だけが「カッコイイ」「カワイイ」に過ぎな。それを着た少年/少女や業界人は、服飾業界に踊らされる道化に過ぎない。

 中学生も高校生も制服を着て「喜劇的な点では全く奇想天外ともいうべき姿」をさらす必要はない。
 「自国の式服姿であれば実によく似合い、それどころか時としては、威厳があって気高くすら見えるのだ」から。 自国の式服とは、ベルツの頃は紋付き袴を指しているのだが、時代が変わった。今、それに相当するのはTシャツにGパンである。 TシャツにGパン姿の高校生は、燕尾服の道化姿の校長たちに対して、「実によく似合い、それどころか時としては、威厳があって気高くすら見える」のだから、道化の犠牲になった校長に付き合って見苦しいまねをする必要はない。
 ベルツは東大医学部のお雇い外国人医師であった。彼は日本のハンセン病隔離に公然と反旗を翻し、ハンセン病患者と他の皮膚科患者を区別しなかった。病室も一緒であった。

商品が売れれば、戦争さえいいのか

武器は常に民衆に、特に自国の民衆に向けられてきた
 日本は、他国への武器輸出を原則禁止してきたが、安倍政権はその国是を転換。'14年4月、閣議決定でそれまでの「武器輸出三原則」を、武器や軍事技術を海外に輸出できる「防衛装備移転三原則」に変えてしまった。国民の多くは、何も知らない。
 防衛装備移転三原則の閣議決定当時、「輸出するのは、救難飛行艇や軍用救急車など、人命救助任務に使う装備が中心」などと言い、「戦争目的の武器ではない」と油断させたが。初の大型受注案件として浮上したのは、戦略的兵器とされる最新鋭の潜水艦だった。

 その裏で、2015年10月に「防衛装備庁」が新設され、官民で開発した武器を海外に売る窓口ができた。また、武器輸出ビジネスに貿易保険が適用できるよう、政府内での調整も進んでいる
 米国務省の「2015年世界軍事支出・兵器移転」報告書によれば、2002年からの10年間で、日本の武器輸入額は166億ドル、年平均で150億ドルとなり、調査対象の170カ国のうち首位となった。この数値は2位の英国、3位の韓国の合計総額に近い。

 日本は他国からの架空の攻撃を口実に武器を保有するだけではなく、商品としての武器を売るために戦争の危機をつくり煽る国になっている。利益のために戦争を待ち望むようになるのだ。売るだけなら日本は戦場にならないし、戦死者も出ないと言うつもりか。まさしく日本資本主義は悪魔化している。戦争は企業にとって麻薬である。

学校間の壁はなぜなくせないか

 「民主」を自認する教師は、ベルリンの壁崩壊を偉大歴史的事実として称賛する。しかし自分たちの籠もる学校の壁は、堅持する。
  ある日アパートの壁が突然消えて主人公が驚いていると、街中の壁が落ちている。そんな芝居があった。寺山修司の『レミング』である。「壁の消失によってあばかれる内面の神話の虚構性の検証」がこの芝居のテーマであると彼は書いている。 
 僕は高校生の時、いくつかの高校と大学の授業にもぐり込んだ。大学への侵入は容易かったが、高校では教室全体を仲間にする必要があった、出欠点呼という関門があるからだ。先ず近所の都立高校に「侵入」した。誰が休みか聞いてその男になりすまして出席点呼をやり過ごした。当時僕らは、男女共学化を学校に要求していた。女生徒がいる教室の授業は素晴らしいのではないかとの思い込みはものの見事に裏切られた。授業も平板なら質問も出なかった。逆に自分の高校の授業を評価しなければならないと思ってしまった。

 しかしだからこそ、入試や偏差値による特権を憎んだ。良い授業は、誰にも聞く機会が保証されねばならないからだ。それに目を瞑って「平等」や「自由」を言う資格はない。何か利点があるから共学を支持すると言う視点も捨てた。
 定時制高校の笑いの絶えないざっくばらんな雰囲気の中で繰り広げられる授業には魅せられた。
 僅か数カ所を覗いても、授業は多様であった。水産高校は、企業内高校は、・・・一体どんな世界なのか、塀を接した学校の内情さえ知らないのだ。偏差値で輪切りにされた環境では、付き合う友人たちの階層は限られていた。はみ出さなければ、全体に肉薄することは出来ない。僕は工場にも出入りするようになった。書店や公民館の市民講座にも耳を傾けた。どこの学校の授業も聴き、対話出来る開放的制度を望まずにはおれなかった。


 高校や大学を隔離している壁に根拠はない。なぜなら入試のない制度を持たず、壁のない学校制度の国々の学生の「質」は決して低くないからである。むしろ「工夫を重ねた万全の入試」が、若者の知的能力を疲弊させ切っているのは疑い得ない。クイズ番組出場者を量産する大学をエリート校とは誰も思わない。

 体制を隔てていた壁さえ壊れたのだ。学校を隔てている壁をたたき壊すのは容易である、為になる。そこに出現するのは「(教育制度)神話の虚構性」の醜さである。入試を通して若者の自立性を摘み取る受験産業は、文科省や国立大学協会さえ支配している。

学びへの飢餓感

中井正一は三高遊艇部で「きれい」の精神を掴んだ
 覗かれる授業をしよう。授業をサボって雀卓を囲んでいても、駅前で授業が嫌であんみつを食べていても、遙か遠くの学校の授業であっても、どうしても馳せ参じて覗かずにはいられない。そんな授業はいかにして可能か。

 寺山修司は大学を中退している。『人生劇場』に魅せられて入ってみれば、教師は自著をテキストに指定して読むばかり。下宿で寝そべって読む方が効率よく頭に入り、時間も節約できるという論理であった。(ではなぜ同じ理屈で寺山少年は高校を辞めなかったのかという問題が残る。そう、日本の高校生は怠け者で臆病なのだ、叱られたり殴られたりしなければ自己を確かめられない)
 登校して授業を受け卒業出来るのなら、テキストを読んで試験を受けて卒業してもおかしくない。入試は要らないのだ。公正な入試など、実はない。(それは正しい単一の宗教があり得ないのと同じである。ベネッセなど受験産業には自由な利潤こそが唯一の正しい宗教であるから、正しい入試はなければならない)
 そんな入試のない制度の下で、どうしても「覗き」たくなる授業、どんなに遠方でも惹き付けられるように通ってしまう授業は初めて可能となる。

 敗戦直後焼け野原となっ地方都市に、大勢の学生が荒ら屋の6畳にひしめく授業があった。岡山の旧制六高で美学を講じていた中井正一のもとに遠く京都からもはせ参じた。喰うものも着るものも読むものも履くものさえろくにないなか、全く腹の足しにはならない「美学」講義を若者が覗かずにおれなかったのはなぜだろうか。
 真理を希求する衝動は、不思議なことに空腹などの困難と同時にやってくる。衣食足って礼節を知るではない。腹が減っているのに頭は冴えて学ばずにおれなくなる。

 その後中井正一は尾道の図書館長になる。治安維持法が無くなり胸たぎる思いで文化活動を開始する。

 「人事と本の年間予算が二千八百円、私の年棒がタッタ百円の館では講師の経費は勿論出っこないから、終始独演ということになる。しかし、悲しい哉、聴衆はいつでも五人、十人である。三人位の聴衆に大きな声でやるのは淋しいというより実際悲しかった。例の広高生の槇田と、私の講義は出来る限り聴衆となろうとする七十七歳の私の母のほかは、外来聴衆はただ一人という時は、母の方が可哀そうに私を見ているらしいのには閉口した。・・・
 市は私の図書館に電気を仲々つけてくれなかった。ついに私は十二月二十八日思い切ってポケットマネーで電気をつけ、早速希望音楽会を開いた。チャイコフスキーの「悲愴」とベートーベンの「第九」という、敗戦の年の暮を一層重く苦しくするものを敢えて選んだ。百名の青年男女が、ガラス窓の破れてソヨソヨ風の吹き透す会場で、皆外套襟巻すがたで聞き入った。第九の合唱がはじまるまで、人々は壊えはてし国の悲しさが、この部屋に凝集するかのような思いであった。そのかわり、「第九」の合唱となり「ああ、友よ」と遠い敗れ去ったドイツから、二百年の彼方シルレル(第九歌詞の作詞者)、ベートーベンから呼びかけられたとき。皆、深く、頭をうなだれて、眼に涙をうかべさえしたものもあった。私も一生、あの時の如く「第九シンフォニー」を激情をもって聴いたことも、また聴くこともあるまい。私は会が終って、感動の激情を聴衆に伝えずにはいられなかった。これが一つのエポックとなって、日曜日の午後三時から毎週、「希望音楽会」をつづけたのであった。
中井正一 『地方文化運動報告』 
 やがてそれは、会費制のカント講座に発展、毎回数百人を集めるようになるのである。
「七百名の体温を満した夏の大講堂の盛んなる光景は、豊かな、豊かな、何か溢るる如きものがあった」と中井は結んでいる。
 今我々に必要なのは飢餓感だ。敗戦直後、老若男女が知識に飢えたのは、戦前戦中何も知らなかったことの痛恨の自覚によっている。無知による惨劇を繰り返さないという決意が、飢餓感に結びついている。
 今も実は何も知らなかったから、原発事故は起き、温暖化は進み、格差は激化している。問題は、決意にある。

何もかもだめな日本

 ついに日本の年金世界総合ランキング( 2019年度「マーサー・メルボルン・グローバル年金指数ランキング」)が、中国や韓国を下回った。日本は31位で先進国最下位。    アジアでは、シンガポールは8位  マレーシア18位 インドネシア23位 韓国24位 中国23位。

 マーサーは主要37カ国について40の指標を立て、年金システムが退職後の個人の財政状態の改善につながるか、持続可能かどうか、国民に信頼されているかなどを評価した。
  2019年度「グローバル年金指数ランキング」では、オランダが1位、デンマークが2位。両国はいずれも退職時に提供される資金保証でレベルAを獲得した。3位のオーストラリアのレベルはB+だった。トップ10の残りはフィンランド、スウェーデン、ノルウェー、シンガポール、ニュージーランド、カナダ、チリでこれらの国はレベルB。英国と米国はともにレベルがC+でそれぞれ14位と16位だった。 日本は、五段階中のDランク。
 cool JapanやRugbyで雇われ外人にヨイショされて傲慢になっている間に、日本は泥沼に首まで沈んで笑っている。天皇即位騒ぎに浮かれて、自らの危機気が付かない。それが君主の機能だ。


追記 2019年度報道の自由度ランキング、日本67位韓国41位

   

権力のない人間には、うそをつく権利がある

京都の商家には子どもの嘘を喜ぶ習わしがあった
 権力ある人間のうそと、無権力の人間のうそには比較できない。権力をもたない人間が抵抗するときに、うそをつく権利を奪われて、お手上げになっちゃったらいったいどうなるのか、という問題がある。権力をもたない人間からうそをつく権利を奪ってはならない。というのが武谷三男の道徳論の基礎にある。権力者の嘘は特権であり、力の無い民衆の嘘は人権である。 

 柳田国男が、京都の商家に生まれた幼児が初めてうそをついた時のことをどこかに書いている。

 子どもがお使いをする歳になった。商店街に笊を持って油揚げを買いに行く。何度目かに油揚げが一枚ない。  
  「カラスが飛んできてな、咥えて逃げていったん」と子どもは言った。家中が一寸した騒ぎになった。「ボンがうそついたでー」「そりゃめでたい」「赤飯炊きなはれ」
 こどもは油揚げを盗んだ咎めを受けるのではなく、「うそをつくほどに知恵がついた」と成長を喜ぶべき存在として認識されている。嘘がばれたのに、こんなに大げさに祝福されては、もう嘘はつけない。子どもは自分がどんなに愛されているのか実感するのだ。
 天皇権力は
、壮大なうその体系「万世一系」や「生き神」で、縁もゆかりもない熊襲や出雲まで欺した。挙げ句の果ては他国民にまで「八紘一宇」の(決して同意を求めたり討議することはなく)珍妙なうそのに巻き込み、数千万人を殺害し自然を蹂躙したのだ。

 子どもや少年/少女の「うそ」がいけないと説教するなら、まず始まりの「万世一系のうそ」から手をつけなければならない。首相が「放射能はアンダーコントロール」と平然と嘘をつくのも、オリンピック招致で「東京の8月は温暖で理想的」と笑顔で欺せるのも、「うその万世一系」に源泉がある。元を絶たないから嘘はいくらで湧き出す。
 権力ある者のうそを曝き、権力を持たない者のうそを権利として守り場合によっては代弁するのが教師の任務である。幼い者のうそを祝う文化を学校こそは持つ必要がある。
 そんな甘いこと言っていてもいいのか。大いにそうでなければならない。「あの先生だけは欺せないよ」と言われないことを恥じねばならない。甘いことを言うべきではない相手は生徒ではない、権力である。力ある者に忖度や迎合を繰り返せば、厳しい言葉は行き所を失って権力のない者に向かうのだ。

「仕事の人格化」「教育の非人格化」

大石先生は優しく泣き虫だった、子どもの成長の
全過程が彼女の教育労働の中にあったからである
 果物や農作物の土作りや種まきするとき、収穫物のイメージがある。草取り、収穫を経て食べるまでをみることが出来れば楽しい。出荷し人に食べて貰う場面を知る。その全過程が、自分の労働の中に常にあれば充実する。
 収穫の部分的肉体労働だけがあるとき、そこに収穫の喜びを見いだすことは出来ない、労働は苦役となる。全過程が自分の労働にあるとき喜びとなる。これを黒井千次は「労働の人格化」と呼んだ。

   今教師が疲れ果てて死につつあるのは、長時間労働に大きな責めを負わせねばならないが、教育という全人格的営みがズタズタにばらされ、仕事に喜びを感じられなく変質したことも無視できない。

 入学から卒業までの少年/少女の成長の全過程は、今や教師の労働の中にはない。恣意的に切断された部分だけをあてがわれて、他人の決定や意志で動く。自分の授業はもとよりテスト問題も裁量することは出来ない。創造の喜びはない。かつては草の根インテリとも呼ばれた教師には、耐えがたい苦役である。

 教育労働の分業化がまだ進まず、職員会議の民主的討議決定が保証されていた頃、僕は真夜中に生徒や保護者にたたき起こされ遠方に駆けつけていたが、若かったせいもあって疲れは溜まらなかった。

 泊まりがけの山行や合宿も、全過程が見え決定が任されているとき、疲れはいつの間にかほぐれていた。日々の実践が教育的作品として出現する喜びは何物にも代え難かった。

 今、生活指導や進路指導の主任教諭になってしまえば、移動しても別の分掌には就けない。それを専門性が生かせると強弁する者もある。愚かである、我々の労働対象である少年/少女は分割出来ないのだから。こうして、教育の非人格化は極まりつつあるのだ。教師は、今や自己を労働者として組織化することも出来ないのだ。政権や財界の狙いはここにある。その為に教育そのものが解体されることなど、彼らにはもの数ではないのだ。

 僕は『二十四の瞳』に授業の場面が無いのが不満である。式や行事だらけである。日本人の学校の記憶に授業が無いのはいいことだろうか。

首里高校が持ち帰った甲子園の土は捨てられた

沖縄球児無念の原点は「天皇メッセージ」にある
 小説の作者と読者の間には、ある種の共有空間が形成される、されねばならない。教師と生徒・学生の間にも。gameの勝者と敗者にも、共有という事がある。それが共感や連帯の根底にある。RugbyやSoccerのWカップは異なった民族間の絆を確かめたなどと言うように。
 しかし現実はどうか、game の商品性(放映権料、入場売り上げ、視聴率、新聞部数、star playerの契約金・・・)の前に、共有の事実は見事に無視されている。アマチュアであった時代のスポーツが持っていた歴史性や社会性は、もはや実態はない。首相は相次ぐ台風災害の最中、Rugbyに現を抜かして「「夢のような一ヶ月間」と言い放つ始末だ。現実逃避がプロスポーツの機能である。首相だけが逃避するのではない、国民全体がメディアを通して逃避し安堵するのだ。

   例えば高校野球では長い予選を経て、全国の仲間との競い合いが繰り広げられる。甲子園では泊まり込みだから対戦するplayerどうしや応援生徒たちにも、濃密な交歓があるのではないか期待する。
 敗退したチームが涙とともに甲子園球場の土を持ち帰るのは、恒例の美しい「青春」の光景になっている。しかし、ある高校球児が地元に帰った瞬間に「甲子園の土」は没収され捨てられてしまったことを知っているか。1958年8月31日、敗戦後初の沖縄代表首里高校の逸話だ。当時沖縄は返還前で、米軍統治下にあった。甲子園大会に、沖縄代表として初参加した。が、1回戦で敗退した。
 首里高ナイン数人が袋に詰めた甲子園の土を船で持ち帰った。那覇港で彼らを待っていたのは、甲子園の土は「外国の土」という占領の現実であった。
  この時の高校生の怒りと悲しみは、「共有」されたか。jal客室乗務員が甲子園の小石を贈った事が美談となるくらいだ、甲子園大会選手宣誓で、辺野古の戦いに思いを馳せることは考えられない。jal乗組員のすべきことは甲子園の石を集めてマスコミ上の美談の主になることではない。くり替えされる米軍基地の惨劇現場に佇むことでもいい、歴史性や社会性を共有することである。
 商業化した高校野球に歴史の「共有」などと言うことはないのだ。勝ち上がれば直ちにプロ契約金の額が紙面を飾るのだ。sportmanshipは少なくとも日本では、蘇生不可能な死語となった。山岳と漕艇だけはその例外だと期待していたが、無駄だった。 

 

少年/少女の逸脱は「精神の輝き」

靴を右左逆に履くと笑われるが、具合がいい
 隣家に幼稚園前の男の子がいて、すれ違う度に立ち止まって高校生の僕を見上げた。抱き上げて「高い高い」や両腕を掴んで大きく回転したりすると、喜んで何度もせがむ。その子に妙な癖があった。靴を右左を逆にして履くのだ。お母さんが玄関で揃えて履かせても、脱いで逆に履き直して嬉しそうに見上げて得意げであった。
 金があれば足に合った靴を買うことが出来る。しかし貧しければ、度々買うわけには行かないからブカブカのサイズを選ばざるを得ない。歩きにくい。逆に履けば靴と箸の形が一致しないから、方々あたって固定されて操作しやすく履き心地はいい。不格好で、笑われるが歩きやすいのである。

 余裕ある家庭ならば、こどもの成長が親にもよく見えるから、成長に合わせて着衣や靴だけでなく、日常のしきたりを教えたり変えたりすることが出来る。しかし貧しければ、親は食うのに忙しく成長の様を悠長に見ていられない。大雑把に世間に合わせたり、大きめなもので間に合わせてしまう。少年には不満やストレスが溜まる。

 幼児が靴の右左を入れ替えて履くように、少年/少女は万引きしたりタバコを吸ったりして、社会や学校とぶつからねばその世界の限界や形を知りようがない。だからよほど鈍感でなければ、少年はぶつかりはみ出して自分と世界の関係を確かめる。それ故少年/少女は「不良」を目指し、「不良」に憧れる。
 社会や学校が一人一人の成長や発達に無関心である時、少年/少女の逸脱は祝うべき事なのだ。


 組み体操の如き無茶を、集団的感動を強制する手段とする理不尽が罷り通る時、隣家に幼稚園前の男の子がいて、すれ違う度に立ち止まって高校生の僕を見上げた。抱き上げて「高い高い」や両腕を掴んで大きく回転したりすると、喜んで何度もせがむ。その子に妙な癖があった。靴を右左を逆にして履くのだ。お母さんが玄関で揃えて履かせても、脱いで逆に履き直して嬉しそうに見上げて得意げであった。
  金があれば足に合った靴を買うことが出来る。しかし貧しければ、度々買うわけには行かないからブカブカのサイズを選ばざるを得ない。歩きにくい。逆に履けば靴と箸の形が一致しないから、方々あたって固定されて操作しやすく履き心地はいい。不格好で、笑われるが歩きやすいのである。

  余裕ある家庭に育てば、こどもの成長が親によく見えるから、成長に合わせて着衣や靴だけでなく、日常のしきたりを教えたり変えたりすることが出来る。しかし貧しければ、親は食うのに忙しく成長の様を悠長に見ていられない。大雑把に世間に合わせたり、大きめなもので間に合わせてしまう。少年には不満やストレスが溜まる。

  幼児が靴の右左を入れ替えて履き、親を困らせるように、少年/少女は万引きしたりタバコを吸ったりして、社会や学校とぶつからねばその世界の限界や形を知りようがない。だからよほど鈍感でなければ、少年は掟にぶつかりはみ出して自分と世界の関係を確かめる。それ故少年/少女は「不良」を目指し、「不良」に憧れる。管理や規制に走るから双方心に棘を生やす。「漸く成長した」と笑って歓迎すべきなのだ。まさしく不良精神は、社会の輝きなのである。 社会や学校が一人一人の成長や発達に無関心である時、少年/少女の反抗だけが希望なのだ。


 世界にも希な体罰大国、民営化して激化する受験競争に反乱せよ高校生。共通テスト英語の民営化延期などに満足するな。入試の廃止を要求して反乱せよ。
 最もラジカルな反乱は、非日常性を拒否することだ。メダルや賞を目指すプロの激闘に陶酔する間に、自分自身の存在が極限にまで買いたたかれ打ち捨てられつつある事に、そろそろ目覚めるべきだ。他人の「栄光」は君の尊厳の代わりにはならない。
 
  

将来の地位や賞にではなく、ただ存在すること自体に価値がある

生まれ変わったら鉛管工になりたい
承前 祖父たちは、僕を強好きにする逆療法を狙って勉強を禁じたのだろうか。どうもそうは思えない。
 あるとき年上の従兄弟に、中学校を出ると高校がありその先には大学があると聞いた。そしてその中で一番は東大だと。みんな喜ぶと思い、うちに帰るやいなや「ばあちゃん、僕東大に行くよ」と言った。だが誰も全く喜ばなかった。このとき祖父は既に亡く、父は東京に、母は療養所にいて、うちの中には祖母と戦争で家族すべてを失った祖母の姉と妹がいた。つまり三人の婆さんがいた。
 三人とも声をそろえるように、「そんなこたせんでんよか」と慌てた。そして「今のままが一番よか」と言うのだった。

 「今のままがよか」の意味が分かったのはだいぶ後のことだ。
 薩摩は大藩だった。島津領内各地に出城を配し、士は藩の都合で藩内各地或いは江戸や大坂に、場合よっては琉球に転勤を命じられた。一族はバラバラにされる。転勤ばかりではない。子どもが利発であれば、江戸表や鹿児島に召される。娘が美人ならば御殿奉公を命じられる。形の上では誉れであっても、もはや生きて会うことは諦めねばならない。これが堪らなく嫌なことだった、その記憶を僕の祖母たちも引き継いでいた。戦争で身内の殆どを失った婆さんたちにとって、いかなる形にせよ別れは容赦出来なかった。 

 祖母たちは、明治生まれであったが、戦争を経て富国強兵のイデオロギーから自由になっていた。
 それだけでは無い、うちには他のうちにはある物、天皇の写真と勲章や軍帽軍刀などが無かった。祖父が僕に残したのはバイオリンと手回し蓄音機とLPの「第九」だった。

 祖父が上海から娘たちに宛てた水墨画の葉書がとってあった。路上の饅頭売りや苦力の働く様子を色付きで描いたもので、「美味しそうだが、軍医に厳しく止められいるので我慢しています」と湯気の立ち上るようすが描かれていた。兵隊や軍艦を描いたものは無かった。残念なことに火事で焼けてしまった。
 祖父は貧しい芋侍の末っ子だったから、年齢に達するとすぐに水兵に志願した。空腹に悩まされながらたたき上げて士官になり、選ばれて弾道学を兵学校で教えた。だから計算尺の操作は見事で、根っから数学が得意だった。それは江戸時代から築堤や石橋の設計・施工・管理で代々培ったものであった。

  町役場で町史を編纂していた叔父が妙なことを耳打ちした事がある。僕が中学生になり夏休みに帰省した時の事だ。 「おまえの祖父さんは、どうも大変な事をしたようだよ。海軍を辞めるとき一悶着あったらしい」

 このことを思い出すようになったのは、叔父が他界してからだ。聞きたいときにはその人がいないものなのだ。
 伝え聞いた佐世保での海軍士官としての祖父たちの生活は優雅に思えた。当番兵が付き毎朝車が官舎迎えに来る。

 その頃の家族写真を見ると、どこかの奥様とお嬢様のようである、僕の一族が最も豊かに暮らしていた頃かもしれない。祖父はバイオリンを英国皇太子の即位記念式典に参加する航海で手に入れている。祖父はバイオリンと三味線を、祖母は三味線と踊りを習っていた。絵や書にも時間を割いた。釣りや畑仕事も達者だった。定期的に階級が上がるれば収入は倍になった。将校になればこんな極楽があった。
 だが突然辞めている。祖父は砲兵士官だから陸戦には加わってはいない。いわば傍観者でもある、それ故「日本人僧侶襲撃事件」の真相を知っていたのかもしれない。(托鉢修行中の僧と信徒数人が襲撃された事件。上海市長が謝罪謝罪したが、当時の上海公使館附陸軍武官が「自分が中国人を買収し僧侶を襲わせた」と1956年になって証言している。列国の注意をそらすために板垣征四郎大佐に依頼されたものであった)少し離れて冷静になれば真相がよく見える。
 祖父は退役後故郷の旧制中学で教えたが、軍国主義的怒声が横行する中にあって決して殴らない穏やかな教師であったと教えを受けた人たちは口を揃えた。
 (祖父がどこにいても、殴らずひたすら話を聞いたのには訳がある。祖父の二代前まで、代々薩摩藩下僚として、石組みの堤や橋などの設計・計算から施工までを職務としていた。中で神経を使ったのは、工事人夫たちの掌握である。荒くれ者たちには度々揉め事が起きる。その仲裁をしなければならない、うまく行かねば工期はのび工費は嵩む。仲裁で肝要なのは裁きをつける事ではない。いかに双方の顔を立て、工事を円滑に進めるかである。ひたすら双方の気が収まるまで話を聞く。時間も酒や料理も欠かせなかった筈だ。幕藩体制が崩壊した後は権限も手当もなくなった。それでも彼らには様々な揉め事が持ち込まれるから、話を聞く気質は受け継がれた。軍人になっても教師になってもそれは変わりようがない。
 大叔母にも、親子間など身近な揉め事が持ち込まれるのを小学生の僕は何度か見た。説教されに来たと近所の人たちは言っていた。僕は説教されたのに笑顔になってお礼を言っ帰るのが不思議であった。)
 うちでは誰も軍歌を歌わなかったのそのためだし、パチンコ屋などで軍艦マーチが流れると、祖母たちは耳を押さえて「好かんがー」と走り抜けるのであった。海軍時代の部下がやって来る事も滅多に無かった。

 兵学校生、兵学校出の将校、更に海軍大学出の将軍たちの傲慢な愚かさに、祖父は呆れ国の危険を感じたのだと思う。大叔母の口癖「馬鹿の考え休むに似たり」は祖父の哲学でもあったに違いない。
 だから軍人らしさのない祖父であった。晴れれば天秤棒に大きな笊を二つ下げ、前には鍬や小さな火鉢を、後ろには孫を乗せ、シラス段丘の絶壁を登った。祖母は右手にヤカンを左手で笊の紐を握った。作業が一段落すれば、畦の茶葉を煮出したお茶で昼ご飯だった。雨が降れば、僕や妹の遊具を造った。祖母は野菜を加工して毎日お菓子作りに精をを出し。祖父母にとってあるべき幸福はそういうものであったのだと思う。父が仕事で成功を収める事は、喜びと言うより気懸かりな事であった。
 戦争の廃棄で漸く可能になった世界である。成功や出世は歓迎すべき事ではなかった。祖父は僕がバイオリンを顎に挟めるようになれば、畑で弾き方を教えるのを楽しみにしていたが死んでしまった。

 なまじの成績に釣られて欲に負ければ、そこには親族や近隣関係を解体する予想の出来ない力が加わる。アインシュタインが「生れ変わったら鉛管工になりたい」と言ったのは、ひとは誰であれ名をなせばなしただけ政治的な圧力から自由ではあり得ないからである。

兵学校で教えた祖父は、なぜ孫の勉強を禁じたか

入学まで勉強は禁じられた
 「勉強」がしたくて、僕は1時間も前に小学校に出かけた。 母や祖母が「ゆっくりせんね、急がんでん学校は逃げんが」と言うのだが、そわそわして落ち着かず小走りして出かけた。線路や田んぼの畦や水路を渡り、お寺と神社をゆっくり捲り、湧き水を飲む。誰もいない校庭を横切り、がらーんとした校舎に入る。窓を開け放って、生暖かく淀んだ夜の空気と冷たい外気を入れ換える。1日の勉強が始まる瞬間を待つ興奮があった。
 入学前は、数字を12までと名前のひらがな7文字だけ教えるのが祖父たちの方針だった。だから大人たちが新聞や雑誌を読んでいる側に行って、知っている字と数字だけを指差しして読んで読んでいるつもりになっていた。
 ある時カレンダーに12より先があるのを知り「こんた何ね」と聞いたが、祖母たちは「知らんでん良か、学校に上がれば勉強すっじ」て言うばかり。こっそり他所のおじさんに聞いて31まで覚えた。それ以上の数字は小学校入学まで知らなかった。ひらがなは駅名の表示を見て憶測した、例えば「しぶし」と書いてあれば、駅で既に覚えた「し」と「し」の間を指して「こんた、「ぶ」ね」と聞けば、側の大人が「じゃが、じゃが」と首を振るので僅かに増えた。
 だがうちの大人は、子どもは遊ぶのが仕事と、教える事を徹底的に抑制した。朝は鶏が縁の下に産んだ卵を集め、漁港のおじさんに魚を貰い、夕方には五右衛門風呂の水を井戸から汲み火を焚き付ける。それ以外は遊ぶ姿を見せれば、手作りのおやつが待っていた。
東京に出て驚いたことの一つに、おやつは店で買うものになっていた事がある。人間や生活が軽く見えた、東京は広いが薄っぺらいと思った。)

 4月の入学が迫ると「よかねー。もうすぐ一年生やねー。勉強出来っど」と方々から声がかかる。さぞかし勉強は楽しいことだろうと、堪らず自然に笑顔になっていた。その頃の記念写真があるが、妻が「こんなに嬉しそうな子どもの写真は初めて見た」と言う。一緒に写っている妹は、撮り直しが続いてすつかり疲れた顔で写っている。僕はカメラの横の大叔母に撮り直しの度に「よかいねー、いっき勉強出来いねー」と声をかけられ最後までご機嫌だった。
 
 入学すれば、その日のうちに授業が始まるとの期待は大きかった。それだけに延々と続いた式に、僕はすっかり疲れ切ってしまった。だから記念写真では僕一人が不機嫌な顔をしている。次の日も次の日も授業は始まらない。僕は裏切られた思いで落ち着かず、消しゴムをナイフで刻んで投げたり、前の女の子のお下げを引っ張ったり、勝手に立ち歩いたりするようになった。先生は困ったと思う。一週間位して初めての参観日があった。僕はその日も立ち歩いていて母は、顔から火が噴き出しそうになったという。立ち歩いているのは二人だったが、先生はプリントを二人に何枚も渡して「みんなに配って頂戴」と指示され、担任と三人で手分けして配った。それから先生は、徐に「さあ、席に戻りましょうね」と促したそうだ。素直に席に着く二人を見て、参観の母親たちは感嘆の声をあげたという。この先生は熊本大学を卒業したばかりの松本先生であった。

  「もういっき学校やねー。勉強出来いねー」と言われる度に嬉しさを隠しきれない僕を見て、妹も勉強は楽しいと思ったに違いない。勉強が軌道に乗るようになり僕が学校から帰ると、ちゃぶ台を出しノートをひろげて「お兄ちゃん勉強おしえて」とせがむ。僕は一刻も早く近所の友達と遊びたいのだが、母が「教えてご覧」と縫い物しながら言う。大急ぎでその日の授業を思い出した。毎日僕は「名前を呼ばれたら元気に手を上げて返事をしましょう」から始めて、お復習いをした。窓から覗き込んでいた
近所の友達の名前を呼ぶと、彼らも嬉しそうにハーイと返事をした。遊ぶ前に勉強するのがこうして習慣になった。先に遊ぶと落ち着けないのだ。
 しかし貧しく、二年続けて差し押さえられた。米にさえ不自由し、三年生になる前に母は結核で血を吐いた。特効薬はまだ普及していなかったから、療養所だけが頼みの綱であった。父は仕事のために上京、僕と妹は生まれ故郷の祖母の家に戻った。

 生まれ故郷では、親戚か知り合いだらけである。知り合いを黙って通り過ぎようとすれば、「寄って行かんね」と叱られてしまう。下校時にはどこかを回るのが日課になった。「先に宿題やろう」が僕の口癖だったから、おばさんたちにはことのほか歓迎された。
 宿題が無く偶に早く帰ると、先に戻った妹が祖母たちの前でお復習いをしていた。正座して教科書を前に突き出して行儀良く朗読している。近所の遊び仲間がやって来て「なおちゃん、はよー、はよー」と遊びに急かす。ランドセルを置いて出ようとすると「今日やったところを、婆ちゃんたちにも聞かせんね」と祖母たちに引き留められた。強引に妹のお復習いに割り込んで、超特急でお復習いをした。おかげで僕はとびきりの早口になった。東京に来て国語の読み方をさせられると、いつも教室が大笑いになるのだった。「早すぎて目が追いつかない」と言うのだ。しかし早読みの癖は直らなかった。 
 町に一軒だけの洋菓子屋の
ケンちゃんにもよく誘われた。宿題が終わるとケンちゃんが、下の店から菓子パンやケーキを運んで来る。暫くするとおじさんが「ありがとう」とニコニコしながら紅茶を持ってきてくれるのだった。「ケーキ屋けんちゃん」がTVで始まったときは驚いた、ケンちゃんの顔も店もよく似ていたからだ。
 
 東京に親戚は無かった。転校当日から、隣の女の子が算数で困っていたので「こうするといいよ」と教えた。彼女はその時初めて、勉強を楽しいと思ったそうだ。休み時間にも教えていたから、周りの子が覗きこんで怪訝な顔していた。近所の遊び仲間の家でも一緒に宿題をやった。やっぱりおばさんたちにはかわいがられた、宿題を先に片付けるからだ。中学生になっても続いた。勉強という単語が「嫌な事を我慢」するという語感を含んでいるとは思いもよらなかった。
                      続く

達成感なんか糞食らえ / 「個人の存在の尊さ」の前には、如何なる達成感であれ出る幕は無い

教室で子どもたちは国家目的達成感に酔う日々を送った
 親も教師も生徒までもが組み体操を止められない。まるで薬物中毒のようだ。死者は既に9人も出ている。学校でやらねばならぬ事柄ではないのに、死傷者を出してまでやる理由のうち最も多く頑強なのは、「達成感」と「涙」である。何だ達成感とは。      
 まず思い出すのは、南京に攻め入った陸軍将校による「百人斬り競争」である。当時の全国紙のトップを飾った事から異様な「達成感」に新聞人までもが汚染されていたことが分かる。もう一つは、太平洋戦争中小学校の教室に貼られた「大日本帝国」地図である。大本営の発表に合わせて子どもと教師が地図上に日の丸を入れた。教室で国家的「達成感」は日々作り上げられていたのである。占領すれば日の丸、攻撃すれば爆弾が付け加えられた。
 現地の民衆が味わう惨劇や兵隊の死に様は掻き消されて、領土の膨張が子どもと教師に脳内麻薬を分泌、いつの間にか中毒していた。そうでなければ、神宮外苑での学徒出陣光景は考えられない。この大会を主催したのは文部省で会った。同様の光景は各地で繰り広げられた。

   ナチス支配下の白バラ抵抗の気配はどこにも無い。イタリアや占領下フランスのようなパルチザン闘争も無い。
 権力民衆一体となった途方もない「達成感」が演出された。それが一億総玉砕のスローガンを産み、竹槍でB29に対抗する絶望を準備さた。どこまで行っても「やめた」を言えない。「バンザイ」しか言えない。

 皇族や将軍たちの子弟は、戦死もせず爆撃にも遭わず広大な邸宅の中で数百人の使用人に傅かれ飢える事も無かった。にも関わらず、焼け出され肉親を殺され飢ても民衆は、地位と特権塗れの大邸宅を襲う事もしなかった。民衆を搾取して蓄えた富を、民衆が回収し民衆の共同資産化する事は正当な行為である。食糧政策に欠陥があればなおさらのことだ。なぜ個別行動に走ったのか、不思議なことだ。敗戦の混乱の中で民衆は食料の確保を共同化する知恵に欠けていた。個別に警察の取り締まりをかいくぐって、農村に買い出しに出かけた。満員で乗れない列車の屋根にまで乗る危険で実り少ない民衆同士の不毛な争奪戦であった。
 都立高校では買い出しのために「買い出し休暇」が制度化(後に研修日となった)された。なぜ「買い出し」を共同化しなかったのか。共同化出来なかった思想的弱さ、その延長線上にあるのが有害無益な偏差値競争である。学ぶことを国民共同の権利として、定員制も入試も廃止する。現在個別の家庭や若者が強いられる労力も費用もどんなにか軽減されることだろうか。国民経済全体で計算すれば恐ろしい数字になる。偏差値競争で実現されるのは、合格発表掲示板前で演じられる達成の涙だけだ。
 
 それが国家管理による「達成感」に踊らされ挙げ句に脳内麻薬に中毒した結末だ。
 必要なことを個人や集団で討議決定し実行できない精神と肉体になった。会社や学校で繰り広げられる「ノルマ」達成キャンペーンは、それを引き継いでいる。

 決定や判断は「お上」だけがする、民衆はひたすら従順に従う。行動の本質には関与できないが、その実現に向けて頑張ることしか出来ない。それを奴隷と言うのだ。
 その過程で我々は、人はすべて「存在自体が尊い」という感覚を忘れてしまった。地位やメダルや勲章や偏差値やギネスブックに平伏せば、いつの間にか存在するだけの自らには価値が無いと思い込む。
 「存在の尊厳」を感じるには、静かで落ち着いた生活が絶対条件だ。自分の子どもや連れ合いの尊さが、
生きている事実だけで感じられないなら、政治の貧困に目をむけて怒りをぶつけろ。たかが「達成感」のために、死者や怪我人を出してまで「涙」を流すのは倒錯に他ならない。
 
 他民族の生活領域を爆撃し占領し強姦し、挙げ句の果てに餓死するために「達成感」は使われた。今も新たな企てのために、達成感は仕組まれている。要らないのだそんなもの。 憲法第13条の「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」 は、存在自体の尊さを擁護している。

 

いつまで君主制に騙されれば目が覚めるのか

負けないぞと胸をはって、手をつないで 
ピケを張っているのは新しい主権者だ
 1951年11月12日、昭和天皇の京都大学に来ることになった。学生たちは天皇宛の質問状を取り次ぐよう学長に要請したが、学長はこれを拒否。ならばと学生らは天皇に直接手渡そうとしが、警官隊が入りこれを阻止、騒ぎとなった。左の写真にはその質問状の一部がある。

公開質問状

私たちは一個の人間として貴方を見る時,同情 に耐えません。
 例えば,貴方は本部の美しい廊下を歩きながら,その白い壁の裏側は,法経教室のひびわれた壁であることを知ろうとはされない。
 貴方の行路は数週間も前から何時何分にどこ,それから何分後にはどこときっちりと定められていて,貴方は何等の自主性もなく,定まった時間に定まった場所を通らねばなりません。
 貴方は一種の機械的人間であり,民衆支配のために自己の人間性を犠牲にした犠牲者であります。
 私たちはそのことを人間としての貴方のために気の毒に思います。
 しかし貴方がかつて平和な宮殿の中にいて,その宮殿の外で多くの若者達がわだつみの叫びをあげ,
うらみをのんで死んでいる事を知ろうともされなかったこと,又今と同じようにすぢがきに従って歩きながら太平洋戦争のために,軍国主義の 支柱となられたことを考える時,私たちはもはや 貴方に同情していることはできないのです。
 しかし貴方は今も変わってはいません。名前だけは人間天皇であるけれどそれはかつての神様天皇の
デ モクラシー版にすぎないことを私たちは考えざるを得ず,貴方が今又,単独講和と再軍備の日本で かつてと同じやうな戦争イデオロギーの一つの支柱として役割を果たそうとしていることを認めざ るを得ないのです。
 我々は勿論かつての貴方の責任を許しはしないけれど,それよりもなお一層貴方が同じあやまりをくり返さないことを望みます。
 その為に私たちは貴方が退位され天皇制が廃止されることを望むのですが,貴方自身それを望まれぬとしても,少なくとも一人の人間として憲法 によって貴方に象徴されている人間達の叫びに耳 をかたむけ,私達の質問に人間として答えていただくことを希望するのです。

質問
一 もし,日本が戦争に巻き込まれそうな事態が起るならば,かつて終戦の証書において万世に平和の道を開くことを宣言された貴方は個人としてでもそれを拒否されるように,世界に訴えられ る用意があるでしょうか。
二 貴方は日本に再軍備が強要される様な事態が起った時,憲法に於て武装放棄を宣言した日本国の天皇としてこれを拒否する様呼びかけられる 用意があるでしょうか。
三 貴方の行幸を理由として京都では多くの自由の制限が行われ,又準備のために貧しい市民に廻るべき数百万円が空費されています。(孫の即位には160億円)
 貴方は民衆のためにこれらの不自由と,空費を希望される のでしょうか。
四 貴方が京大に来られて最も必要なことは, 教授の進講ではなくて,大学の研究の現状を知り,学生の勉学,生活の実態を知られることであると思いますが,その点について学生に会って話し合っていただきたいと思うのですが不可能でし ょうか。
五 広島,長崎の原爆の悲惨は貴方も終戦の詔書で強調されていました。
 その事は,私たちはまったく同意見で,それを世界に徹底させるために 原爆展を製作しましたが,
 その開催が貴方の来学を理由として妨害されています。
 貴方はそれを希望されるでしょうか。又,私たちはとくに貴方に それを見ていただきたいと思いますが,見ていた だけるでしょうか。

私たちはいまだ日本において貴方のもっている影響力が大であることを認めます。それ故にこそ,貴方が民衆支配の道具として使われないで,平和な世界のために,意見をもった個人として,努力されることに希望をつなぐものです。
 一国の 象徴が民衆の幸福について,世界の平和について何らの意見ももたない方であるとすれば,それは 日本の悲劇とあるといわねばなりません。
 私たちは貴方がこれらの質問に寄せられる回答を心から期待します。

昭和二十六年十一月十二日
京都大学同学会
天皇裕仁殿

  彼は悪い音質の放送の中で確かにこう言ったのだ。

・・・敵は新に残虐なる爆弾を使用して、頻に無辜を殺傷し、惨害の及ぶ所、真に測るべからざるに至る・・・
 アジア各地で「頻に無辜を殺傷」の「残虐な」作戦の責任を負うべき男はこう言ったのだ。2000万を下らない人命を奪っただけではない、京大に来る遙か前の1947年9月には「米国による琉球諸島の軍事占領の継続を望む」とのメッセージを占領軍に届けていたのだ。
 無論質問を書いた理学部の中岡哲郎はその事実を知らなかった。何しろ天皇自身と取り巻き以外は誰一人知らなかったのだ。

  この日、詩を印刷したビラもまかれた。

あれが 雲の上から 降りてきて神様だと名のったものの あとつぎだ
神話と童話は要るけれど 
夾竹桃の花々に歌って踊る小鳥と小人
親指姫と一寸法師の 流れる小川はいるけれど
可愛い小さな矢をもって 恋の弓射るキューピット
真赤な頬はいるけれど
何千年の昔から 何万人の人民の血と汗と油を沼に流しこみ
勝手に殺して知らぬ顔 そんな神に用がない
それにへつらうダニの群 汚れた神のダニはいう
それが〝人間の子だった〟それが〝精神の支柱〟だと
あなたが本当の神様に神様らしい人間になりたいのなら
そのダニを 一匹一匹つぶすのだ
だまされないぞふたたびは
生きゆくことの喜びと赤い血潮の高鳴りをもう勝手には消させない
立上る 立上る民衆の 自由 平和
独立の歴史の姿にこだまする あのたくま
しい歌声を人間ならば聞くがよい
神の子ならばなおのこと
一緒になって歌うのだ
            京大反戦平和詩グループ

  「だまされないぞふたたびは」と詩に書き付けた時、既に欺されていたのだ。その孫が位に就いたことを祝うパレードが、巨大台風災害の惨状におののいて延期されたと言う。なぜパレードの中止や制度自体の廃止ではないのか。京大生の質問は、今なお有効である。

 日を改めてパレードするという。その時、新しい天皇の祖父が望んだ「米国による琉球諸島の軍事占領の継続」の実態に思いを馳せる者はどれほどいるのか。破顔の皇族と政権首脳、それに熱狂する民衆と資本。その姿はこの民が、だまされる側からだます側に位置を変えた事を白状するのだ。

苦汁を分けてのむ / 台湾二林事件と蔗糖問題

台湾市街で演説する布施辰治と簡吉
 1925年5月に施行された治安維持法を適用した最初の事件は、25年11月の66人が検挙された第一次朝鮮共産党事件である。時期も場所も根拠法令も互いに関係のない雑多な事件を無理矢理集めた裁判で、30ヶ月に及ぶ残忍な取り調べで障害者や獄死者まで出している。裁判への反感が、当局の意図に反して被告や共産党への大きな共感を組織したのである。弁護人に後の大法院長や李承晩独裁政権の法務大臣が立ったことで示される。
 1919年の「二・八独立宣言事件」弁護を、独立運動に敬意を表す立場から引き受けた事のある布施辰治もこの裁判に駆けつけ、朝鮮人から「われらの弁護士」と呼ばれた。
 その布施辰治は台湾にも、弾圧に苦しむ農民と「苦汁を分けてのむ」決意とともに弁護に駆けつけている。

 「ある台湾人日本軍兵士が見た南京大虐殺」←クリック   で台湾の農民たちを収奪し尽くした日本の製糖資本について書いた。農民組合が組織され抵抗運動が起きた。中でも二林という村落を舞台にした騒擾事件は、全台湾の注目を浴びた。その時の報告が残っている。

 私(布施)は、去る三月十四日出発、四月二日帰着、二十日間の日程で台湾に行ってまいりました。
主要な任務は、台湾の農民運動に画期的な刺激を与えた庶農組合対林本源製糖会社の二林騒擾事件弁護のためでありました。 ・・・
 事件記録によって二林騒擾事件発生の動機を要約すると、それまで最も会社側の横暴に苦しめられていた、
  ①肥料の強制売りつけ
  ②買上価格未協定甘蔗刈取収納
  ③収納甘蔗秤量立会拒絶の三つの施策に対する三か条の抗議にその原因を発しているのであります。
 以上の二点の施策は、単に題目を見ただけではちょっと想像できないほどひどいもので、①肥料の強制売付というのは、未だ台湾には肥料法が実施されていないのを奇貨として、会社は、勝手な調合肥料を特製し、あえてその効力があろうと無かろうとを問題とせず、いやしくも会社所属区域庶作民に強制的にこれを売つけておいて、最後の甘蔗収納売付代金から差引かれる。そのために蔗作農民はせっかく自作した甘蔗を事実上只取りされる。このことに対する抗議として、肥料の自由購買を要求したのであります。
 ②買上価格未協定甘蔗刈取収納というのは、蔗作農民の自作甘蔗は、どこからどこまでの分を何会社に買い上げてもらうということに官憲からの指定があり、万一これに違反したときは罰金に処されることになっているので、あらかじめ買い1げることに決まっている会社が、未だ買上価格協定の無いうちに、会社の都合次第で勝手にこれを刈取収納し、しかるのち庶作農民へ今年度の甘鷹はイクラという価格を発表し、①の強制的に売り付けた肥料代も差し引けば、会社で勝手に刈り取った甘蔗刈取苦力賃までも農民持ちに計算されるために、これまた買上の計算はつけられても事実上蔗作農民の手に金は入らないことに対する抗議として、甘蔗刈取収納前価格協定を要求したのであります。
 ③甘蔗収納秤量立会拒絶というのは、会社側が買取収納した甘蔗が何万何千斤あったかを秤量するときに、蔗作農民が立ち合わせてくれといっても、会社側は、売主たる蔗作農民に立ち合わさせず、買主たる会社側のみで勝手にどの畑からは何千斤、この畑からは何千斤刈り取ったということを決定するのは、あまりにひどいということで、それに対する抗議として、秤量立会を要求したのであります。
 どうです、何人といえども、以上三点蔗作農民組合から抗議した要求の、あまりにも当然にして、会社側の従来の横暴さに驚かないものは無いでしょう。にもかかわらず、会社側が、こうした薦作農民側からの要求を一蹴拒絶したために起こった事件なのだから、二林騒擾事件被告同様、製糖王国の横暴に苦しめられている台湾全島の蔗作農民は、当面の被告として法廷に拉致された蔗作農民のみが裁判を受けているのではなく、全島の蔗作農民一同の利害と一致するものとして、今後の蔗作問題がどうなるかということを、注目懸念しているのであります。
 渡台に先立って、私は、単に法廷に拉致された二林騒擾事件被告のみを弁護するばかりでなく、台湾全島蔗作農民のためにも法廷外の弁護をする必要を痛感しておりました。渡台を機会に、無産階級解放連動促進の講演会を開催してはどうかという議があり、私も精力の続く限り、時間の許す限りその希望に応ずる考えでしたから、滞在の日程は誠に短かかったけれども、寸時の無駄もなく、左記のごとき日程で、法廷弁論の三日間とともに21ヶ所30回の講演をして帰りました。(日程省略)
 この間示された台湾無産大衆の熱意は、実にすさまじいもので、いたるところ講演会を埋めた大衆の気勢は、それ自体が農作問題に対するデモンストレーションであったと思います。
 ここに真の裁判というものがありうるとしたら、この間題に最も直接の利害と感情とを共有する台湾熊産大衆の熱気こそそれでありました。講演会の雰囲気は、二林騒擾事件を社会的に裁くと同時に、二林騒擾事件を裁判した裁判官をも社会的に裁く、はなはだ公正かつ厳粛なものであったことを喜ばしく思いました。 ・・・ 布施辰治『進め五年五号1927年5月』

   この事件で布施辰治を助けた簡吉は、教職を辞して台湾農民組合を組織して、幾度もの投獄にも屈しない青年であったが蒋介石に殺されている。

 映画『非情城市』はこうした背景を知って見るとよい。群衆の一人一人が立ち上がってくる。
 

 台湾人たちが今なお「感謝」しているのは、総督府の植民地支配に抗した布施辰治らの活動に対してであり、「支配」一般に対してではない。

作り方では、日本国憲法は「土人」に遠く及ばない

吹き抜けの開放的小屋が制憲議場
 ギルバート諸島が1978年に独立(いろいろあって独立後は、英連邦のキリバス共和国となった)するとき、憲法制定議会が組織された。
 第一次世界大戦で独国が敗れて日本は易々と戦勝国となり、独国支配下の島々の一部を国際連盟委任統治の名目で占領した。名目にすぎなかった事は、国際連盟脱退後も居座ったことで分かる。ヨーロッパ人が来る前に人は住んでいた。島に生まれた人たちにとって、英国であれ、ドイツであれ、日本であれ、米国であれ「みんな、こちらには断りなしにやって来ましたよ。勝手に自分の国の旗を立てた」闖入者である。日本人は島民をこき使って道や滑走路を作り戦闘機を置きムラをつくりサトウキビ畑を造り、泡盛を作り輸出して儲けた。島始まって以来の「繁栄」を実現したと日本人は胸をはる。挙げ句の果てに米軍と滑走路を巡って殺し合って、玉砕した。島民も数千人が殺された。しかし、島民は、そんなこと頼みはしなかった。
 「あんまり働くと病気になる」という生き方を貫くキリバス人。遠くから高い費用を払って飛んでくるほどの美しい自然の中に、伊勢エビも貝も魚も主食のパンの実もジュースも新鮮なまま溢れている。何時も愉快に歌い、飲み、食べる。
  しかし日本企業の現地社員たちは、彼らを怠け者とは言わない。よく働き優秀だからだ。
 
 たくさんの特徴がある島国だが、何より素晴らしいのは制憲過程である。ギルバート諸島は植民地だったが、自治権を認められ政府を持ち大臣もいた。

 「「憲法制定会議」というからにはいかめしく守衛がとりまいているのかと思ったら、そんなことはまるっきりなかった。シャツに半ズボン、ゾウリバキのスタイルで私もそこに行って、はしっこのゴザに腰を下ろした。誰かがもの静かに話をしていた。残念ながらギルバート語なのでかいもく判らなかったが、なかなか雄弁のように見受けられた。若いのはあまり見えなかったが、年よりもいれば女性の姿も見えて、なかなか多彩な感じがしたが、多彩といえば、ときどき私のようにのぞきに来る野次馬のほうも多彩だった。ゾウリバキも来れば、ハダシも来る。上半身まるはだかのものぞきに来たし、犬もやって来た。そのときには気がつかなかったが、あとで記録用にとっておいたテープをきいてみると、ニワトリの声も演説の声にまじって入っていた。
 三百人はもう一月もそこでそんなふうにニワトリの声の伴奏入りで会議をして来ていたのだが、中部太平洋に大きくひろがって点在するいろんな孤島からやって来ているのだった。いちばん遠いところはタラワ島から三千キロはなれたクリスマス島からやって来ている参加者もいて、そういうのは何日.もかかってはるばるとやって来ているのである。各孤島から五人あて来ていて、 内わけは島のお役所の人ひとり、協同組合からひとり、.あとは老人代表、女性代表というぐあいに、いかにも島の住民代表という感じが強い。
 たしかに見ていると、その「憲法制定会議」は住民大会といった印象がした。ひとにぎりのえらいさんたちがどこかの密室に集まって勝手に方針をきめるというのではなく、住民が集まって、その開けっぴろげのかくしようのない場所で、みんなでチエを出し合って自分たちの未来をきめる。-こういうことは、今ようやく日本でもあちこちで人びとが始めていることだが(小田実がこれを書いたのは1970年代の終わり頃である。1971年美濃部知事が選挙で圧勝、各地に革新自治体が出来、4500万人が革新首長の下で生活していると言われた。遙か昔のような思いに囚われる)、それを国家の規模で、国家の基本をさだめることについてやってのけようとしている。
 「憲法制定会議」を見ているうちに思い出されて来たことがらは二つあって、ひとつは日本のあちこちで見たそうした住民大会の光景だが、もうひとつは、日本国の憲法をつくるにあたって、私たちがこういう住民大会を一度でももったことがあるかということであった。昔の「明治憲法」が、伊藤博文やら何やらが勝手につくり出した憲法であることは言うまでもないことだろうし(第一、国民は憲法発布の日まで、その中身について一言半句も知らされていなかった、当時日本にいた西洋人が、あわれにもこのヤバン国の国民、中身の何んたるかを知らずして発布を祝うと日記に書いていた)、今の「新憲法」だって、中身はわるくないにしろ、でき上るまでの過程は同じようなものだ。とすると、ギルバート諸島と日本、どちらが進んでいて、どちらがおくれていることになるか」小田実『世界が語りかける』

 小さな国の幸福を感じる。

 だが出来上がるまでの過程という事で言えば、高校と言う小さな世界の決まり=校則でさえ、職員会議が勝手に作るものであり続けている。今や管理職が教員の意向さえ無視して一握りの取り巻きだけで作る。守る従順性だけを押しつけ、守らない者を罰する矮小な事が教員の仕事になってしまった。とても先進国や文明国の草の根インテリの仕事ではない。
 我々は小さいことの利点さえ生かせないのか。坂本龍馬や吉田松陰など「偉人」を有り難がっている限り、ひとり一人が自立した思想を持つ用になるのは至難だろう。
 
 キリバス共和国に軍隊はない。

20年後を見通す政策を立案する賢明さはどこから来るか

妊娠中絶合法化で20年後の若者の犯罪率が低下した
 栃木県の認定こども園で、保育教諭らが、2歳児たちに「死んでしまいなさい」と罵り、食事やトイレの際にも「廊下に出ろ」「邪魔」「うるさい」などと暴言を吐き、園児を明かりのついていない教材室に入れたこともあったという。
 こども園は保護者に謝罪、当該園児宅を個別訪問し謝罪した。件の保育教諭2人は退職。園長は「園児や保護者に不快な思いやつらい思いをさせ、申し訳ない。今後は職員間の風通しを良くし、保護者に安心してもらうためのカメラを設置するなどして、再発を防止していく」と話したと新聞などは報じた。   2019年7月31日

 日本では子どもの虐待死が年間50件を超え、2017年度の虐待死は65人。(厚労省社会保障審議会の児童虐待に関する専門委員会)  死亡した子供の年齢は0歳児が28人と最も多い。加害者は実母が25人、実父が14人。また16ケースは「予期しない妊娠・計画しない妊娠」だった。
  2018年度、児童相談所での虐待相談対応件数は全国で前年度比2万6072件増の15万9850件と過去最悪、統計を取り始めた1990年度から28年連続の増加。

 児童虐待によって生じる社会的な経費や損失は、日本国内で少なくとも年間1兆6000億円にのぼるという試算がある(2012年度)

  栃木のこども園では「死んでしまいなさい」と子どもが叱られていたのに園長は数ヶ月も気付いていない。この園長は普段は園のどこにいたのか。子どもや保育の現場が、好きではない事が分かる。風通しや監視カメラの設置で済むわけがない。
 子どもや現場が好きである事と、教育行政が乖離したのが事の発端である。かつて校長や教育委員会の教育長、教育委員会事務局の指導主事にも教育免許状が必要であった。 教育委員の公選制廃止以降も、日本の教師はよく闘って公教育制度の民営化や権力の介入を防いできた。一方ベトナム反戦闘争でも大きな力を発揮して、学生たちを鼓舞して「頭は白いが胴体は真っ赤」と言わしめた。だが、教員組合の組織率の低下は如何ともし難く、教研活動(80年代半ばには、教研集会報告に生活指導が目立ちはじめると共に、教科実践報告が少なくなっていた)も低迷、組合の白くなった頭は教育行政と一体化してしまった。日教組が主任制反対闘争から降りたのは95年、職員会議での採決禁止が98年であった。こども園だけではない、あらゆる公教育機関が、権力と利殖の低次元な舞台と化した事の表れが栃木の事件である。直ちにやるべきは、監視体制の強化ではない、監視体制の行き着いた先が、神戸の小学校教師のいじめ事件である事を知らねばならない。

 教育行政がその姿勢を、教育と子どもに向きを変えなければ、事態は解決に向かわない。教育行政当局が、教育愛に燃える、こんなに絶望的なことがあるだろうか。
 厚労省の報告にあるように、児童虐待の最大の要因は「予期しない妊娠・計画しない妊娠」である。望まない・望まれない妊娠と犯罪率の関係には、スティーヴン・レヴィットの研究(邦訳『やばい経済学 東洋経済』)が既にある。
 
 妊娠中絶が合法のニューヨーク州、カリフォルニア州、ワシントン州、アラスカ州、ハワイ州では、他の州よりも早く犯罪が減り始めていた。凶悪犯罪で13%、殺人事件では23%減少していた
(1994~1997年)
   1973年テキサス州の「ロー対ウェイド」裁判以降、妊娠中絶合法化が全米へと広がり、一年間で75万人の女性が中絶を受け、さらに1980年には160万件まで中絶件数が増えた。その結果、子殺しの件数が劇的に減り、できちゃった結婚も減り、養子に出される子どもも減少。
 そして「ロー対ウェイド」裁判から20年ほど後の1990年代初め、犯罪発生件数自体が劇的に減少したのである。恵まれない環境で、幼少期、少年期を送った子どもたちが、犯罪へ走りがちな若者の犯罪が明らかに減った。

 幼児虐待が効果的に減少するには、「予期しない妊娠・計画しない妊娠」による親の犯罪を直接止めると共に、「予期しない妊娠・計画しない妊娠」によって生まれ十分な愛情の元で育てられなかった世代がなくなるのを待たねばならない。それは少なくとも20年はかかる。
 気の短い議員がマスコミ受けを狙って、行政当局に求める性急な対策は一見効果がありそうだが、当該議員の短期的人気を高める以外の効果はない。20 年以上たって漸く効果が見えてくる政策、それが社会政策である。

便利さは、人間や組織の能力だけでなく倫理も破壊する

分析を外部に依存する政府の元で成長は絶望
 危険な金融商品売買を支えているのは信用格付け会社であると、米上院ウォーレン上院議員が連邦政府の証券取引委員会=SECに警告を発している。ゴールドマンサックス社が引き起こした金融メルトダウンの犯人は,、信用格付け会社である事は米議会が既に指摘していた。その犯人信用格付け会社を監督するのが、連邦政府証券取引委員会。それが規制をサボっているのである。

 その信用格付け会社の格付けが高いというだけで怪しげな金融商品を買い漁る日本の金融機関を日本の行政は放置している。銀行に行けば定期預金の金利は余りに低く、例えば中国の銀行の普通預金口座金利をも遙かに下回っている。
 政策的に金利を下げておいて金利が低いことを根拠に、窓口は投資を勧める。その安全性の根拠にしているのも、米信用格付け会社の格付けである。自社で自分で分析するのではなく、海外の営利機関のランキングを誇らしげに見せつける。そして損益が出れば、自己責任を言う。「説明したでしょう」と言うわけだ。銀行は信用格付け会社の格付けを利用したことの「自己責任」には決して触れない。銀行にとって信用格付け会社の格付けは、顧客を欺すには便利だ。もっと大きな責任は、米国に脅迫されて金融「自由化」に踏み切った政府にある。
 子どもの貧困率は、抜きん出て高い。(前回調査(2012年調査)よりわずかに低くなったことを根拠に、「アベノミクスで貧困が改善した」といい包めた。しかし、相対的貧困率は、全国民の所得の真ん中(中間値)を基準に、その半分の層を「貧困層」と定義し、全体に占める割合を示したもの。2012年から2015年の間に数値が変動したのは、中間層の所得が落ち込んだため、「貧困層」の割合も減ったように見えたためで、困窮の実態は変わっていない。むしろ、中間層が所得を減らし、貧困層は放置されたと言ってよい)。  働くものの賃金はOECD諸国中、日本だけが下がりっぱなし。大学の世界ランキングもアジア諸国にに水を空けられ続けている。

 便利な道具は、企業だけではなく政府の能力や責任感まで奪い去っている。 

 「都教委悉皆」研修、「大学入学共通テスト」の準備のための「思考力・判断力・表現力育成のための定期考査作成」講座は、巨大塾資本ベネッセに丸投げの講座だったという。参加者は都教委の劣化を感じさせる研修だったと言っている。さもありなん、しかし思考力や判断力を狙いとする講習が丸投げとは、冗談としては出来すぎている。(しかもこの「悉皆」研修に、「共通テスト」の受験者がいない高校などは呼ばれていないらしい。受験しない高校生らに思考力や判断力は要らないと教委自身が白状している。指示された事を従順に実行する事だけを期待されているわけだ。「限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養っておいてもらえばいい」と言った三浦朱門の言い草は忠実に守られている。)
 文部科学行政自体が、塾資本に乗っ取られているのだからこれは教育の劣化ではなく意図的解体なのだ。塾資本本体が利潤を確保できるなら、公教育の解体崩壊は痛くも痒くもないに違いない。水道民営化を担う資本が利用者の健康や安全に関心はなく、水道料金値上げと経営陣の高額所得や再民営化時の莫大な違約金に意欲を示すように、塾資本は公教育を解体する過程で膨大な利益を狙っている。崩壊や格差が激しいほど短期的利益は大きくなる。第196回国会で成立した改正PFI法は、水道民営化だけを画策したものではない。

 部活指導の激務に疲れ果てる教師を救うふりをして、公教育本体を民営化し平教師を派遣労働者化することを狙っている。

   高機能を売りにする音声翻訳機が勢いを増している。カーナビの出現で我々の地理感覚が低下したように、
高機能声翻訳機の便利さで言語感覚は鈍くなり、母国語の劣化も誘う。
 幕末の蘭学塾の学習環境は極めて粗末であったが、多くの逸材を産んでいる。空気は適度に薄い方が、運動機能を高める。

 アマゾンの手軽さは画期的で、成長も著しい。2017年度の売上高が日本だけで1兆3335億円(前年比14.4%増)となった。そのうち出版物の売上げは5400億円を超している。しかしその裏側では「小田原の物流センターだけでも開設以来4年で、少なくとも5人が作業中に死亡している。

   外部の手軽で便利な機能に頼れば、我々は自らに備わる能力を放棄し、共同体に対する倫理意識も失う。
 戦争指導選良たちの幼稚で狂信的な現実感覚を産んだ「戦争紙芝居」も、手軽で便利な機能であった。←クリック
 

サムライもどきや「文武両道」ごっこに潜む差別

佐野碩は孤立を恐れぬ自由な越境者であった
 「切腹する、見てくれ」と 侍が、人を集めることは考えられない。侍の美学に反するからである。サムライを自称するsport teamや企業開発集団は、記者会見して「どうだ凄いだろう、賞を呉れ」と衆目を集めずにはおれない。元来侍は、自己抑制的である筈だった。(戦国時代までは、侍は少しも事故抑制的ではなかった。見苦しいほどの兜と旗物差を身につけて、大音声で名乗りを上げねば手柄を認めて貰えなかった。皮肉なことだが、その点では現代のサムライの方が、侍の原点に戻っている。だがsport teamや企業開発集団の念頭にあるのは、封建的身分秩序が固定して後の虚構の士なのだ。)
 自己抑制出来ない現代の「サムライ」に残るのは、批判精神を忘れた忠誠心である。つまりご奉公=対話の不可能性という観念であって、充実した労働生活や地域生活からは遊離する。お上に隷属することを誇りにさえしている。

  部活の枕詞になった文武両道にも、その色彩がある。(元々文武両道とは、武士身分が公の事務を独占兼務していたことに由来する。部活する者が「文武両道」と言うとき、俺たちは大学受験を本務としない百姓や職人ではないという驕りを含んでいる)
 もし「武」にも励むのなら、自己抑制の美徳を発揮して学校要覧やhomepageに大会出場歴や大学合格実績を出すべきではない。泰然と構えて動じないのがいい。それでこそ、他者が、「さすが文武両道」と言うかもしれない。しかし大概は、教師も生徒も「文」=日常の学習に打ち込めない実態の隠蔽でしかない。

 現代の文武両道もどきは、新聞社がらみの興行資本が捏造する美辞麗句溢れる秩序を疑わず、一途に序列を駆け上る。そのために、付け文もデートの誘いも寄せ付けず、文学や演劇を毛嫌いすることを「自分に克つ」ことだとかたく信じている。
 青春は、蹉跌しなければ意味はない。「自分に克っ」て、勝ち点を貯めて守銭奴よろしく悦に入ることではないだろう。勝ち点とは、隷属の証に与えられる食えない褒美。友情や恋愛に優劣も勝ち点があるはずはない。
 授業や試合をサボる最初の一歩の不安。人目を避けて土手でデートすれば、夕陽の落ちるのまで止めたくなる。社会科学や哲学の探究と議論に文字通り寝食を忘れる。成績も落ち、遅刻と欠席が増え両親や担任の説教さえ耳に入らない生の充実。少年たちの内側から押し寄せる、青春の意気。これらは大人や組織がコントロール出来ないが故に、何時も不良行為として名高い。
 
  小津安二郎『麦秋』(1951年)に、主人公の男女が晩春の眩しい日差しの中で交わす会話がある。

 「面白いですね 『チボー家の人々』」
 「どこまでお読みになって」
 「まだ4巻目の半分です」
 「そお」
 全部で5巻だから4巻目の半分ならもう読了も近い。それを「まだ」と言う自己抑制がこの場面には隠されている。                    
 『チボー家の人々』を高校生も大学生も読まない、教師も。『ライ麦畑でつかまえて』さえ手にしない。歴史に生きる個人としての決断を物語の中で味わうことさえしないのだ。臆病なのだ、年若くして精神は老いている。臆病者は群れる。

 サムライ意識から我々がこうも自由になれないのは、村落共同体=ムラ解体に代わる仕組みを見いだせないからである。臆病者は不安から逃れるために、群れを渡り歩くことを厭わない。コミューンを形成するための個人の自由を確立出来なかった近代日本は、特権を死守して華族ムラ、高等官ムラ、原子力ムラ、・・・を形成し、崩壊した村落共同体代わりにしてきた。サムライ意識で結束した集団は、特権にすがりつく臆病者に過ぎない。

  「インターナショナル」の歌詞を訳した佐野碩のごとき、あらゆる係累の柵み、党派中枢の裏切りや転向をものともせず自由に生き抜く越境者が少しも珍しくなくなるまで、この国に擬制のムラに群れる者は跡を絶たない。

「成績」による選抜は、倫理に反する

 承前←クリック 
学習に適した季節は勉強に精進したい
 BBCが報じた 世代間交流プロジェクト「80歳、4歳児と友だちになる!?」を視ながら、考えていたことがある。違った年齢の人間の交流に大いなる成果を見ることが出来るし、又戦災孤児と知的障害者という、違った困難を抱えた者同士の接触も、大いなる効果を生んだ。
 人間は異質の者同士の交流で、互いの能力を高める。そのように出来ているのではないだろうか。もし効果が一切無いとしても、我々は選抜を排して、倫理的である事を選ぶ必要がある。

 同じ年齢、同じ適性、同じ偏差値、同じ階層、同じ障碍、・・・同じ者だけが選ばれて作られる集団の抱える問題。それは如何なる意味で効率的なのだろうか、何処に倫理性を発見できるか。
 川崎のカリタス学園殺傷事件、相模原「津久井やまゆり園」大量殺傷事件、大阪教育大付属池田小殺傷事件、川崎老人ホーム連続殺人事件・・・これらはすべて、成績で揃えれば指導が効率的になるという思考の怠惰が産んだ無差別殺戮である。
 頭のいい子だけを集めれば、いい教育が出来ると本気で考えているのか。障碍を持った人間は人里離れた場所に隔離する、それで効率に富んだ対策が可能になると考えているのか。対策とは問題を起こさないことか。問題や逸脱の中に、成長や発展の契機は潜んでいる。


 もし地位や所得別に教会や寺院が組織されるなら、御利益も神のご加護も階層別だと白状しているのだ。つまりいくら祈っても、効き目は無いから金を出せという脅迫だ。

 公教育に携わる学校が公的支援に頼りながら、能力ある者だけを選抜して得意になる情況を僕は正視出来ない。それは教育内容を誇っているのではなく、宣伝集客戦略を得意がっているに過ぎない。健康保険制度下の病院が、所得や身分で患者を選別するのと変わりなく、非人道的である。
 もし成績の良くない子だけをドッサリ集めて、自慢の良き教育を施し名門大学合格者や数学や物理オリンピックメダル獲得者を排出したというのなら、得意になるのも少しは肯ける。少しと言うのは、もし良き教育が真実効果的であれば、生徒たちは偏差値やメダルに拘ることは無くなるからだ。
 大会出場実績のある若者だけを金に物言わせ集めて、大会出場を告げる垂れ幕で校舎壁面を見苦しく覆ってどうしたいのか。場末の遊女の厚化粧に似て悪趣味だ。
 
 僕がかつて教えていた都立高校と、全く同じ偏差値の私立高校が近所に複数あった。大学入学実績は常に都立校がかなり上回っていたが、面妖なことに両校の偏差値は同一に維持された。僕は私立校と塾と偏差値会社の馴れ合いがあると信じている。
 マスコミはその種のまやかしや絡繰りについて、綿密な調査報道をする義務と責任がある。


 僕が多摩のマンモス都立高校にいたとき、私立中学からの入学生があった。何か問題を起こして追放されたのではない。「自由とは何か、それを自由の中で掴むのはむつかしい。むしろ自由が制限された学校生活の中でこそ知ることが出来るのではないか」と彼女は考えたのだ。一年間の英国留学も終えていた。彼女についてはここに書いた。←クリック  
  僕は彼女の社会科を2年から受け持った。一年生の時から勇ましい話が伝わってきた。つまらない授業を容赦せず、廊下や職員室で抗議する、しかも理路整然と。彼女を受け持つ教師で批判に曝されない者はなかった。だから彼女のいるクラスでは、間の抜けた授業をすることは出来なかった。僕は逞しい女闘士を想像した。しかし2年になって授業に出ると、毅然とはしているが小柄で笑顔の素敵な少女であった。時々準備室にやってきて話し込むこともあった。礼儀正しいのも特徴で、他の生徒たちがノックもせずいきなり「いるー」と覗き込むのとは雲泥の差であった。なるほどこれなら、抗議される教師も乱暴な対応は出来ないだろうなと思わせた。
 圧倒的なのは、彼女のノートであった。僕はノートを適時集めて、質問に答えたりコメントを入れたり間違いを訂正したりしていた。その学校は、他の学校に比べ自由で豊かなノートを作る生徒が多かったが、彼女のものは群を抜いていた。まさしく作品であって、字や図柄の配置までがある種の芸術性を帯びていた。文化祭でも多様なアイディアとリーダーシップを発揮、抜きん出ていた。
 同学級の生徒たちは、いつの間にか授業中の姿勢や質問までが影響され、幼稚さが消えていた。「~は何ですか」や「どうやるんですか」ではなく「~はどこで、何で調べられますか」に変わっていた。
 

 三年生になったある土曜の午後、彼女の私立校での同級生が5、6人やってきて「授業を見せてください」という。
 「今日は土曜だよ」と言うと「あっ忘れてた」と言う。彼女たちは大学生なのだ。一年留学していた件の生徒より早く大学に入っていた。

 即席の授業をした。知的好奇心も凄まじかったが、静寂と賑やかさのけじめが美しく、食い入るような眼差しは僕の目に向けられていると言うより、その奥の大脳を射貫くように鋭かった。次から次へとアイディアや事実が甦り、授業が展開するのに驚きもした。僕はこんな事も蓄えていたのか、それは聴く側の生徒の眼差しや発問が耕し引き出す。                                                           
 僕は、彼女のいた私立校教師の幸福を思った。

 東大生を教育実習で受け入れたことがある。好奇心に溢れ行動的な学生だった。実習に先立って文献を指定すれば、かなり読み込んだ。
  いつもの年は勤務高卒業生だけの実習。指定した文献すら読まない気力のない学生が、この東大生に引き摺られるように読み討論し質問しに来るようになった。更に授業案を互いに批判助言し、研究授業の模擬授業や、研究授業後反省討論まで熱心にやった。時には暗くなるまで、教科以外のことも語り合った。
 教育実習生に、国立大学生や名門私立大生が加わる偶然は
その後なく、研究授業さえ一時間の大半を残して立ち往生する例年に戻ってしまった。
 では東大からの実習生は何を得ただろうか。それは、他大学の実習生や生徒たちにも説明できるよう言葉を選ぶようになったことだ。ある概念を説明するのに、異なる言葉を使い理解を広げることは、自らの中にあった概念を再検討し修正することでもある。同じ学力の学生同士では、その機会はない。説明なしで、あるいは不十分な説明で「分かってしまう」からだ。
 このことが彼らの将来にどのような影響を及ぼすか言うまでもあるまい。
 選別しないことは、双方に大きな効果をもたらす。そのことはすでに明らかになっている。にも関わらず選別を続けるのは、選別事態に重みを持たせるために他ならない。優れた才能が輩出し、国民の学力の底上げが実現するより大事なこと、それは何か。受験産業の繁栄である。まともな国では見られない、受験産業は国民総生産を挙げるどころか、蝕んで腐らせている。なくてもすむものは、廃止すればよい。

 事前の選抜と定員を一切廃止して、やや厳格な進級卒業制度に切り替える。選抜がなくなれば、我々は三学期いっぱい落ち着いて授業に精進できる。秋も春も素晴らしい勉学の光景を生むだろう。今、高校生と大学生は選抜のためにどんなに学ぶ時間を失っていることか。

異質の他者どうしが交流して生まれる幸福感、尊厳、能力の回復・・・

NHKからこうした地道で良質な番組が消えている
 地球ドラマチック「80歳、4歳児と友だちになる!?」
  NHKのホームページは、BBC制作のドキュメント番組をこう紹介している。

「番組は「高齢者の社会的孤立や孤独は、健康に影響を及ぼす深刻な社会の課題の一つ。」という認識からスタート。その上で、「薬ではなく、社会関係や人間関係を改善するだけで、孤独な高齢者をどこまで元気にできるのか?」を科学の視点で検証します。6週間に渡って、高齢者たち、子どもたち、そして専門家が挑戦する、まさに前代未聞の画期的なプロジェクトです。

  ブリストル郊外の高齢者施設に4歳児10人がやってきた!世代間交流プロジェクトを通して、高齢者の幸福感、運動機能、認知機能は、はどう変化するのか?科学的な検証を行う。参加者の一人、77歳のジーナは、夫が認知症になって以来、気分が落ち込み笑顔もほとんどみられない。しかし、プログラムを通して、子どもと手をつなぐなど自然と触れ合う時間が過ぎる中で、ジーナも笑顔をみせるようになる…(イギリス2017年)」
   BBCの番組ではこの取り組みが、僅か6週間で大きな成果を上げたことを伝えている。
 僕が何より関心を持ったのは、英国の老人ホームの「豪華」さである。領主や貴族の館が敷地ごと居心地の良いNursing homeに作り替えている。ベッドや椅子など家具も館の雰囲気を壊さない上質なものであった。日本ならこんな老人ホームに入るには、億を超す一時金と月々数十万円の費用が掛かる。
 英国の[bristol nursing home]を画像検索すればいくらでも出てくる。任意の英国の町名でやっても出てくる。

   英国人労働者は退職後の貯蓄に余り関心を示さないと言われる。45歳以上で預金額が9000ポンド(約140万円)未満の割合は2014年度末で全体の40%。BBCの例、これは特殊な階層向けの施設ではないか、そう思う人もありそうだ。だがそれは詮索が過ぎる。
 英国では誰であろうと国民が老人ホームに入居する場合、住宅、貯蓄、年金などの資産併せて500万円以下なら全てその費用を国が負担する制度になっている。ビバリッジ報告の精神「揺り籠から墓場まで」←クリックは、今尚守られている。長いナチスドイツとの闘いを経た戦後の苦しい生活の中で英国人が獲得した制度だ。ちっとやそっとでは揺るぐはずもない。労働者や福祉嫌いのサッチャーが腕まくりして戦争で国民を騙しても、これは残っている。
 だから英国の労働者は、140万円の貯蓄で悠々と生活できる。出世競争で過労死することはない。中学生や高校生は、日本のように将来に備えた受験競争で鬱になることも、推薦入学を狙って部活で体罰や虐めに耐える必要も無い。
  英国の少年は、政治や環境もに関心を持ち自由に行動できる。演劇や音楽にも夢中になれる。祖父や祖母たちの生活が保証され安定していることが、少年たちを若者らしい正義に導く。だからhate言説にも引っ掛からない。

 英国のNursing homeに比べれば、日本の老人ホームはどう見てもやはりウサギ小屋止まり。大名の館や豪商の屋敷が庭ごと老人ホームになることは想像すら出来ない。ウサギ小屋程度でも順番待ちで、待っている間にあえなく死んでしまう。それが嫌なら月数十万円を負担する必要がある。
 僕は考えた、日本の老人ホームに4歳児が大勢やって来て何処で走り回れると言うのだ。大勢の老人が保育園に出向くのか、どうやって。特別の施設を作らねばならない、何処にどうやって。東宮御所や各地の御用邸をお使い下さいとでも、皇族は言うだろうか。米軍基地や自衛隊基地を無くしてそれに当てようと言う議員は何人だ。

 「80歳が4歳児と友だちになれ」は゛、高齢者の幸福感、運動機能、認知機能が驚くほど改善すると言うことは、取り立てて驚くほどのことはない。異質の厄介な困難を抱えた者同士が、政府の無策無関心から同一箇所に押し込まれ、驚くべき変化が生じたことがある。大戦直後、米本土も多くの難儀に見舞われた。その一つが戦争が産んだ親の無い子たちである。戦災孤児が町に溢れ切羽詰まった政府は、こともあろうに知的障害者の施設に放り込んで厄介払いをした。しかもかなり長期間。
 戦災孤児たちが成長するにつれて、他の青少年に比べ知能が優れていることが次第に分かって本格的調査が始まったことがある。知的障害者の美的特質は偏見が無いこと、飽きないこと、丁寧なことだ。親の無い乳児や幼児の片言の言葉や行動に笑顔で付き合い続けたのである。親に出来ないことを彼らは立派にやってのけた。この意図せざる接触が知的障碍者の自律や成長を促したことも大いに考えられる。
  だが儲からないことや見放された者に、世界の警官を目指す国は無関心であった。

  老人と子どもは相性よく作られている。団塊の世代の僕が鹿児島にいた頃、大人たちか漁や農作業や鉄道や役場なとに出て学校も始まれば、老人と子どもだけが地域に残って賑やかだった。泣いたり、喚いたり、怪我したり・・・。町には幼稚園も保育園もなかった、母親たちはどこも家事で忙しかった、すべてが手作業だった、着物もおやつもおしめも出産も葬式も結婚式も祭りも何もかもが手製であった。
 路地や寺社の境内が、年中無休の即席保育所になり、近所の老婆たちは路地に面した家の縁側で子どもたちを見守りながら手作業し、世間話に余念がなかった。子どもは自由で安全だった。婆さんたちは子どもたちの歓声を聞きながら、「こん衆(し)ゃ、もう戦争に捕られんとじゃな」と何度も語り合った。どこに行っても、老人たちは機嫌が良かった。平和が老人と子どもにとって、最大の福祉であったと思う。子どもたちにとっても老人たちにとっても、黄金時代であった。彼女たちは敗戦間際、浜にかり出されて竹槍で鬼畜米英に立ち向かう訓練をさせられ、夫や息子たちを戦場で失っていた。
 だがその中から、ビバリッジ報告に類する社会福祉的発想は生まれなかった。直ちに戦争で儲けることに躍起になってしまった。そのことについての思想史的考察をしなければならない。貧しかったことが言い訳にならないのは、英国やキューバが歴史の中で証明している。 続く

若者を貧困と無知から解放すべし

    「病気の原因は社会の貧困と無知からくる。」「だがこれまで政治が貧困と無知に対してなにかしたことがあるか。人間を貧困と無知のままにしては置いてはならないという法令が出たことがあるか」   黒澤明は『赤ひげ』で新出去定に怒りを込めてこう言わせている。             ...